第一之譚:たゆたう水面と並木道(5)
【1‐5】
季節の支配が等しく侵食する並木道で、白樺灯は不意に足を止めた。
普遍的な秋の装いが妙に懐かしい。
迂濶にもこの近辺を閑寂と口にしてしまったら、声の主がよそ者であることを露呈することになりそうだ。別段、ひどく寂れている訳でもない。灯には新鮮なのだ。列島の首都圏での記憶しか明瞭に刻んでいない灯には……。
懐かしい。
――なのかな?
思い、僅かに微笑んだ灯は、両腕に抱いた極彩色の花束を赤ん坊を扱うように持ち直し、再会へと到る一歩を踏み出す。そのあとを大型犬が無言で、貴婦人さながらにとろとろと続く。
年いかぬ娘と成熟したメス犬。
郊外の並木道を行く二人の淑女は、ひとつも言葉を交すことなく黙々と歩む。
「おや、あかりちゃんかね?」
背後から老人特有のしゃがれ声が飛んできた。何を隠そう自分に。振り向き気づく、男性だ、と。年輩の方だ。
「あの……どうして?」
どうして判ったのだろう?灯には不思議だった。
可憐に首を傾げ問う灯に老人は、
「ほれ、そこのでかいの。クラ……なんたらレトリイバアじゃろ?」
老者が声と指で示すのは、灯の伴う貴婦人ならぬ貴婦犬――
「クラウディアです」
灯は微笑を強めて彼女の名を正す。貴婦人の名前は、決して間違えてはならない。
「そうかそうそう、クラウディア……ね。あかりちゃんがまだ小さい頃から着けてたしのぉ、そのコチュジャン……じゃたっけ?」
「カチューシャです。ええ、たぶん着けてました。このコ、装飾品を着けていないと吠えるんです。すんごく。
着けていさえいれば、いっさい吠えないんですけど……」
質す老人に、正す少女。朗らかな光景は拗れることなく続く。
「ほう……変わった気質じゃな。わしの連れ合いと似ておる」
言いながら、灯……というよりクラウディアとの距離を埋める老人。
めっぽう長引きそうな談話を覚悟して、灯は近場の屋根つきベンチにちらと老人の視線を誘導する。
「おお、気づかんで悪いのぉ。重いじゃろうに、その七夕」
言葉の誤りには気づいていないようだ。呆れながらも顔は微笑を維持しつつ、
「花束です」
と一応訂正しておく。
犬ながら、長丁場になる確率でも導いたのだろうか。貴婦犬クラウディアは鬱とした目を主人の灯に向けていた。
空は、どうやら宿泊の荷支度を始めたようだ。
黒を基調とした、さしたる特徴もない三毛猫。ついでにオス。
隆慈は、逃亡者スフレに関する粗末な情報を首脳会談を通さずに一人の女性に公開したのち、自宅周辺の管轄区域を巡察していた。
自慢するには相手を選ぶ必要がある隆慈の微々たる知識では、猫っぽい動物の本質上、彼らは記憶の中枢に緻密な地図を作成する行いを業と捉えているはず。彼らの本当の生業は狩猟であって、豊かに栄えた種族の荘園に幽閉されることではない。
五時半を過ぎた頃、新潟の地は強制的に太陽の援助を絶たれた。性急な夜の訪れは死の季節が近い証拠だ。
自らに課した制限時間を優先して、隆慈は畝宮チカとの合流場所へ脱力感と共に赴く。
自分を億劫にさせる原因は何なのだろう……。
答えが出せぬまま、隆慈はやたら長い名称の公園へ辿り着く。
園内を水銀灯が仄かに照らす。
ぼうっと眺め、
嫌いじゃないな、と隆慈が感慨していると。
「夜間に待ち合わせ……ってさあ。なんか初心を思い出すよねぇ。
ねっ、りゅーじくん♪」
「まだ夜じゃない」
隆慈は驚きつつもとっさに言葉を返す。
ポーカーフェイスはおそらく成立していないだろうが、立ち位置から計算して木立の翳りを浴びてるはず。……たぶん、問題はない。
自分はいつから人の気配にこうも鈍くなったんだか。否、人だけじゃない。己の意思で動く物体にだ。
「夜、だから。だってこんなに暗いじゃん」
言いながら、畝宮は公園を一望する。骨の芯まで馬鹿そうな顔は相変わらずだ。彼女の周りに蔓びる男子には『ウケ』が良いが。
同意を求める畝宮の視線を軽く受け止めたのを機に、隆慈は木立の翳りに頼るのをやめ一歩踏み込む。
「陽が落ちたからな……。これじゃあ黒っぽいスフレ捜すの無理だし、終わりな。共同捜索タイム。勝手に帰れば」
そっけなく伝えるべきことを伝えた隆慈の表情は軟らかい。意識して軽飄に振る舞った。
逃亡者はそのうち自首するもんさ――と目で暗示する。
思慮分別ある隆慈の気づかいを知ってか知らずか、
「そっ。じゃ勝手に捜索続行するから」
などと脳天気にぬかした畝宮は、背と尻の中間で両手をイチャつかせながら園内を散歩し始めた。
「捜すって、どこを?」
惚けた口調で、隆慈は皮肉への伏線を張る。
「決まってんじゃん。ここら。てきとーにキョロキョロしてたら見つかんじゃない。相手はただの猫でしょ?」
意味不明なモーションはそのまま、顔だけ隆慈に寄越している。
罠にかかった――
「そうやって見つけたとしても、他人の家の敷地内や路地に逃げられたらどうする?堂々と入り込むのか?
それとも御免くださいか?
今は夜なんだろ?
近所迷惑なんじゃないか?
……それに、暗いから危ない」
皮肉ゆえに“らしくない”饒舌が、並木隆慈の口から畝宮チカの耳へと疎通された。……たぶん。
言葉が終わる寸で畝宮はすべてのモーションを停止し、急遽、隆慈に対する臨戦態勢へとシフトした。要するに、接近。
「…………………………」
一メートル足らずの至近距離でだんまり。こういった状況には二、三歩後退するしかない。
「は?つか、何?」
と、隆慈。
しばらく隆慈の瞳を黙視したあげく、畝宮は残念そうに言った。
「あーあぁ、あたしやっぱあんたのコト好きになれそうもない。容赦なしだから……あたしみたいなオンナのコに対しても」
――と、いうことらしい。それは良かった。
声にならぬよう言葉をどこかへ還元し、隆慈は胸を撫で降ろす。無論、物理的な動作にはできそうもなかった。
あれから一時間は隆慈による独自の捜索が続いたが、ほぼ成果はない。
『二、三時間も無駄足』と言い残しついさっき独り帰路についた畝宮の存在は、隆慈の頭から綺麗に排泄されていた。
時刻は未明。どこぞのエリート会社のエリート社員が利用する豪勢な社宅の前を横切った辺り、隆慈は冷たい何かを感知する。
それは雪だった。
「またか…………」
上空の闇を仰ぎ、隆慈は澄んだ声で呟く。
直後、周辺にはいないはずの人の声が、抑揚のない女性の声が聴こえた。とても繊細で、それでいて良く響く声。隆慈のそれと相容れぬ何かを秘めていた。
「……かな?…………ても……いいよ……へぇ……いもの好きなんだ……黒……こさん」
声は断続的にも隆慈の耳に届いた。が、意味は捉えられない。
黒子さん?
ふざけた名前だな……。
誤認にしろ、九十九パーセント隆慈には無関係の会話だ。そろそろ叔母が勤務先から帰宅する頃、独り身のためか異常にスフレを溺愛する叔母にどう訳を話すか、隆慈の頭脳はそのことに是も非もなく占拠されていた。
「叔母さん、ヒステリック起こさなきゃいいけど……」
めまぐるしく稼働する頭脳より溢れた言葉を口で排泄する隆慈。
その場で一息吐いたのち、自宅への地図を頭の中で展開しつつ、隆慈は歩行を再開する。刹那、社宅の敷地内と特定できる角度と距離から、意外な単語が発せられた。
「バイバイ……黒猫さん」
隆慈にはそう聴こえた。いや、間違いない!
スフレ……?
単語から彷彿、連想された者の姿を稼働中の頭脳で構築し、隆慈は瞼が開閉する一瞬に準ずる速度で上半身を左に六十度回した。確信への境界条件は事足りる。
――声の言う黒猫はスフレだ。
確信を重ねた隆慈は頬を平手アンド平手で軽く叩くことで、冷えきって鈍化した躰にお灸を据える。全開だったブレザーはボタンで結合。今の隆慈にいつもの逡巡はない。
隆慈が初めの一歩を踏み出したとき、虚空を舞う白く冷たい妖精は数を倍増させていた……。
「アカリお姉ちゃん今日ウチ来なかったけど、じいじ何か聞いてんの?」
氷室一縷は運動会の赤組でも象徴していそうなハッピを雑なく畳みながら、やや距離のある玄関にあどけない声で問う。
事務所風の清らかでゆとりのある玄関には、
――サンタが居た。
従来のイメージにある『あのだるそうな帽子』の代わりに、頭部には冷え症な人が冬お世話になる『あの防寒アイテム』が装備されている。一縷はそれの呼称を知らない。
「一縷は“えすぱー”でなかったか?言っといて、もう承知しておるくせに」
地味でしょぼい白髭を擦ってから、サンタは俳句を詠むかのような悠長さで言葉を紡いだ。にしろ、言っていることは果てしなく子供っぽい。
間髪入れず一縷は、
「知ってたらきかないよ。じいじさあ、誤解してない?僕、べつにエスパータイプってワケじゃないんだけど……」
病院などに広く遍在する面長な待合椅子の上で脚をうんと伸ばし、一縷は膝に乗せた層を成す正方形のハッピを一対のパーでぽんと叩く。綺麗好きな自分を再認識するかのように。
「“えすぱー”でない?
むぅ……それは困った。わしのなかでは一縷は『えすぱー少年』で通ってたんだが……」
不満を隠すことなく冷え症のサンタは不服を漏らす。小学生にだ。
天井を上目づかいで見つめながら一縷の脇をかすめるサンタクロースもどき。
一向に停滞する兆しもないまま、
(プリンターやホワイトボードを擦り抜け)前進する祖父の様子に質問の霧散を危惧した一縷は、ずひっと待合椅子から身を乗り出し声を飛ばした。
「アカリお姉ちゃん『メリーメリー』辞めちゃうの!!」
一縷に心当たりはある。きっと、自分のせいだ。
「ん?辞めんよ。……今日いないのは巡礼のためで、お前さんのこととは関係あるまい。ただの墓参り。……父親のな」
サンタの背中から返ってきた人格無視の真面目な言葉を咀齣し、一縷は唾を飲んだ。
墓――つまり、死?
それは、
一縷が関知していない項目だった。
独創性って何でしょうね。他意のない自負はありますが、やはり基礎的な文章表現能力が伴っていないと(ちとだけ)難儀です……。年の功による知識や技術の差異を埋めるには勉強不足なんです。いやはや。




