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第一之譚:たゆたう水面と並木道(4)



【1‐4】



二十畳あまりは優に越えるであろう部屋で、質素を装いつつも高級感を隠しきれない家具たちが計算された配置で内装の一部に取り込まれていた。

目につくあちこちから、獣の爪痕に酷似したひっかき傷が無力な来客に畏怖の念を誘発している。


隆慈は諦観に濁った昏い瞳をテーブルに陳列するショートケーキに向けていた。数は半端じゃない。




「……それでねぇ、お宅のスフレちゃん捜しましたのよぉ、わたくし一人で。ね、考えてられる?一人でよ、一人で。もぅ途中でくじけちゃって、お宅に連絡しようかどうか迷想しちゃいましたのよ……。

それでも、責任は少なからずわたくし側にあるんですから。なんかもう少し頑張ろうかしらって、決意してみたりしちゃったりして。オホホホホ……」



つか、連絡しろ!



うちなるほむらの消火作業に精を出す隆慈の眼前、否、テーブル越しに、皮下脂肪の陰の団結で膨張した膝の上にそれなりに重量のありそうなシャム猫を抱えた、“いかにも”なマダムが居た。


くだんの“スフレちゃん”を回収しに叔母より不本意にも仰せつかわれた隆慈であったが、妙に詮索を拒む記憶と格闘し行き着いた矢先、待っていたのがこれだ。

できれば交わることを避けたい甘味な洋菓子の出現や、一般に世間話と美化される無駄に長くつまらない自己完結式の談笑はまだ我慢できる。だか、人一倍煩わしいことを嫌う隆慈には、端的に済むはずの事項の予想外の発展は決して耐えられるものではない。


暖房の利いた生ぬるい洋風仕立ての居間で、隆慈は単純に困っていた。










午前のうちに積もることなく消えちまった短気な雪。あれは何だったんだ……。



五十嵐勝御は、ありふれた街のありふれた街路樹に寄りかかり、物思いに耽っていた。用件を済ませたいと頑なに主張する隆慈としぶしぶ別れ、作戦の延長を余儀なくされた五十嵐は、電話で近くにいることが判明した『カノジョ』との待ち合わせのためこの場所を指定した。

チカは時間に対してのルーズさを好まない。もう数分も経たずにこの場に現れるのことは、五十嵐のなかでは確定している。

今日こそハッキリと表明しなくては、




――好きなヒトが他にいることを。


「あっ!居た居た。かっちゃん発見!」

と、後方より聴き飽きたハスキーボイス。




――チカだ。


いつものフランクな笑みを即席した五十嵐は、後方から近づくチカと向き合うべく躰を反転させる。数あるポージングのなかから『片手にお盆のウェイター』を抜粋した。


「おう!待ったぜぇ、軽く五、六時間。

ずばり、次元を跨いで恋人を待つカツミイガラシ」


「おーげさぁあ〜。てゆーかさあ、ばればれ嘘だから!」


すかしたウェイターのジョークをしなやかに受け流し、畝宮チカは頬にえくぼを刻む。

てっきり制服のままかと想像していたが、今のチカは黒、緑、紫と重ね着した私服姿だ。五十嵐は、質問を抽象的に投げかける。

「ありゃ。私服?」


「それってさぁ、ケータイで話したじゃん。いま智子たちと遊んでるから……って。智子と、つったら私服率かなりでっしょー?」

初々《ういうい》しいアクションを交えてチカは主張する。



どういう理屈なんだか。これだから女は好きになれない。いや、仮にも付き合っている訳だから矛盾するか……?



なにげに自問自答する五十嵐の脇で、健康的に日焼けしたチカはにも劣らぬ燦々とした笑みをたたえていた。




空は、再び暗雲の陣を組みつつある。










モンブランのせいで、なおさら胃がむかつく……。



マダムによるマダムのためだけの一時間にも及ぶ長話と、もろクリームなケーキシリーズよりは幾分マシかと選択したモンブランとの思わぬ接戦を乗り越え、隆慈は念願の釈放を勝ち取った。

今、隆慈はげんなり萎縮した心を抱えて、魚のアートが印象的な歩道橋を渡っている最中だ。そんなこと、さして意識するほどでもないが……。


躰のどこかに内蔵している時計を信用するなら、時刻は四時半ジャスト。隆慈は確認のためブレザーから携帯を摘出し、非節電で発光する側面のウィンドゥを覗く。




「――四時半か」

誤差はたったの二分。

隆慈の認識では、機械はたまにしか嘘をつかない。


故意による落下防止のためそこそこ背のある枠組みに腕を乗せ、隆慈は陸の水平線を眺望する。




ともあれ、直線上の数キロメートル先に位置する赤茶けた巨大な建造物――気象予報センターの出現によって、それは無惨にも遮蔽されてしまったのだが……。つい最近のことだ。何ヵ月前だったかは覚えていない。どうでもいいことだ。



どうでも……。



「うし。捜すか」

しばらく茫然と視覚からの情報を放棄していた隆慈はそう言い、歩道橋の一部を突き放す。

できれば陽が暮れる前に捜索を終えていたい。もちろん小さな逃亡者を捕縛したうえでだ。




逃亡者の名はスフレ。それは、隆慈の嫌いな洋菓子と同じ名だった。










今月の天候はアメダスじゃあ読めない。

誰かがそんなことを言っていたのを白樺宥夜しらかばゆうやは思い出す。


インターナショナルな最新情報が常時錯綜する気象予報センターの疎外された喫煙スペースで、宥夜は煙草を助手に頭脳を稼働させていた。不言の煙草は考察には適任の助手と言えよう。傍らには、コーヒーを主に取り扱う自販機の姿。


いつからそこに居たのか?


たぶん、自分がここに転勤する以前からだろう。


雑念の介入により思考の本筋から脱線した宥夜は、ガラス越しで慌ただしく専門用語を連呼する同僚たちを視界から除外し、その狭間に映るもうひとりの白樺宥夜をまじまじと眺めた。




光沢のない黒いスーツに収まる長身。


線の細く、それでいて滑らかな顎と眉。


睡眠不足が原因で二重に演出された目元。


額にかかるのは、若さを象徴する清潔感のある髪。




そう、透明な障壁にトレースされているのは、紛れもなく、気象予報士の白樺宥夜。


「さて、仕事の続きだ」


誰にともなく呟いた宥夜は、生涯の役目を終えた煙草を専用の墓地――灰皿に葬ってやった。










「そうゆーワケ……って、どーゆーワケ!?」


「いや……だからさ、好きな奴がいてさ、それでさ……。わかっだろ?そうゆーうやむやにしたくない気持ち……」


「わかんないっ!わかるワケないじゃん!!」


某所の洒落たカフェ。そのがら空きの店内。

第三者が耳にしても、若いカップルの一方が別れを切り出す場面であると容易く察することのできる光景が、人知れず展開していた。


「おい……泣いてんのか?」

あからさまに俯いて沈黙するチカの様子に、堪らず声をかける五十嵐。

チカは俯いたまま首を左右に数度振り、『大丈夫だから』を暗に伝える。


「……オレが全面的に悪いんだしな、奢るよ。好きなもんじゃんじゃん頼め。マンゴーパフェとかなんたらケーキとか――」


「もういいから!!」

言葉は遮られた。

怒声と同時に席を立ったチカは、涙腺からもたらされた水滴をその場に残し駆け足で店内から退く。逃げるように……。




水滴と共に取り残された五十嵐は離脱していた席に力なく癒着し、窓から等身大で見えるチカの去り行く後ろ姿を目で追っていた。両手で顔を覆うチカは減速することなく横断歩道を駆ける。



信号が青で良かった……。



そんなことしか思いつかない。

“心”という架空の臓器が融解したことで、五十嵐の躰の大部分は壊死してしまったようだった。










隆慈が路駐された自動車の下腹部を覗き見るタイミングを図っていたところ、どこぞより馴染みの違和感が発生した。


メールの着信っぽい。


目標物から躰の向きを逸らし、隆慈は携帯の液晶画面を視界に固定した。




題>チカからの命令!


本文>今近く?

あいつのことでリュウジに聞きたいことあるんだけど。いいよね?

もち、メールでは厳禁。とりあえず場所だけ書いて送って。




うげ……。


たかがメールの文章で剣呑な雰囲気を察した隆慈は、露骨に嫌な顔をする。

どうやら、面倒と難儀は累積する性質らしい。


「………………」


一時は携帯を畳み、しばしの逡巡に揺れていたが、決意したように再び問題と向き合う。

自分が現在位置する地理的な座標。自分が今遂行しなければならない義務の概略。

それらを淡白な文字列にアナログ化して、

返信――




任務完了。


隆慈は声にならぬ声もどきで、自我にそう囁いた。










十三分後。

歩道橋の上で時間を持て余す隆慈の視界に、颯爽と畝宮チカが降臨した。と言っても、律儀に階段を駆け登って、だが。


「はぁ……ふぅ…、ちょっと、フリーズ。タンマ。走って……来たから」

言いながら、内股に屈めた膝に両手を付き、努力家な肺の呼吸を調律する畝宮。

歩道橋にもたれたままの隆慈は、無言でその様を見つめていた。


自分に気を遣って走ったのだろうか?

……あるいは、意味もなく走りたかっただけなのかもしれない。




隆慈がそれこそ意味のない考察をしている隙に、畝宮は呼吸の調律を終えたようだ。証拠に、調子が良好っぽくなった喉を機微に震わす。

「あんたってコトバ濁すの得意みたいだから、ここは単刀直入で勝負するから……」



勝負。と、きたか。



今風の女子高生には相応しくない煮たぎった眼光を迷惑そうに受け止め、隆慈は彼女の口から放たれた言葉を反芻する。


僅かな間を置いて、畝宮は本題を告げる。

「さっきさ、かっちゃんに振られちゃった……。好きなヒトいるから……って。カノジョのあたしじゃなくてだよ。誰だよそいつって、思うでしょ?フツー。……教えてよ。あんたらって妙に仲イイじゃん。知ってんでしょ?ねえ、教えてよ!」

言う畝宮の視線は隆慈のそれを捉えて離さない。後半は、行き場のない憤慨が声色に混じっていた。


「……あいにく」

失礼と配慮して体重の支えを断念した隆慈は、そう答えた。




――沈黙が持続する。

幸運にも、この時間帯に歩道橋を利用する歩行者はまんざらでもない。もっとも、遠慮もあるのかもしれないが。




「…………そう」

下降するトーンで畝宮は言った。アクセントは実に曖昧。


程なく眼光の呪縛から放たれた隆慈は、不覚にも軽率な溜め息を漏らしまう。つい、だ。

しかし、今の畝宮には聴こえてはいないらしい。何やらぶつぶつと独り言に夢中だ。見た感じ。


いかついいわおのように対処困難なこの状況に嫌気がさした隆慈は、とりあえずの幕引きを催促することに。


「勝負はドローってことで、おれはアレ捜さなきゃなんないし」


件の“スフレちゃん”を済ませなければならない。

両親の蒸発によって自動的に託された『飼い主』の称号。

今となってはアレの保護者は隆慈なのだ。いかに淡白で薄情な隆慈とて、義務となれば話は別だ。


「そういうことで……」


基より無関係な演目の幕引きを確信した隆慈は、挙動なく佇立したままの畝宮に背を向けウォークを開始する。歩みながら、急に寒さを思い出し両手を擦り合わせていると、

「猫でしょ?捜してんの」

と、畝宮は澄ました声で言った。

隆慈はやもなく後方を振り返る。この展開は、何か嫌だ。


「ああ……名前とか訊くなよ」


畝宮との距離は割とある。それがいけなかったのか――


「あたしも捜すから!!!」

叫んだ。

そう言ってもいいかもしれない。指は、なぜか隆慈に突きつけられていた。



捜す――から?



『から』とは、何なのだろう?『から』とは?




前から違和感はあった。






が、どうでもいい。

比喩ですが、ようやく雲行きが怪しくなってきました。それに伴い対文章の持久力も右肩上がりな予感がしますので、今後の場面×2の尺もそれとなく延長されそうです。ええ、ご心配なく。

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