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11.深すぎた絆

「……北川ほど、世界を丸ごと愛せる強い人を他には知らない。

 北川は悪を知らなかった。知らないと思えるほどに、全てを受け入れ、そして包み込んでしまう人間だった」


 それは確かに怖いくらいだった、と僕の言葉を強調する。

 悪というものを知らないかのように――。だから自分への憎しみや殺意を感じても、その死すら受け止めてしまう。悪を悪で返すことも、悪を善で裁くこともせず、ただ手を伸ばして包んでしまう。

 その行為は傍から見れば愛情深く慈悲深いけれど、当事者であれば異常にも思える。素直に敵意を返してくれた方が人間らしくも見えてしまう。


「一緒に住んでいても喧嘩にすらならなかった。私がどれだけ腹を立てても、あいつはやけに優しい顔でごめんね。……それだけだった。

 あいつは見下げている訳じゃない。どんなに理不尽に責め立てられても、それを自分は受けるべきだと思っている節があった」


 ごめんね、と言ったあの時の彼を思い出す。好きにはなれなかった。

 優しさを向けることは意外なほど難しい。たまに実行できれば喜ばれ、たまにしかしないと白い目で見られる。しかし優しさを示しすぎれば気味悪がられる。その裏を探ろうとしてしまう。――この世界はひどく生きにくい。


「一度くらい感情的になってほしかった。殴り合ったって良かった。そうやって人間らしくぶつかり合えれば……きっとあいつを純粋に尊敬できた」


 それは自分勝手な願いだ。もっと単純なことで――伸ばされた手を取るだけで、彼等ならより深く信頼し合えただろう。ひとつの秘密を共有し守り抜いてきた彼等なら。

 けれどそれすら難しくあることも理解できた。理屈ではないのだ。生まれた負の感情を制御できるなら、こんなに痛ましい罪は生まれない。



 俯いていた田浦が身体を反転させ、柴山の肩を掴む。


「何でだよ、何でっ! 何で思い留まれなかったんだよ!」


 掠れた声で叫ぶ。どんな表情でいるのか、背中を見ているだけでは分からなかった。ただその肩越しに見える手の震えが、どれほどの力が込められているのかを表していた。


「何を見てたんだ、何をっ、あんたは……俺は、何なんだよ……」


 柴山に向けられていた筈の詰問が向きを変え、譫言のように言葉が空気に消える。

 縋り付くようにして膝から崩れ落ちた。行き場をなくした拳が腿を打つ。繰り返し繰り返し、何度もそこにある何かを叩き潰すように。


「……俺だって、皆と一緒じゃんかよ……こんなに近くに居て、何にも気付かなくて、困らせてることも知らなくて」


 田浦は恐らく、彼の言葉を思い出していた。何も気付かず彼の絵を絶賛していた人達と同じ行為をしていたことを理解する。そしてそのことに気付いていながら自分を裏切りたくないと言った彼の思いを胸に受けて、彼を追っていただけの自分を後悔していた。

 彼は田浦のことを可愛がっていた、大切に思っていたと思う。何より、大事にしてきた凉原奏を真っ直ぐな姿勢で追い掛けていたから。自身に向けられた尊敬の念にそれを大いに感じ取っていたから。

 だから彼が田浦を煩わしく思うなんてある筈がなかった。しかし誰がそう言って励ましても、今は白々しくその耳を通りすぎるだけに思えて、声を掛けられない。――彼が居てくれたらと思ってしまう。


 小さな呻き声と共に蹲っていた田浦が、やがて顔を上げる。柴山を見上げた。


「……あんたのことも、苦しめていたんだな……」


 悪かった、と言った声が震えていた。丸まった背が、横顔が、日差しを浴びて光るように見えた。

 凉原奏として北川さんを知りたいと強請る田浦の姿は、柴山にとって苦しみでしかなかったのだろうか。田浦の様子を話した時の柴山はそんな風には見えなかった。しかし人の心はあまりに複雑で、沢山のものを見にくくする。

 ただ黙って事を見つめていた久留米がそっと膝を付き、田浦の身体を抱き締める。壊れないようにそっと、しかしその震えを包むように強く。固く閉じた瞼の隙間から輝きが零れていった。


「私は謝ってもらえるような人間じゃない。罪を犯し、君達を巻き込んだ」


 柴山の湿った声が弱く鼓膜を撫でる。

 誰もが苦しまない道があったなら――そんなことを考えてしまう。今更どんなことを願ったとしても何ひとつ元通りになんてなりはしない。彼は戻ってはこないし、その心をリセットすることもできない。同じように抱き締め合うことすら、一度汚した手では罪深い。動き出すことさえ許されないとでも言うように直立不動のままで垂らした頭は、柴山の懺悔だった。

 だからこそ柴山には果たさなくてはならないことがある筈だ。このまま終わらせることはできないのだ。


「話していただけませんか、ここで何があったのかを。少なくともお二人には知る権利があると、僕は思います」


 全てを明かすことが傷付けた感情への報いになるとは思わない。死に触れ、疑われまでしたのだ。それだけでは返せないほどのものを彼等は負っている。しかしここに留まっているのは、少なくとも真相を知りたいと思っているからだろう。柴山はそれに応えなくてはならない筈だ。

 僕に向けた顔を柴山はまた二人に戻す。小さく俯き唇を引くその姿は、口を開くことを躊躇っているようだった。それに気付いたのか久留米が視線を上げ、落ち着いた表情で頷いた。同時にまた一粒涙が落ちて、それが合図になった。



 どれほど疎ましく思っても北川は私の親友だった、と柴山は話し始めた。決してわざとらしく作られた台詞でなかった。


「殺したいほど憎んでいた訳ではなかった。本当に一度だって頭に上ったことすらなかった。だからあいつは今日殺されるなんて分からなかった筈だ。

 それでも今日だと断定できたなら、それはあいつ自身が……」

「……今日で終わりにしたかった……?」


 途切れた言葉を引き継いだ。柴山はそれに応えるように頷く。


「……私の目はもう、遂にどうしようもないところまできている。赤と橙の違いも、青と緑の違いも分からない。明るいか暗いか、はっきり分かるのはその程度だ。

 早くから諦めてはいたが、これで完全に画家としての道が絶たれた」


 見えていた色が見えない。人々を魅了してきた色彩を自身が識別できなくなった時、描きたい絵を描くことができなくなった時、どれほどの苦しみがその心にのし掛かるのか。久留米と田浦には一層強く理解できただろう。静かな口調で語る柴山よりも、悲痛な表情を浮かべていた。


「今日十時に来るよう連絡があった時、北川は凉原奏をやめると言った。なつ子さんにも田浦君にも、本当の事を話すつもりだと。そうして終わりにしようとしていた。それは恐らく私が永久に戻れないと分かったからだろう。

 北川にとって凉原奏であることは私が戻るまでの繋ぎだっただろう。しかし私にとっては既に意味が変わっていた」


 柴山は努めて途切れないように、自身の思いも含めて話すつもりでいるらしかった。


「私の中ではもう、北川が凉原奏だった。

 周りの評価云々は関係なく、自分が全うできない夢を託したいと思っていた。この目が見えなくなるまで、夢の行方を見届けたかった。だが……あいつはやめたがっていた。

 それを止めるために夜中の内に来た。一時を過ぎていたと思う。その時間も起きているのは分かっていたから、できるだけ早く話を付けたいと思った」


 その足がそろりと動き出す。靴底の擦れる音がする。掻き分けるようにして道をつくりながら進み、辿り着いたのはケースに入った絵の元。依頼によって探した、北川さんが最期の瞬間まで眺めていた絵。凉原奏のサインの入った――柴山自身の絵だ。

 床に置かれたままだったのを拾い上げ、フックに掛け直す。傷が入り、角の欠けてしまったケースの上からでもその絵はやはり胸を打つものがあった。柴山はその絵を見つめたまま口を開く。


「北川は私が着いた時、こうしてこれを見ていた。君の絵の中で一番好きな絵だと言って笑っていた。

 たった一枚、この絵だけはどこにも出したことがない。二十年前……北川をイメージして描いた絵だ」


 だから彼はこの絵を探すという依頼をしたのかもしれない。もしかしたら、最期に自分以外の人間に見てほしかったのかもしれない。それはプレゼントを喜ぶ少年がはにかみながら見せびらかすように。誇らしさとくすぐったさを持って、自慢したかったのかもしれない。


「「少しでも君の絵に近付きたくて、この絵を何度も練習したよ。それでも同じようにはならなかった」。

 あいつはそう言ったが、何枚並べられても何が違うのか分からなかった。それはこの目のせいかもしれないし、あいつにしか分からない違いがあったのかもしれない。何にせよ私には同じに見えた。

 “凉原奏の絵”をあいつは描いている――そう思った時、頭が沸騰するように熱くなった」


 頭の疼きを抑えるように手が添えられる。


「それを望んでいたし、寧ろそうであるよう私自身が求めてきたのに。それなのに現実を目の当たりにした瞬間、私の今までの努力も葛藤も、全てあいつのものになるように思えた。最初から凉原奏はあいつで、私は不要だと言われている気がした。

 ……冷静になった今なら、馬鹿げた考えだと思う。だが止められなかった。

 カッターを掴んで、衝動のままに切り刻んだ。何度も、何度も傷付けた。あれほど感情を露わにしたことはない。そこら中のものを倒して、投げて。そうやってあいつの心を乱れさせたかった。……それでもあいつは怒りもせず止めもせずいつもみたいに、ごめんね、と謝った。

 自分の方が酷いことをしている自覚はあったのに、それだけであいつの方が悪いんだと錯覚した――私は狂っていた」


 振り返り乱雑な床を見つめるのは、その目に狂気的な自身の姿を思い出すためなのか。

 刃が出たまま転がっていたカッターの存在を思い出す。それらの絵はイーゼルに置かれた描きかけのキャンバスと同じように、無残な姿になっているのだろう。

 狂っているという表現が正しいのかは分からない。しかし判断を誤りその手を止めることできなかった柴山は確かに、自分の感情に呑み込まれて狂わされていたのかもしれない。


「最後にその絵を描けて良かった、と笑っていた。

 自分の絵を切り刻んでいる相手に、気持ち悪いほどいつも通りだった。マイペースで鈍感な振りをして。

 その最後という言葉を凉原奏としての最後だと受け取った。本当にやめる気でいることが分かって、気が付いたら動き出していた」


 無感覚を装って友の変わる様を見ていた彼の心情はどんなものだったのだろう。

 細かいことは覚えていない、と柴山は首を振る。持っていたカッターから布に持ち替えた経緯も、いつの間に彼がロッキングチェアに座っていたのかも分からないらしい。覚えているのは背後から近付いた時に見た彼の頭頂部と、震える手の振動に合わせて彼の髪が揺れていたこと。そして頭を回る彼への感情。


「……不公平さを呪った。全てを持っていて、その上私の全てを奪っていくのが憎かった。描いていけるのに自分から手放そうとしているのが許せなかった。何をしても平然と笑って私を見るあいつが……怖かった」


 柴山の声だけが響いていた。少しずつ傾いていく太陽は光を増してアトリエを明るく照らすのに、吐露する表情は暗く染まっていく。彼と隣り合う時もこうだったのだろうか。そう思うとひどく寂しい。


「力一杯その首を絞めて、あいつの息が止まった時。人間だったんだと思った。当たり前のことだが、ちゃんと人間だったんだと死んでしまってから理解した。同時にあいつ自身の気持ちを一度も聞かなかったことに気が付いた。

 ……あいつが感じた痛みを思うと、無傷の首が抉れそうなくらいに痛かった」


 その手が自身の首へと上がる。そのまま首を絞めるのではないかと思うほどに、柴山は苦悩に顔を歪ませていた。頬が小刻みに痙攣している。その姿はあまりに痛々しく、しかしそれは受けるべき必要な痛みなのだ。


「私は卑怯だ、逃げようと思った。破った絵を隠して、私に繋がるものを持って家に逃げ帰った。

 だがあいつの死に顔を見ていないことを思い出して、このまま逃げてはいけないと思った。あいつが苦しんだことをもう一度しっかり目に焼き付けなくてはいけないと、ここに戻ってきたんだ」


 戻ってきて良かった、と呟く。罪を明らかにされて良かった、と。

 逃げることが楽な訳がない。何も考えず新たな幸せを探せるほど、二人の関係は浅くない。北川は私の親友だった、という言葉の通りだ。彼等は確かに紛れもなく、深く繋がった親友だった。

 彼は柴山の全てを分かった上で僕を呼んだ。こうして必ず戻ってくると信じていたから、委ねることができたのだろう。


 柴山は急に、その場に倒れ込むように崩れた。駆け寄ったが、僕が見えていないように俯いて言葉を発し続けていた。透けたサングラスの向こうの瞳が少しずつ涙に溺れていくのが分かった。


「……あいつの顔があんなにも、静かだとは思わなかった。殺されると分かっていたのに、痛くて苦しかった筈なのに。

 どこかで、優しい北川が変わってしまう日に怯えていたのかもしれない。だが最後の最後まで、あいつは変わらなかった。

 もっと早くそのことに気付いていたら……失わずに済んだのに……」



 人は失って初めて、そのものの本当の価値に気付く。いつだってそれは遅すぎて、手の施しようもない。

 彼等はどこで間違えたのだろう。どうすればこんな結末を避けられたのだろう。――答えは出ないし、出たとしてもやはり遅すぎる。

 柴山がすべきこと。それは、真っ新にされたキャンバスに描き続けていくこと。そうして彼が遺した思いに、生涯をかけて応えていくことだ。


 乱れたアトリエに涙と嗚咽と、日の光が混じる。

 壮絶な一日が終わろうとしていた


 

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