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第一之譚:たゆたう水面と並木道(8)



【1‐8】



不穏。

それは、不鮮明な日常に潜む得体の知れないバグではないか?


空気の淀んだ校内の一角で、並木隆慈は哲学者さながらに思考の海に潜水していた。

片手には、カフェインを主とした液体の缶。隆慈はカフェイン中毒として危ぶまれている。この議題は、頭の会議室では不問にされているが……。



変だ。何かが……。



たゆたう水面に波紋が連鎖するように綻ぶ、隆慈が完備していた日常衛生システム。

冬の訪れを待ち侘びたかのように降り出した、せっかちな雪。

どう考えても無関係ではあろうが、似ているも非なるサンタクロース――“似非サンタ”の出現にも畏怖を覚える。もっとも、隆慈が目撃したのは三回のみだが……。


考えても不毛は不毛だ。と心中で割り切り、斜め上の窓から換気の措置を試みようと手を伸ばしたとき、隆慈の立つ座標から比較的至近の教室から、喧騒の塊が流出した。男女の比率は五分だ。

昼休み。普遍的にはそれで通っている時間帯。なんら不自然ではない。


マジでぇ!

うっそ、ホントかよ。

デマでしょ。

聞いてないよぅ。


にしても、出力が異常ではないか?

半信半疑の台詞を連呼しながら廊下を駆ける不特定多数に、隅で呆然と立ち尽くす隆慈は決断を迫られる。

他の教室は?

と順当な判断をし窓を見やれば、やはり、観察できる事象はどの教室も類似しているようだった。




――行くか。


頭の会議室が“追求”を可決した。手元に残留する首魁を示す名を冠した缶コーヒーをぐいと飲み干した隆慈は、再度この座標に戻って来ることを首魁――“ボス”に誓い、一角に沿う形で付加された椅子に缶を置く。


独自の歩調で喧騒の塊を追跡する隆慈も含め、今、この瞬間に、灰褐色の空から世界の何よりも儚い無機物が舞い降りていることには、誰一人として気づいていないだろう。



今朝の天気予報は、降雪予報でも積雪予報でもなかったのだから……。










精確な性格の時計が顕示するのは、十二時二十八分。気象予報センターに雇われた時計だ。ニアミスはありえない。


白樺宥夜は、放送を主旨に特別設計された部所に居た。珍しいことではない。宥夜はキャスターとして雇われたのだから。

そして今日が、新潟市民へのサプライズ・デーになるはずだった。雪さえ、降らなければ……。


「なんだかなぁ。衛星が狂ってるとしか言いようがない」

喋ったのは同僚の滝岡。酒豪な無精髭のメカニックマン。しけた情報だが、宥夜は彼に興味がないのでそれ以上知る必要がない。

本番前にADらしき女性から直されたネクタイを緩めた宥夜は、脇に隣接した滝岡の肩を軽く叩いて前進する。放置された“回転する椅子”を避けて進むのは、熟練でなくとも可能だ。


「どうです?」

床を這う機材の動脈を二、三つ跨いだところで、宥夜は話を切り出した。意図して近づいた隣には、有能でお喋りな同僚の代わりに姐御肌の美人。首から垂れる二本の紐の先にあるカードは赤い枠で、それがディレクターの証。


「空回り。部所の編成、考え直さなきゃね。

……明後日あたり。」

考えではなく腕を組み直しながら呟いた彼女は、現場に三人居るディレクターの一人であり、この階を占める気象放送部の部長だ。発信を兼ねた気象予報センター。それが異例かどうかは、博学に精通する者にでも聞いてみるしかない。


「そうじゃなくて、天候。こっからじゃ空は見えませんからね」

はぶらかす部長に、宥夜はキレぎみに補う。


「さあ、私も同感だし。お天気キャスターにでも訊いたら?あ、貴方がそうだったわね。失礼」

一瞥のあと、返ってきたのがこれ。宥夜とて、嫌われているのは承知だ。演技っぽく鼻息で苦笑し、

「冗談がお好きですね。外、降ってるんでしょ。雪。連中が慌ててるのを見れば大体は」


「少しね、北風に混じって。それより、まだ伝えてなかったっけ?貴方、帰っていいから。

昼の分は終わり」


「…………はいはい。明日は朝早い、でしょ」


「そ。じゃね〜」


戯けた顔で手を振り、スタッフの集団へ交わりに赴く部長の後ろ姿を見つめながら、宥夜は思う。




今年は、空も女も読めない年に違いない。と。










「撮影?」

情報通の倉澤が言うにはそうらしい。言葉の持つ意を把促し損ねた隆慈は、思わず聞き返してしまった。


「臨時だからね。正直、僕も驚いたよ」

校門付近にたかる生徒群から一歩引いたところで、倉澤は続ける。

「これは憶測だけど、客観的な観察ではドラマの撮影であることが窺えるね」


「どうして判る?」

冷えた手を腰の辺りの袋で保温する隆慈は、前を向いたまま質す。

それに対し倉澤は指で一の記号に組み、

「簡単さ。まず、ここは公共の施設だ。近辺で撮影する場合でも当然、許可が要る。なんたって、学の舎だからね。例え事前に通知があったとしても、それなら僕の耳に届かないはずがないしね……。

以上の事から、撮影自体が終始一貫構成の基にあるバラエティ番組とは考えにくい。それに、映画ならエキストラ――つまり『その他大勢』の協力は不可避だ」


「今から交渉、じゃなくて?」

横目で口を挟む隆慈に、倉澤は肩を上下し、

「ほら、見てみなよ」

顎で視線を誘導した。しかたなく隆慈は従う。


「監督か?」

生徒群の隙間から、馴染みの監督ファッションが見えた。

「そう、監督。直談判が今日だとしたら、監督は居るはずがない。撮影の許可が下りなかった、なんてケースも想定できるからね。叩いてない石橋があるんだ。監督は出陣しないさ」


「なるほど……」

隆慈は呟く。でっちあげた心情ではなく、正統な感心だった。


解説は終わり。隆慈はしばらく名探偵の推理に浸っていたが、

突如、背後から獣の咆哮に似た大声が放出され、隆慈の耳は一撃でつんざく。


「輩ぁあっ、ぬぁああにやっとんじゃ。ワシらに許可なく撮影とは無作法ならん!」

二度目は聴き録れた。声の主は教員の諸橋だ。



確か、五十嵐の親戚だか親類だか……。



隆慈は傍らの倉澤と視線を合わせ、瞼を刹那の速さで開閉したのち、後方の諸橋へ――


「諸橋先生?!」


言ったのは近くの女子生徒。名前は知らない。


「どけ!並木、倉澤」

のあと、

「………………」

両手はズボンに差し込んだまま、無言で隆慈は左に。

「はい。ごもっともです先生」

と、倉澤は右に。


ふん。と鼻息を漏らし、教員諸橋五十歳は大股で二人の狭間を行く。

ワイシャツ一枚で寒くないのか?

その点は隆慈には不明。


「……さっきの、正解みたいだな」

咆哮の効力で本来の役割を取り戻した校門を眺めながら、隆慈。


「テレビドラマを臨時で撮影。その理由、解ったよ」


「え……?」

名探偵の抽象的な言葉に、隆慈は満点のリアクションで応えた。倉澤は、遥か彼方の空を仰ぎ見る姿勢で、

「騒ぎで気づくのが遅れたけど、雪だね。これ」


視線に釣られて隆慈も頭をもたげると、白。



雪……か。



火山灰の方がまだ神秘的かもしれない。雪など空気を冷やすだけ。いや、空気が冷えたから妖精が生誕するのか?




どちらでもいい……。










午後の授業を催促する鐘っぽい人工音が校舎に響く頃、全校生徒は体育館に収束された。が、例外は少数ではない。集まったのは全体の六割程度だろうか。


教員一同による極めて局地的な報道の内容は、案の定、学区内でドラマの撮影を行うが干渉は皆無――といったものだった。それに対し、館内の各所で抗議じみた声が殺到したが、隆慈の耳には撮影に交われない不服に聞こえたので、教員が一斉に無視したあたり、大して問題はないはずだ。

教育委員会の出る幕ではない。



どちらにしろ、おれには無関係だ。



学校関連は一定のインターバルで無関係。まして、ドラマの撮影など鑑みるまでもなく無関係のはず。

隆慈は初め、そう思っていた。




雲隠れしていたはずの並木家大黒柱(元)と、

顔を会わすまでは……。










「“スフレちゃん”見つかったから、めでたし!なワケだから、今日どっか行かない?」


放課後。朝の件で五十嵐を問い質すべく席を立った隆慈に、畆宮チカは誘いを投げた。スフレがらみは今日で七回目だ。畆宮とのキャッチボールは、隆慈には負担に等しい。

『報告しなければ良かった』と反省しつつ、

「五十嵐と行けば」

いつもの正論攻撃。畆宮の顔は見ない。


「あ、そうそう。五十嵐あいつとは別れたから。もち、振ったのはあたしから」

対する畆宮は、さりげなく破局を報告した。教室にはまだ半分は居る。誰も気に留めない。

変わらぬ表情で隆慈を直視する畆宮に、とりあえず感想を返す。

「納得」


「そんだけ?」


「ああ…、そんだけ」

口では畆宮の相手をしつつも、隆慈は必死で探していた。名詞を。


「何?サイフ落としたとか?」

言ったあと、畆宮は椅子代わりにしていた“五十嵐の机”から離脱する。些事であるはずなのに、なぜか隆慈には、それが意味深に思えた。


「名詞。……じゃなくて、鍵。家の鍵」

先程の教訓を思い出し訂正。否、嘘。

嘘の副作用で発作的に畆宮の顔を窺ったが、観測不能な至近距離にそれはあったため、またも『発作的に』身を引く。

「な?!……近い」


「そう?これってフツーだから」

背の下部で手を組んだまま言う畆宮。おそらく、女同士の距離感のことを言っているのだろう。


「ああ、そうかもな」


「そっ」

……そうらしい。


話の流れが嫌な方向へ傾いていることに隆慈は気づき、秒単位で性急な選択を済ませ、畆宮から逃避することにした。

わざと遠回りのルートを選ぶも、W杯の先駆者から学んだかのようなマークを畆宮は披露する。どこで学んだのやら……。




「………………」

沈黙の源は畆宮だ。隆慈ではない。

いつになく覇気の宿った瞳を昏い隆慈の瞳に反映させ、美装なき声色で言葉を紡ぐ。

「どうしたいの?

探して欲しいのか?それとも、撮影を観に行きたいのか?」――




「は?」つか、意味解んないし。










結局、隆慈は五十嵐との面会をすっぽかして、ついでに紛失物に関する策動も白紙に戻し、畆宮と撮影の見学へ行くことになった。見学。と言っても、学習要素は微妙かもしれない。

通学路として親しまれている並木道で、撮影は行われていた。


「人とかヤバくない?めっさ多いんだけど」

畆宮の言ったとおり、野次馬は、地上に散乱する枯れ葉のように不特定多数発生していた。発生の境界条件は『ドラマの撮影』、だけではなかったようだ。その証拠に、ドラマに興味が萎えてそうな中年男性もちらほら分布している。


「新人アイドルのくせに生意気じゃない?主演でドラマなんて、十年早いんだから」


「新人だから、だろ」

栓も蓋もない会話を隆慈はする気はない。適当にあしらっていると、



バァンッ!!!



轟音が虚空に“こだま”した。

音は正面。緋色の紐を境に、警備員が配置されている。似ているも警察官ではない。野次馬の暴挙に対抗して発砲したとは、考えられない。銃は所持していないはず。


え、何?

銃?嘘だろ……。

事件!?

バカ、シーンだって。


隆慈の周囲で一時は混乱が波打つも、程なく渦の前列から正確な情報が伝達され、乱れた野次馬なりの秩序は鎮まる。


「新人のくせにシリアスシーン?!ますます生意気だからっ」

隣で毒を吐く畆宮に隆慈は一瞥を加えたのち、

「確かめる」

と言い捨て、秩序に空いた穴を器用に擦り抜け前進する。後方から畆宮が制止の声を飛ばしたが、隆慈は耳の鼓膜で遮断した。



温かいな。いや、熱いぐらいだ。



人間の団塊が高めあう体温は、隆慈には不快に感じられた。頭には、忘れていた雪の成り損ないがやんわり無散する。既に溶けていたらしく、感触は蚊の針にさえ劣る。

途中、四、五回は迷惑そうな顔を向けられたが、無事、つまり怪我もなく隆慈は野次馬の前線へ到達した。


「騒がないで!雑音が音声に混じる」

男の声は、丸めた脚本で拡張されていた。籠ってはいたものの、俳優さながらの発声法だ。非常に聴き録り易い。が、隆慈は微少な、かつ個人的な違和感を察した。



どうした?

おれ。



躰が震えていた。否、何かを意識に伝えようとしていた。

連なるように、背から鈍い衝撃が走る。

「なッ?!」

すぐに知覚する。野次馬の一人に押された。足を踏んでいたのかもしれない。隆慈は声の違和感を優先し、あげくに無礼を失念していた。



ふざけんな――



体重の乗った紐に追従して鳴る金属音。鉄柱もどきの楔が二本は倒れた。警備員は隆慈を支えてくれなかったらしい。

注目と刮目を一手に引き受けた隆慈に、情けはないようだ。近くの警備員は『そこまでして目立ちたいのか少年』と、怪訝な眼差しで隆慈を刺す。終始無言なのが反って痛い。

舌打ちが聴こえた。隆慈に圧力を加えた張本人であろう。確認は無理っぽい。隆慈は諦め、

「こけちゃった」

との台詞で妥協した。頭でも掻いてみる。


「――隆慈?」

聴き覚えのある声で名前を呼ばれた。

背に広がるサークルは撮影に占有されている。にもかかわらず、声はそこから放たれた。状況からして、隆慈には『振り返る』しか選択肢は残されてはいない。

しかたなく――




!??


「ああ、やっぱりお前か隆慈。忙しくてな、新潟こっちで撮影するって連絡しなかったし、びびったろ?」

公然に話すオッサン。否、監督らしき中年男。



この環境で言うか?

その前に――



「何やってんの?」

疑問は、自然に口から出た。もう、大方の想像はついているのだが、隆慈は回答を待った。


「ん。現場監督。なりで判るだろ。そのための監督コーディネートだ。偉いんだぞ、ここでは」


独善的に主張する中年男――並木仁朗なみきじんろうは、戸籍上と前置きせずとも隆慈の父親だ。体裁は維持しているが、色々と不透明なことは確かだった。

背丈、及び輪郭は、平均より凛々しいかもしれない。が、それだけだ。爪を隠すほどの能はない。隆慈の知る限り無能の中年男のはずだ。

信じれない。

現場監督とは。




「……あっそ」


「逃がさん」

辛辣な相槌を残し、立ち去ろうとした隆慈を、並木は制す。ブレザーの裾を引っ張られた。

げ。と心中で悪態を吐き、隆慈は最小限のモーションで後方を窺うも、視界に映った未知の存在感に、隆慈は停止する。



――櫻井水凉さくらいみすず。本名だっけ。



椅子に腰かけこちらを傍観しながら、紙パックの苺牛乳をストローですすっている。肩には同色のコート。傍らではマネージャーとおぼしき若い女性が手帳を尋常じゃない速度で捲っている。

関心が逸れた。悔い改め、隆慈は実の父と対峙するべく軸を左に四十度廻した。


「おれさ、今、すこぶる不機嫌なんだよね。

話ならあとにしてもらえる」

隆慈は真摯に言ったつもりだ。しかし、父、並木仁朗は笑いながら提案する。

「お前、撮影に加わったりするか?

脚本ほんはまだ出来てないしな。ちったあ脚色しないと味も出ないだろ」


「加わらない」

即答する隆慈。


「まあ、そう言うなよ。な、これだよ。これ」

言う並木の左手は『ギャラ』を暗示していた。

要するに、

金だと。




「………………」

数秒だけ、隆慈は黙ってみる。答えは、

「やだ」

ノーだ。


一言に、並木の若々しい顔は惨めに歪み、隠蔽していた皺を刻む。


「そうか……、うん。それも一つの選択肢だ」意味不明な言動は空元気かもしれない。隆慈の知ったことではないが。



金、金、金、金、いつも親父は金ばっかだ。



久しぶりの再会に歓喜する訳でもなく、父子おやこは並木道で遠ざかる。茶番の観客は不特定多数。




虚空では――




風と雪。


儚い宿命を背負った男女同士が、とても、とても短いワルツを踊っていた。

第一話はTVドラマの一回に相応します。図らずも、です。なので連載小説の体裁だと、軽く余所見できる具合に物語が緩んじゃいます。本作に何かを見出した方、どうか悪しからず。さて、ようやく並木隆慈の日常も彩られてきましたね。本筋への合併は第二話以降と考えてますが、全体を成す構図は第一話のうちに鮮明にしたいので、外部からの観察では焦燥も募ることでしょう。ですが、どうか悪しからず。悪気はないです。

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