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 ムスフォトはカウンターの上で手を泳がせて、すぐやめた。俺は言った。


「タバコが少なくなってるらしい。⋯⋯ハイ」


 俺は自分の巻きタバコを一本取り出して渡した。


「ワシが人間のオンナなら、君に特別な好意を寄せたかもしれん」


「ハッハッハ! おもしろいね」


 ムスフォトも笑いながら、それを取って咥えた。俺はライターで火を点けてやった。そういえば、その必要もなかったのかもしれなかったけれど。ムスフォトはそれで気持ちよく一服を吸い込んだ。


「うむうむ。悪くない」


「海とか森とかが見えるわけじゃないけどね」


 俺がそう言うと、ムスフォトはスッと細い目をした。それから言った。


「よく晴れたタバコ畑と、生真面目な人々が見える⋯⋯」


 俺は自分のシガレットケースを眺めた。


「⋯⋯なるほど」


 ムスフォトは最初の灰を落として言った。


「君はリンドウの花言葉を知ってるか」


「俺は人間の中じゃそんなにナイーブじゃないよ」


 ムスフォトは喉の奥でクククと笑った。


「『誠実』『正義』それから、『悲しんでいるあなたを愛する』⋯⋯最後の一つは、正直言ってワシらにはよく分からん感覚なんじゃ」


「誠実と正義は分かる?」


「ワシらも成すことがあるからな。それは君らの感覚でいうと、『仕事』というのに近い。それを待ち受ける側からすれば正義と言えんこともないじゃろうし、順々(じゅんじゅん)、確実にこなしていくというのを守るのは、それは誠実に近い感覚じゃと思っている」


 俺は感心しながらそれを聞いていた。ムスフォトは今、悪魔的観念を右手に取り、それを人間的観念にひっくり返して左手で俺に渡しているらしい。


 そして俺の興味を強く引いているのは、その中には確実に取りこぼされてる分があることをムスフォトが承知しながら話をしているということだった。


「人間には人間の観念があり、悪魔には悪魔の観念がある⋯⋯」


「うん? なんじゃ?」


「あなたの話を聞いてての、今のところもっと包括的ほうかつてきな感想」


 それは俺の口から、極めて自然に出た言葉だ。


「ふむ、うーむ⋯⋯。まさしくそういうことじゃな」


 ムスフォトは感心したように唸った。それから身体を揺るように笑って言った。


「フフン、もっと飲め飲め! ワシの『誠実』な勧めじゃよ」


 俺のグラスに、リンドウの酒が新しく注がれた。


 結局ムスフォトに勧められるままに俺は随分ずいぶんその酒を飲んでしまった。一度店主のエルヴィンがやってきて、「あなた 随分強いねぇ」と言っていった。どうだろう。それほどでもないと思うが。




 遅くなってから、俺とムスフォトは店を出た。勘定の全部をムスフォトが半ば無理に払ってしまった。「いいからいいから。ワシは君が考えてるよりも、今夜は楽しい思いをしてるのじゃよ」と言って結局は押し切られてしまった。

 悪魔がどんな価値観で金銭を考えるのかは、俺には分からない問題だ。


 二人で店を出ると、向かいの建物の屋根の上に月が出ていた。半分を少し超えたほど膨らみ、少しずつ少しずつ、真っ暗なその裏側から何者かが空気を入れているような感じがした。いや、そこに空気はない。


 脇を見ると、ムスフォトもその月を見上げていた。彼の目の中に金のすじが反射していた。まるで瞳の中に、貴金属の鉱脈を持っているみたいだ。ムスフォトはゆっくりと言った。彼もだいぶウィスキーを飲んでいる。


「ワシとイデオナは、何日か山の中を行くことになる。君の話していた車では、ちっと厳しいかもしれん」


「山道を何日か歩く?」


 ムスフォトはクククっと笑った。


「いや、そんな面倒なことはしない。乗り物はちゃんと用意するさ。どうじゃ? ワシらと一緒に来てみないか」


 何日かをかけて山道を進む。乗り物はある。この辺りの山は森こそ深いものの、地形的にはそれほどけわしくはない。地図の上ではそうなっている。俺は気になっていることをいた。


「それは、あなたたち悪魔の仕事には差し障らないの?」


 ムスフォトはゆっくりと頷いた。


「ああ。今回はのんびりとしたもんじゃ。どうじゃ人間、珍しいものが見られるかもしれないぞ」


 そう言われると、俺は俄然がぜん興味が湧いてきた。


「よし、いこう。つきあうよ」


「そうか! ようし、のんびりいこう」


「うん。今日は酒をありがとう」


俺はムスフォトと握手をして別れた。ホテルの部屋までの道を歩く俺の背中を、ゆっくりと膨らみつつある金の月がどこまでも見送っていた。


 そのとき決めた先の道は、結果的にはそれなりに険しくもあったし、なにより俺を本当に珍しいものを見た人間に変えることになった。


 それは絶対性を持ちながらも、あくまで個人的なものとして胸に残ることになった。誰かに話すことがなかなかないタイプのひっそりとした思い出を手に入れるように。

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