イニシャルGと俺の彼女
即興小説から。お題は「暑いゴキブリ」で制限時間30分でした。
ゴキブリが気持ち悪いという感覚が俺にはわからない。
だって俺、ゴキブリみたことないし。生まれも育ちも北海道だし。
「あんなもん見ない方がいいわ」
本州から北海道に引っ越してきた彼女はそう言うが、そこまで気持ち悪がられるものならば、一度見てみたいと思う。北海道にもごく一部にチャバネが生息しているらしい。主に飲食店などがある、暖房設備がしっかりした建物に出現するとの噂。しかし俺が生で見たいのは、一般家庭を恐怖のどん底に陥れる黒光りするイニシャルGである。北海道の一般家庭でイニシャルGとエンカウントする確率は1%未満だろう。
「何で北海道にはいないんだろうなぁ」
「寒いからでしょ。もう、やめてよね。せっかくこっちに引っ越してきてGの恐怖から解放されたのに」
「怖い物みたさっていうか。ちょっと黒光りして触角の長いカブトムシみたいなもんだろ?」
「あんただって、家の中に飼ってもいないカブトムシがいたらびっくりするし、嫌でしょ?」
「いや、俺の実家ド田舎だから、平然とクワガタやカブトムシが入って来たな」
「何それ怖い」
彼女は虫が苦手だ。というか、彼女に限らず都会っ子というものは大体総じて虫が苦手なのだ。
田舎のぼろい木造家屋で育った俺は、家の中に謎のでかい蜘蛛やネズミにエンカウントすることなど日常茶飯事で、はては畳に毒キノコが生えるという異次元な経験まで果たしているので、目覚めたら布団に虫が同衾していたくらいでは驚かない。
ところで、何故ゴキブリの話題になったかというと、先ほど食べた美味しいムール貝のパスタのせいだ。このムール貝、実は「海のゴキブリ」なんていうとんでもない異名があるのだという。ゴキブリのようにたくさん獲れるかららしい。美味しい貝と嫌われ者のゴキブリを同列に語るのもどうかと思うし、そもそもゴキブリをムール貝のようにざくざく捕獲しないだろうよ、と思うのだが……。恐らく、この貝殻の黒光りする楕円形のフォルムが原因だと思われる。
「ゴキブリって暑いのが好きみたいだし、北海道にはそうそういないから安心しろよ」
「でも地球温暖化もあるし、そのうち北海道にも出るようになるかも」
その時はその時という気がするが、このままだと彼女はロシア移住すら考えてしまうんじゃないかというくらいに思いつめた顔になっている。これは話の方向を変えなくては。
「部屋の中を涼しくしていれば大丈夫じゃないか?」
「ええ、でもゴキブリって何しても生きられそうだし」
何をしても生きられるわけじゃないから北海道にあまりいないのだと思うが。そんなツッコミは心の中にしまっておく。何だか俺は彼女を説得するのが面倒になってきた。どう考えてもこれは平行線なのだ。彼女はそこにいもしないゴキブリを気持ち悪がり、いつになるかもわからないゴキブリの生息環境拡大を恐れているだけで、絶対大丈夫の保障以外求めていない。そしてそんな保障、俺にはできない。
「逆に考えよう。北海道が寒いのはきっとゴキブリがいないからだ」
「……は?」
「ゴキブリが発熱しているから本州は暑いんだ。ゴキブリが移動すればアラスカも温暖になり、緑化が進むかもしれない」
「意味わかんないよ!」
そうだろう。俺も言っていて意味が分からない。
「大体、アラスカの氷が解けたらただでさえ少ない日本の平地が全部水没するんじゃない?」
「それもそうだ。ゴキブリ緑化計画はとん挫だな。北海道は寒いままだ。よってゴキブリは来ない。証明終了」
「だから、意味わかんないよ?」
「そろそろ納得してゴキブリトークを辞めようぜって話だよ!」
話を振ってしまったのは俺だが、ムール貝からのめくるめくゴキブリトークに火をつけたのは彼女だ。嫌よ嫌よも好きの内じゃないなら、こんな話題は早々に切り上げるべきだった。
「そうね、せっかくの美味しいパスタ台無しだもんね。デザート食べようか」
「そうするか。黒光りするあいつのことなんて忘れちまいな、お嬢さん」
「はいはい。……あ、私これにしよ!」
彼女が指さしたのはチョコレートケーキのオペラ。
「黒光り黒光りいうから食べたくなっちゃった」
……俺の彼女は、案外ゴキブリが平気かもしれない。
北海道ド田舎ボロ家だった生家。ネズミとモグラとクモとコガネムシと毒キノコには全部家の中でエンカウントしたことがある。Gはまだない。