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傷跡  作者: SET
7/7

7 2019年8月

 ありきたりだけれど、やっぱり人は、知ることで生きながらえている動物なのだと思う。

 あのときの後悔を伝えたい。たとえ、迷惑がられたとしても。


 みがかれた白いリノリウムの床が蛍光灯の光を浴びて、壁に寄りかかるわたしの姿をぼんやりと映している。

 夏海はけさ、からだが見るからにこわばっていて、ネクタイをうまく締められず姿見を蹴り飛ばしていた。話し出したときは、なんでもないところでつっかえたり聞き取れない言葉があったりして、けさを思い返して不安になった。けれど話の後半になると手もとの原稿を見る回数も減って、言いたいことが言えるようになっていた。

 〇〇大学のF棟2階201教室、教員側の入り口の扉が開く。顔をあげると、出てきた夏海と視線がぶつかった。彼女が出てくるのにはだいぶ時間がかかって、二十名ほどいた聴き手はすでに部屋をあとにしている。この狭い廊下には夏海とわたししかいない。

「どうだった?」

 パンツスーツ姿の夏海が、少し大きめの革靴の音を響かせながら、うれしそうに駆け寄ってくる。ほめてくださいと言っている表情から目をそらし、

「最初のほうはだいぶあがってたけど」

 意地の悪いことを言いたくなる気持ちをこらえて、また目を合わせる。

「後半はきちんと話せてたよ。すごかった」

 と言った。

「よかったー」

 言いながらくるっとからだを回し、首から下げた入構許可証のカードホルダーが宙を舞って、わたしの鎖骨のあたりにかるく当たった。隣におさまった夏海は壁に寄りかかり、後頭部を二度、三度と軽くぶつけ、

「死ぬほど緊張した」

 休日は市民向けの公開講座をやっていることが多いこの場所で、夏海は、卒業生として話をした。

 講座のタイトルは「傷跡と付き合っていくということ」。自傷行為の経験者が、自傷行為のきっかけや経験などをもとに、自傷行為との付き合い方について話すというものだった。

 親子に見える組み合わせが二組ほどいて、他は若い女の子がふたり、男の子がひとり、わたしの親くらいの人やおじいさんおばあさんが何人か。あまり多すぎない人数と、当事者に近そうな聴き手ばかりというのが、夏海にとってはよかったのかもしれない。

 夏海は壁からすぐに背を離して、寒そうに両手をすり合わせる。

「設定温度、誰かがいじったのかな。早く出よっか」

 頷くと、夏海は階段に向かった。後についていく。

「でも……本当に頑張ったよ」

「うん。ほとんど夏希のおかげだけどね」

「そうかもね」

「うわ。謙虚さが足りない」

「夏海が言ったんでしょ」

「そうだけどさー」

 三階への階段に頭をふさがれた一階への階段が、わたしたちの声を奇妙に反響させる。冷房のために閉め切られた建物の中にまで、アブラゼミの音が少し聴こえてくる。

 踊り場にさしかかると、もう階段を降り終えようとしていた夏海が立ち止まり、見上げてきた。

「もう一回夏希とここに来るなんて思わなかったなあ」

「そうだね」

「F棟は夏希と一緒の授業が多くて、楽しかった」

 高校三年生の進路選択のとき、夏海とわたしはふたりとも大学進学希望で、文系で、学力も家の経済力も同じくらいだった。同じ大学を選んだとしても、まったく不自然ではないどころか、違う大学を志望するほうが不自然だった。けれど夏海が不安がって志望大学についてさぐりを入れてくるのが嫌だったし、夏海と四六時中向き合っていたら苦しくて仕方がないはずだと、別の大学を選ぶことも考えた。それでも最後は心配な気持ちがほんの少しだけ勝って、同じ大学の別の学科を選んだ。無事に夏海とともに合格したときは、わたしか夏海のどちらかが落ちていれば、と少し思った。

 学科は違ったけれど部屋は一緒だった。いまでも、楽しかったとだけ振り返ることはできない。夏海の嫌なところだってたくさん見てきた。

 そういった気持ちをすべて呑み込んで、

「うん」

 とだけ応えておいた。

 階段を降りて、外に出る。

 炎にあぶられているような熱気とともにアブラゼミの鳴き声が襲いかかってきた。冷えすぎていた棟内との差に体がついて行かず、軽いめまいを覚えた。暑さを愚痴りあいながら駐車場まで向かいかけたところで、

「あ。入構証返し忘れてた。先、車乗ってて」

「うん」

 車の前まで来て、気づいた。キーは夏海が持っている。

 夏海のことばかり言うけれど、わたしもたいがいだ。

 陽をさえぎるもののない駐車場にうんざりして、大木を丸く囲むように設計されている、木陰のベンチへ移動した。春や秋の夏海はよく、ここでひとりでお弁当を食べていた。声をかけると、ずっと探していたものを見つけたように、喜んでくれた。

 声をかけただけでそんなふうに喜んでくれる人がいることが、わたしはとてもうれしかった。

 思い出の輪郭をなぞりながら、しばらく、ぼうっと足元を見つめていた。

「どうしたの? 車が見つからなかった?」

 いつの間にか夏海が近くまで来ていた。走ってきたのか、息づかいが荒い。顔も襟元も汗まみれだ。そこまで急がなくてもいいのに、変なところで律儀だ。

「キーが夏海だったの忘れてた」

「あ! あー……そうだったね」

「ねえ、覚えてる、このベンチ」

 言われた夏海が、周りを見回し、最後に大木を見上げる。

「うん。夏希とよくお昼を食べてたところ」

 わたしは夏海が覚えていてくれたことに満足して、立ち上がった。駐車場へ戻る一歩を踏み出したとき、

「さっきはちょっとふざけて言ったけど、本当に夏希のおかげだよ。きょう話ができたのは」

 わたしは、どんな顔をして聞けばいいかわからなくて、振り向かずに立ち止まった。

「夏希がいなかったら、わたしはわたしのことなんて好きになれなかった。就職課の人になんてとても話せなかったし、就職課の人に話してなかったら、こんな機会を卒業してからもらうこともなかった。自分の中で同じ体験した人や家族の人に伝えたい言葉があるなんて、気づきもしなかった気がする」

 それは夏海が頑張ったからだよ、と応えたい気もしたけれど、うまく口が動かなかった。あの四年間で味わった不安と苦しみが頭の中をかけめぐる。幾度か、新たな傷跡を自らつけてしまったときの彼女に対する気持ちの悪さが、不快な熱気と絡み合う。

「出てくるのが遅くなったのはさ、話した後に女の子と男の子が来てね、少し、話したんだ。腕の傷跡も、めくって見せてあげた。女の子も男の子も、なんだか泣いちゃって、つられてわたしも少し、泣いちゃった」

 夏海の声音はあくまで明るい。同時に、傷跡を見慣れてしまったわたしとはわかりあえない、どうしようもない悲しみをはらんでいる。

「伝えることでやわらぐ気持ちもあるんだなあって思ったよ」

 あのときベンチでひとり、もくもくとお弁当に箸をつけていた夏海が浮かぶ。

 夏海にも、わたし以外との世界がもっと広がればいいとは思っている。だけどあの顔を――無表情から喜びに変わっていく顔を向けてもらえなくなることは、少しいやだ。夏海の苦しみも悲しみも、わたしだけのものであってほしい。そんな気持ちの悪い独占欲も、自分の中に根を張っている。

「夏希も、苦しいことがあったら――ささいなことでもいいから、教えてね。夏希はためこんじゃう気がするから。わたしが原因なときは謝るしかないけど……外で起きたことなら、わたしも一緒に苦しんであげられるし。こんなこと言うとまた気持ち悪がられるかもしれないけど、なるべく、わたし以外じゃなくて、わたしに話してもらえると、うれしい」

 夏海とわたしは、同じときに同じようなことを考える。だけどそれを素直に口に出すのは、夏海だけ。感傷的な言葉を言うのが気恥ずかしくて、わたしは黙ってしまう。

 だからきょうは、勇気をもって、ふりかえった。

「わたしも、同じようなこと、考えてた。気持ち悪いかもしれないけど、夏海のことは、一番先に知りたい」

 夏海は、汗に濡れた真剣な顔を、ふわっとゆるめた。ゆるめてくれた。

「女の子たち、夏海の苦しいことを簡単にわかってあげられて、少し、ずるいなって」

「わたしたちは、わかりあえたから泣いたわけじゃないよ。たぶん、自分だけじゃなかったって、安心して泣いたんだよ」

 夏海は額から垂れた汗に右目を閉じ、スーツの袖で汗をぬぐった。あとでクリーニングに出すように言わなきゃ。

「わたしが本当にわかりあいたいと思うのは、夏希だけ」

 夏海の周りでアスファルトから立ち上るかげろうが、急に風景をぼやけさせる。

 ゆっくり二度まばたきして、こらえきる。

「ありがとう」

 混ざり合ってどう呼べばいいのかわからない感情を持て余しながら、何に対してかわからないお礼を言った。

 家の冷蔵庫には、別々に買い足して一パック余ってしまった卵がある。帰ったら、夏海の大好きな、砂糖たっぷりのオムライスをつくってあげよう。

 オムライスをほおばる夏海をながめながら、きょう、夏海の話を聞いて感じたことを、頑張って伝えよう。

 伝えることで、変わることがあるかもしれないから。


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