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男が何かを思い出したように空中の一点を仰ぐと、それにつれて上着の下にのぞく毛葺きの鞘が揺れた。
それはまるで、林の奥に憩う年取った狼が気分良くゆっくりと尾を揺らすように見えた。
煙を吹き出すムスフォトの名の男の瞳が一瞬金色に光ったような気がした。口の中が緊張のために乾く。
「悪魔? あなたは悪魔なのか?」
「まあ、人間たちが古来からそう呼んどるだけじゃがな」
ムスフォトは運ばれてきた灰皿に灰を落とし、そしてウィスキーのグラスを取り上げると美味そうに口に含んだ。
空中に漂ったシガリロの煙は、古い時代の土の層が記憶を噴き出しているような匂いがした。かつて繁った木々と、その枝で鳴いた鳥たちの記憶だ。ムスフォトは俺の顔を興味深そうに眺めると言った。
「ふむ、君は、少しは感じるらしい」
「⋯⋯感じるって、何を?」
「いや、それほど珍しいことではないが、アンタどちらかというと我々の声を解りやすい体質な方じゃ」
「声?」
ムスフォトは空中にある何かを一つひとつ摘まみ上げるような動作をした。
「ふむ。まあ、記憶のようなものであり、それにあらず。音のようなものでありそれにあらず。匂いのようなものであり、それにあらずだが、なんというかこう、ワシらの纏っているある種の情報があるんじゃ。それがアンタ、少しくらい解るようじゃ。今、昔の木々を感じたろう」
男はシガリロの先を軽く上げた。そうだ。その煙から、俺は何かを感じ取ることができた。
自分の肺の中がキンと冷えていくような気がした。それを見て取ったか、男は柔らかくかおを崩して言った。
「まあ、そう緊張するな。ワシらは確かに魂のやり取りをするが、君のは取らないよ。ワシらのすることは、自然の流れの中にあるようなことじゃ。長雨が麦を腐らせることはある。しかしどうじゃ? その雨の一粒一粒に悪気があるわけじゃない。その畑の上に黒い雲が通る運命なのじゃ。⋯⋯ワシらは、」
男は空中で掴んだ架空の何かを、パッと指で弾じいて散らした。
「その雨粒のようなものじゃ。ただ生き、ただ死ぬ人間の命を、故意に動かしたりするようなことはなしない。とてもとても、自然な存在なのじゃ。ワシもイデオナも、アンタに危害は加えない。安心するんじゃ」
男の言うことは信じたものかどうか判断に迷うものだ。しかし、不思議なことがいくつか起きていることは事実だし、それの種明かしがこういうことだという説明があれば、⋯⋯俺はとりあえず、ムスフォトの言ってることを全面的に正しいという過程をすることにした。
「オーケー。もう怖がりゃしない」
「フハハ! 君はなかなかいい男じゃな」
俺のステーキが運ばれてきた。胡椒の香りがパッと弾けるように立ち上がった、美味そうなステーキだ。
「あぁ⋯⋯、あなたの話、食べながら聞いてもいい?」
「もちろん! というか別に、何か説明しなきゃいけないことがあるわけではないんじゃ。縁を持った人間と、ただ酒を飲みたかっただけじゃ」
俺は男の中に、誠実さとある種の可愛らしさを見たような気がした。




