第一之譚:たゆたう水面と並木道(9)
次回から、章(話数)が一つ繰り上がります。九が初回の帰着点なんです。とりあえず。
【1‐9】
あれから、校内全土に渡り探索の手を伸ばしたが、依然として隆慈の努力は徘徊や彷徨と呼ばれる枠から抜け出せそうもなかった。
幸いにも、消息不明の五十嵐や未だ撮影見学中の畆宮と遭遇することはなかったが、往復の近道のため教員室を横切ったとき、国語の諸橋と鉢合わせた。
「並木、まだ居るのか。……なにゆえ?」
古典文書らしき傷んだ紙の束を脇に抱え、諸橋はいたって真面目な顔で質疑を尋ねた。ジョーク、とは考えにくい。
安全圏の距離を保つ隆慈は、愛想笑いも程々にひんやりと答える。
「いえ、どこかに鍵を落としたから、ただ探しているだけです」
嘘だ。探しているのは鍵などではない。
「うむ…………」
粋なジョークでも考案しているのだろうか。空いた右手で顎を支えながら、鳥龍茶カラーの額に皺を寄せている。
失礼します。との形式に圧縮した声を喉から絞り出した隆慈は、愛想笑い同様、会釈も程々に諸橋を視界から外す。廊下には、足音が一対。
「並木」
と呼び止められ、隆慈は諦観しつつ振り返ると、諸橋は五十歳らしかぬ艶のある弾んだ声で、
「何処ともなく、探し物は西に在る。そういうものだ」
!?
諸橋がミスター手品師のように、隆慈の探している“赤い札”を出現させた。否、隆慈が背を行く隙に衣服の収納口から取り出した。
「なんで……?」
口を片端に吊り上げ、隆慈が不思議を認める。無論、自覚すらなさそうな手品に対してではなく、名詞を所持している訳に、だ。
普段にも増して輝いている諸橋は、隆慈を意図して焦らすかのように瞼を伏せ、
「拾った」
とだけ。焦らす意図はなかったらしい。
「どこで……?」
『なんで……?』と同じ声のトーンで繰り返す隆慈に、名詞を見せびらかすように諸橋は、
「常備コーヒーが充実している自販機だ。頻繁に利用するだろ?それで、お前が落としたのだと、今、気づいた」
――“ボス”のところか。忘れていた。たぶん、昼間の騒ぎで。
「諸橋先生。ありがとうございます」
隆慈は、歩み寄りながら淡々と言う。名詞との再会による感無量ではない。とりあえずの礼だ。断じて、名詞に執着しているつもりはない。自分は何ごとにも無頓着なのだ――そう、自己分析をしながら、歩む。
「『学校を辞める……』なんて、言うなよ」
名詞を手渡すとき、諸橋は先生っぽい台詞を口にした。刹那、教員室のドアが擦れる音と共にスライドし、
「諸橋先生。電話です。用件は、じかに」
と、女性職員が顔を覗かせる。教員室の名目なのに職員も居る。無理せずとも、職員室の方が適当かもしれない。
「誰だ。津村か?」
「だから。用件は、じかに」
隆慈には見慣れない職員との寸劇に、久々の真なる笑みが溢れる。
滑らかに踵を返した隆慈は、足早にこの場を立ち去ろうとしたが、背の諸橋は最後に、
「並木。人生相談は怪しい宗教団体に、ではなく、先生に、だ。
……それと、担任にこだわるな」
例のごとく教員室のドアから顔を覗かせ、そう締めくくった。遅れて隆慈が振り返った頃には、ドアはいつもの変哲なきドア。
宗教……か。
人気の失せた廊下で、隆慈は名詞に記述された文字を記憶にリロードする。もう、紛失しても困らないように、と。
有限会社。株式が主流の時世で、有限。大人の援助なしで会社を経営しよう。といったキャンペーンかもしれない。それならば、彼女――白樺灯が便宜上“秘書”の肩書きでも、納得できる。
うん。頷ける。
論理的、かつ合理的な解釈を吟味しつつ、隆慈は歩行を再開した。
腰のポケットに冷えた手を収め、なんとなく窓に目を遣ると――
降雪は継続していた。
立冬を跨ぎ十一月中旬に入ってから、列島の北東は頓に冷え込みつつある。
秋の末期。凍てつく木枯らしに連れ添うように、あたかも婚姻を経た配偶者のように、雪は新潟の地に来訪した。
「寒いんですけどぉ。風は冷たいし、雪とか降って、ありえない」
喉元で可愛く加工された細い声で、来客した“こごえる夫婦”をそしるのは、櫻井水凉。しかし、夫婦は非難されるのには慣れている。小娘に構う様子はない。
「我慢しなさい。寒いのは皆も同じ」
代わりに弁護したのは、水凉の専属マネージャー新田。口うるさい眼鏡姐――それが水凉の評価だった。証拠に、言葉は帰趨なく連続していた。
幼稚でわがままだと、指摘し。大人の分別。自分の流儀。あげくに、アイドルの甲斐性について語り始めた。雪にも劣らぬ白いベンツに肩を預ける水凉は、口を尖らせ弱々しく、
「はーい」
でやりくるめる。
「そう。良い子ね」
母親が娘にするように、水凉の頭にやんわり手を乗せ、新田は言った。『新田は言った』は、駄洒落ではない。
周辺には出演者のために設けられたテントの他、スタッフが移動に用いる黒いベンツ数台、撮影に関連した機材、人材の姿があった。比較的屈強な警備員が守衛するバリケードの外には、まだらではあるが撮影当初から居座る者の影も。
誰?
……怖い。
携帯の極小レンズを向ける者はまだ許せる。自由だ。けど、何時間も苦渋を浮かべずに居座るのはやめてほしい。ストーカーにトラウマのある水凉には、熱狂的なファンは畏怖の対象に他ならない。
あのときは、白樺宥夜が助けてくれた。
偶然、
だけど……。
感情に溺れかけ、水凉は稀釈した意識を呼び醒ます。
「新田……?」
新田がいない。名前をリピート再生しつつ、辺りを洞察。目、首、半身、と徐々に複数化する部位を駆使して、新田の姿を捜す。
――居た。
こちらに背を向けた姿勢で、監督に掛け合っている。水凉の認識では、監督は格好良いけど絡みづらいタイプだ。加えて、相手はあの新田。フィーリングからして、談笑ではなさそうだ。
しばらく水凉が観察していると、新田が大人しく頷いたのを機に、監督が近くの演出家を粗野に手招いた。演出家が手にしているのは厚みのない脚本。薄くとも、キャストやスタッフにとっては撮影の礎だ。見くびってはならない。
垂れ流しの閑暇にあくびを添えた水凉は、退屈凌ぎのため肩のコートから携帯を取り出す。
着信履歴は、
一件。
……メールだ。
水凉は迷わずメールを展開する。友人への返信は早い方が良いに決まっている。
題>水凉もこっち?
本文>アカリだよ。
着いた?撮影中だったらゴメンね。
外は降ってるでしょ。せっかちな雪だよね。水凉は冷え症なんだし気をつけてよ。あと、新田さんに文句ばっか言ってない?あんまり困らせちゃダメだよ。
わたしも抱えてる仕事を処理したら行くね。明日には片づくかな?
――お母さんみたい。
飾りが剥がれ落ちるように緩んだ表情で、水凉は笑った。
灯とは“あれ以来”友達契約の仲だ。例え時間や空間の脈絡がなくとも、こうやって些細な信号を送ることで互いの存在を確認し合っている。
灯は面白い。
『変わっている』と言えば、灯は容認するかもしれない。
『お人好し』と言えば、灯は否定するかもしれない。
本当に、灯は面白い。
友人のことを想っているうちに、水凉は返信のメールを書き終えた。
――送信。!?
突然、監督らと話し込んでいるはずの新田から名前を呼ばれた。
水凉は携帯を畳んで数秒間、指名の理由を想像する。
大方、脚本の味付けか演技の指南だろう。
水凉は肩のコートを脱ぎ、畳んだ携帯と共に手近のパイプ椅子に置いたのち、新人らしく急いでマネージャーのそばに駆け寄り、演技っぽく、かつ可愛らしく息をつく。
「なんですか?」
「キス。共演の子と。できるわね?」
「キス……?」
質問に質問が返ってきたせいで、水凉は言葉を認識するのに数秒かかった。
新田がさっき監督にした『肯定の意』は快諾か。マネージャーに幻滅。
首を横に振りながら水凉は発言する。
「できない!……できません」
「どうしても?」
新田は冷めた表情で眼鏡を光らす。口調は相反して、穏やかだ。
「うん。いえ……、はい!」
「……そう」
新田は言ったあと視界から水凉を外し、脇のスタッフらと話を始める。
母親に無視された子供のような不安にかられた水凉は、マネージャー新田の腕に触れ、
「ねぇ新田、しなくていいの?いいよね?」甘えた声色で囁く。
新田は一度だけ振り返り、
「貴女はアイドルであって女優じゃない。無理する必要はないの」
「じゃあいいんだ。キスしなくて。良かった」
手の平を胸の前で重ね、嬉しそうに言う水凉を尻目に、新田はスタッフらと剣呑な話題を口にしていた。
代わりは事務所にいくらでもいる。
そのようなことを……。
監督は?
並木は現場監督だ。交渉するなら彼。
思いついた水凉は、きょろきょろと小動物さながらに周囲を洞察したが、監督の姿は見えない。
上の偉い人とかに電話かな……?
だとしたらマズイ。事務所にでも電話されたら、自分には為す術がないではないか。すみやかに監督との交渉を図らなければ――
そう危惧した水凉は、迅速に脚を働かせる。
明るい。
立ち止まり、見上げると、郡雲の綻びから陽光がこぼれていた。
並木道は、凍てつく白い妖精の侵略から救われた。
……らしい。
場所は、自宅と学校に挟まれた地点に位置する最寄りのスーパー。崩し着の制服姿のまま、隆慈は夕飯の食材を選抜していた。
唯一の同居人である叔母は、基本的に雑食だ。料理はお手上げなうえ、ほっといたら期限切れのプリンですら、平気な顔して口にする始末。
消化不良。
ともあれば、必然的に負担は隆慈にのしかかってくる。入院でもされたら、並木家は万事休すだ。自己破産は免れないだろう。
――会社の倒産。そして、非道な社長の連帯保証人を担いだ平社員。
これが、並木家崩壊の顛末だ。
当事者の並木仁朗は言う。罪を憎んで、人を憎まず。と。幼少の砌、隆慈は何度聞かされたことやら……。
そんな事情からか、隆慈はこの太っ腹な全国チェーン店に大変お世話になっている。
今、隆慈は馴染みの居心地を満喫していた。何より、空調が利いていて店内がぬくい。夏は夏で、冷房の役割を果たしてお出迎え。
大盤振る舞いにも加減があるのではないか。
いかに需要があるとはいえ、時々、隆慈は憚る。
今が、そうだ。
「……電話?」
いつだって電話は唐突だ。『携帯』の通称が、本体と共に普及されてだいぶ経つ昨今でも、それは変わらない……。
それこそ加減のない考察を理性で放棄し、隆慈はブレザーの内側から携帯を摘出した。買い物カゴは放棄ではなく、放置。
「手短に」
不機嫌に言う隆慈。相手は判っている。
――親父だ。
「早々それか?お前は相変わらずだなぁ……」
「私有地に居る。だから、手短に」
怒っている訳ではない。買い物を満喫していたのを妨害され、不愉快なだけだ。自分は女々しいかもしれない。隆慈は少し自覚した。
「私有地ねぇ……。まっいいさ、詮索はしない」
脳天気な口調。相変わらずなのはどっちだ!
「余談だね。原点。次で切る」
「切る?ほうほう、お主、何を斬る?」
「………………じゃ」
隆慈は無表情でボタンに手をあてる。と言っても、あちらからは見えやしない。
「おっと、ここで切ったら後悔するぞ。家に恐いヤクザが押しかけるかもしれない」
声の調子からして、脅迫ではなさそうだ。隆慈は観念して、再び携帯を耳にあてる。
「まじ?」
隆慈は言いながら、周囲に他の客がいないかどうか確認作業。
肥えた中年女性がコーナーに沿って近づいて来た。とりあえず買い物カゴを置き去りにして、お菓子の楽園まで退避。
「つまりだ。お前にはそこで働いてもらう」
「何?聞いてなかった。もう一編」
意味が解らない。隆慈は個人情報の再放送を促す。
「ん。聞いてなかった?
……聞け。そうだな、要約するとこうだ。父さんな、過去にある会社の株を不正に売買してな。ま、そんときは儲かったんだが、数ヵ月後にその会社の社員が不慮の事故起こしてな、遺族に訴訟されちまったんだ。で、負けちまったんだな、それが。
父さんそんときは――」
「心境はいい。話が飛躍する」
隆慈は遮ったのではない。導いたのだ。
「うん。まあ、そうだな」
電話越しに頷いてでもいるのだろう。しばらく間があったあとで、
「……裁判に負け、それから株価は下落。いや、没落だな。当然と言えば当然だが、まあ、かくして会社は倒産。新感覚の運送ビジネスもすっかり干上がっちまった。そんでもって、裏の顧客を介してすっかり筆頭株主な父さんに“ツケ”が回ってきた訳だ。
ただ、倒産したそこの社長さんが笑っちゃうくらい善人でな、肩代わりしてもらったんだ。株で作った借金をな」
肩代わり?
隆慈にも、ようやく話が把捉できた。
以前『肩代わり』で身を滅ぼした人間が、今度はその『肩代わり』で身を繕った。そういう話だ。
「で、何?その親父の恩人が何?蒸発でもしたとか?それとも自殺?」
「うん。論理的な推察だが、甘いな」
「いいから。手短に」
ウザい。隆慈は、単純にそう思った。
「……お前、本当に聞いてなかったんだな。
言ったろ。株の件で関わっちまった連中が、社長さんを捜しだしちまってな、それで社長さんピンチなんだ。今は新潟でほとんど趣味の会社を経営してるんだがな、そこも危ないんだ。もちろん経営が、だ」
「で、そこで働けと?」
茶々を入れてみる。
しかし――
「そうだ」
冗談ではないらしい。真面目な声が返ってきた。
「は?」
情けなくと口を開く隆慈に、父、並木仁朗は部下に命令するように、
「趣味で経営する会社で働いてもらう。人手が不足しているそうだ」
そう言った。
な……、シャレんなってねぇし。
携帯をだらりと耳から放した隆慈は、選り取り見取りに陳列するお菓子の棚に、背を――
箱が墜ちた。否、棚から落ちた。数個ほど。
音に驚いた隆慈は視線も虚ろに落とし、普段のナマケモノのように焦れったく腕を伸ばす。
「大丈夫ですか?」
と、建前の言葉をかけられ頭をもたげると、そこには見覚えのある顔。
「あ……」駐車場の?
喉元に出かかった言葉を呑み込み、隆慈は屈んだ姿勢を律する。
眼前の少女とは、一度だけ面識があった。否、昨日会ったばかりだ。そのときは礼服姿であったため、今の彼女とはだいぶ印象が違ったような気がする。
黒から白へ。
今の彼女は、頑張り屋さんの漂白剤に脱色されたかのようなワンピースの上から、膝まで届く同色のトレンチコートを纏っていた。
「会社の名は――」
隆慈の垂れた手には、携帯が握られている。
声は、
そこから漏れた。
『メリーメリー』
初回の完結を契機に、脱字だらけで不規則な文(主に1〜5)を改竄しました。ある種の法則に基づいてるはずです。是非、見落としがちな粗を燻ってください。賞金はでませんので、悪しからず。




