第一之譚:たゆたう水面と並木道(6)
文字数が逓増中です。加え、比較的真面目な表現を導入しました。
【1‐6】
潔白を誇りであると妄信していそうな社宅の性格は、照明の光りに頼りきった隆慈の目でも観察できた。
きっと、建造物の父親とでも呼ぶべき建築士に教え込まれたのだろう。
母親は確たる業績を残した大工?それとも、建築の基を成す無機物を育んだ誰かさん?
社宅の妄信より質の悪い妄想を見えない図面に展開する隆慈。彼は今、周囲の住宅圏から存在的に孤立したマンションの眼下に居た。
辺りに漂泊する夕食の匂いに誘われ、雪の体裁を借りた妖精が音もなく虚空を舞う。
敷地内にアクセスする前に、コンクリートの帳に添えられた公式のタグは確認済みだ。ここが、あの赤茶けた気象予報センターの社員が利用する社宅であることは間違いない。
信憑性は明瞭。
ならば、利用者はせいぜい公務員然としたエリートマンであろう。個人的にも長いしたい場所ではない。目的はただひとつ、逃亡者の捕縛。
といっても、
たかが猫一匹だが……。
自分の呆れた感性に思わず苦笑し、ついでに対知人用のポーカーフェイスを解除した隆慈は、声のした方向――逃亡者の潜伏先へと主軸の指針を定めた。いわば躰の向きを換えただけ。
いくらか歩いた結果、社宅の側面に位置する駐車場に隆慈は到る。
見上げるまでもなく頭上には、天地を隔てる厚い天蓋があるのが判った。車を何から護りたいのかは不明。
「あぁ、それでか……」声が響いたのはこのためか。なるほど。
反響効果だ。
隆慈もいつかの学校でそれらの物理現象を習った。いつだったかは思い出せない。きっと、常識に起源はないのだろう。
思考の片鱗を呟いた隆慈の足許に、黒っぽい何かがなすりつく。否、黒ではない。良く見ると焦げ茶……そして微少だが白濁も混じっている。
辺りが暗いせいで迷彩になっているだけだ。
「スフレか……?」
返答に期待できない疑問を口にし、膝を限界まで屈折させた隆慈の目と鼻の先には、猫。黒っぽい何かは猫だった。
人間で言うところの髪を隆慈に撫でられ、言葉どおり猫撫で声を喉から発する三毛猫の正体は、もう隆慈の中では確信に等しい。
――スフレだ。
逃亡者・スフレ
容疑〈脱獄〉
十一月十五日、
午後十八時四十九分。
容疑者、確保。
義務に従順な自分の仕事ぶりにほくそ笑む隆慈の傍らで、スフレは嬉々とした黒い瞳を隆慈に向けていた。きっと、成り行き飼い主の愛情度でも試したかったのだろう。
『よくオレっちを捜し出したじゃんか』
とでも言いたそうだ。悪びれた様子はない。
「ご苦労様。……そう言いたいんじゃないかな?
わたしの勝手な想像だけど……」
?!
音声が若干反響して位置は不鮮明だが、おそらく正面から声は放たれた。透き通って弾力のある声色。もちろん反響の作用もあるだろうが、それを差し引いても隆慈の評価は燻し銀だ。
しゃがんだまま例のごとく見上げると、
――礼服の女性が居た。
黒一色。
初め、隆慈はそう思った。しかし、その認識が誤りであることを直ぐに気づく。控えめに露出した肌がうっすら白い。まさか病持ちではないだろうが、それは雪のように無垢な美白肌に思えた。
照明が充分でなくとも隆慈には判る。どちらかと言えば視力は良い。気配には鈍感だが……。
「あぁ……、見つけてくれた。か」
彼女に関する様々な憶測が飛び交う頭の会議室に注意を逸らしつつ、隆慈は感慨っぽい心情と言葉をでっちあげた。とりあえず、一点に定まらない視線はスフレに預ける。
なぜ自分がこの猫の飼い主であることが判別できたか、といった疑問は今の隆慈には無粋に思えた。
「どうして自分が飼い主だって判ったのか?不思議に思ってるんじゃない。違う?」
歩む人影に反応した天井の照明が連続して点り、
礼服の女性の外観を晒す。
隆慈との距離は七メートルとない。慌てぎみに立ち上がることで対応したつもりだ。
同年代?
礼服の女性は思いのほか若かった。
社宅の利用者であることと、黒い礼服姿で登場したことから、隆慈は少なからずの先入観を抱いていた。
同年代。
否、もしかしたら同い歳かもしれない。
「え?いや、そりゃ……思ったけど」たじろぐ隆慈の声は微妙に上擦っていた。図星だったからだ。
所在なさげなスフレの視線に応えながら、礼服の女性は言う。
「警戒心ないもの。黒猫さん。わたしのときなんてろくに触らせてくれなかったんだもの。……犬の匂いがしたのかな?」
犬?
そんな匂いはしない。
隆慈は、どういう訳か無性に彼女の言葉を否定したくなったが、それこそ無粋なので断念。
「あぁ、それはある。こいつ警戒心強いからな。逃げるの速いくせに」
隆慈は言い、そっぽを向くスフレの尾をつまむ。
隆慈は『フツー』っぽいことを言ったつもりだ。が、前方からくすっと笑いが漏れた。嘲笑の吐息とは考えられない。
隆慈は視界のピントを微調整し、淑やかに手を口許に添え微笑む少女を確認。
雪の妖精でも、黒装束の天使でもなさそうだ。
頭の断面をさじで撹拌されたような状態の隆慈には、何かを賭けてまで断言できる自信はないが……。
「ふふ……、逃げられちゃったんだ。飼い主なのに。でも、そうは見えないな……。
ねえ、何で逃げたの?」
『なぜ脱獄を許したのか?』ではなく、『いかなる理由により乖離したのか?』を質す少女。鉄壁の白い笑みは真摯さを宿す。
「話すと長いよ。それでも聞く?
つか、寒くない?その格好ってさ、礼服?」
疑問のアクセントを濫用する隆慈。スフレとは違い、返答は期待できた。
「聞くよ。尋ねたのはわたしの方だし。それより、お腹……減ってない?あちこち捜し回ったんじゃないの?」
途中、駐車場からの出入りが可能な社宅の第二アクセスポイントへと顔を向け、
「部屋来る?こっちの事情で一人分余っちゃったから、力貸してくれると助かるんだけど。
犬嫌いなら遠慮した方がいいけど……」
再び顔を隆慈に向け、少女は言葉を切った。
隆慈が知りたかった礼服の理由は、すんなりスルーされたようだ。
「遠慮――とかじゃなくてさ。その……、初対面の人の家?てか家庭に、土足当然で入り込むのは抵抗あるっていうか」
言いながら流した視線が、スフレのそれと遭う。隆慈の眼にそれは、いたく退屈そうに映った。
おれ、揺らいでるよな?
天井から拡散して射す白い光芒を乱反射するスフレの瞳に、隆慈はアイコンタクトを試みる。特に意味はない。
意して逸らされた隆慈の顔を、なんら抵抗なくまっすぐ見据える少女。
初対面。つまり、名乗り合わなければ必然的に相互の名前を知らないまま。
あたりまえを、隆慈はなんとなく知覚した。
「誰も居ないよ。いま507号室に居るのは、わたしを除いてクラウディアだけ」
当然のように言う少女の表情は、不況和音を軽く無視してしまいそうなほど和やかだ。
――クラウディア?
そういえば、犬がどうとかって。
「いや、なおさら抵抗あるし……」
隆慈が返答に迷っていると、あの“ちょい”な中年のように渋めに洒落たエンジン音がこちらに近づいて来た。
ああ――
遅れて隆慈は気づく、ここが駐車場であることを。
適当な措置を思いつく間もなく、漆黒に塗装された低い車体の四駆が隆慈の視界に介入してきた。スポーツカーだろうか?
車の顔面に二つ付いた離れぎみの眼を必要以上に煌めかせ、三度、瞬いた。先程のアイコンタクトと比較すれば、かなり本格的かもしれない。
あ、スフレは?
忘れかけていた逃亡者の存在を思い出した隆慈は、数十秒前に録画したばかりの映像を頼りにスフレの立ち位置を視力で探る。
いない!?
「――宥夜?!」
同時だった。
声のせいで、否、声に含まれた男性の名前のせいで、隆慈は優先事項を見失う。消えたスフレに意識を定めつつ、顔は少女へ。
形ある物を視る器官は、顔にしか付属していないのだから。
驚いた様子で黒い車体を凝視する少女。やはり、照明あっての印象は少女。
隆慈の視線に気づき、少女は一度だけ頷いてみせた。意味は『待ってて』だろう。
車との距離はある。頷き返すそうか言葉を返そうか決する間もなく、少女はマフラーをこちらに向けたまま停まった車の方へ急ぐ。小走りで。四駆の操縦者が男であることは間違いない。ユウヤなんて名前の女はいない。もっとも、隆慈がつい先刻まで言葉を交していた少女の“オトコ”である保証はないが……。
一日に限られた知力を損耗し、隆慈が思い巡らしていると、
「仕事が煮詰まってて当分帰れないっ…て、電話で言わなかった?」
音量は低いが、反響効果は健在だ。距離があっても充分聴こえる。
「いやな、俺もそう思ってたんだけど――」
男の声は若い。隆慈には二十代に思えた。
「『俺も』じゃなくて『俺は』でしょ」
間髪いれず少女が言葉を裂く。口調は割と大人しい。
「ああ、そうだ。いいから揚げ足とるな。聞け。
……えっと、あれだ、俺が有名人だからって連中が気ぃ遣ってな。テレビに映る訳だから、寝てないと顔色に出るって、上司とかも口揃えてよ」
自信に満ち溢れている。とでも言うのだろうか。男の声色から隆慈が想像できる人物像は、どうもデータが融解ぎみで釈然としない。
このまま立ち聞きするのも不躾だ。
場の違和感からそう思った隆慈は、付近の物陰に身を潜めているであろうスフレの救済を履行することに。
数メートル先に駐車された四駆を一時は視界から外し、されど興味には勝てず、隆慈は再度目標物の方角へ振り返る。
「あ…………」
車体から乗り出した男と視線が交り、隆慈は彼の名と職種を識別する。男とは面識がある。そんな錯覚さえ思考をよぎった。
白樺宥夜――
圧倒的人気を誇る気象予報士。支持者はもっぱら働く女性。OLの叔母も“ゾッコン”だ。
少なくとも、隆慈はそう認識していた。
東北地方に転勤だって叔母さん言ってたっけ?
まさか、新潟に転勤?
そういえば……、新潟の気象予報センターって最新設備?
天候の観測に新旧があるのかは、隆慈には判断つかない。さして気にすることでもないが。
白昼の樹海で対面したハブとマングースのように、ぎこちなく睨み合う隆慈と宥夜。
沈黙の幕を下ろし凍結する駐車場に、照明の発する繊弱な唸り声のみが垂れ流しで通過する。時間の経過と共に……。
「誰……?
まさかお前、ここ来てさっそく“オトコ”つくったのか?」
車のドアを慣れた手つきで閉めつつ、宥夜は少女に軽口を刺す。
「ちがうっ!!」
隆慈が男の言葉を認識する前に、瞬発的に反応した少女が否定の声を上げた。
!?
あのコ、そんなキャラだったっけ?
思い。驚いているのは自分だけだろうと、気象予報士に目を遣れば、意外にも彼は『ぶったまげた』といった表情を隆慈に向けてきた。どうやら奇跡の共感らしい。
「わたしは宥夜とは――兄さんとは違うのよ。根本的に」
場を繕うように明るい口調で宣言した少女は、ふるりと身を翻して隆慈に歩み寄る。
二人の距離は縮まりつつある。無論、物理的な意味でだ。
兄さん?
白樺宥夜が彼女の兄。ってことは、彼女があの――
「そ。宥夜が東京でスキャンダル騒ぎを起こして迷惑かけたアイドルのコの身代わりを務めた白樺宥夜の妹、白樺灯」
早口で言う少女は、ゆったりとした歩調。ついさっきまでの微笑は、いつの間にか笑顔に昇格したようだ。
「白樺灯?
いや、聞いたことはあるけどさ、別に……。ちょっと、叔母がその手の事情に鋭敏でさ」
いつもの自分らしくない。
隆慈は自覚する。いつもの自分だったら、こんなにも容易く同年代の少女に心を読まれるはずがない。弁解はあくまで奥の手だ。
「たまたま髪型が似てたから……、皆さんが見た写真の娘はわたしです。マンションに同居してる妹です……って、公の場で嘘をついただけ」
言ったのち、弾んだ笑顔のまま立ち止まり後方を振り返る少女――灯。
彼女が背にどんな顔をしたのかは、隆慈から見て前方に佇む男――宥夜のこわばった表情から想像するしかない。
「あのさ、外……雪降ってるけど、寒くない?
さっきも言ったけど……」
躊躇いがちに言う隆慈は、密かに彼女の躰を案じていた。灯の纏う礼服は、一口に黒のワンピースと言っても通る。
「え……?」
言った隆慈の真意を読もうと、躰ごと反転して向きを換える灯。瞳には何も宿っていない。
っくしゅん!
隆慈は、
彼女のくしゃみで一瞬――
時が停まった気がした。
単なる気のせいだが……。
一話目の副題にある『たゆたう水面』とは、主に代わり映えのない日常を暗示する比喩ですね。(みなも)じゃなくて(かわも)でも良かったんですけどね・・・




