第一之譚:たゆたう水面と並木道(2)
【1‐2】
立冬とは、、十一月七日過ぎを指す季名だ。
つまり、
冬ではない。
その程度の言葉の綾など、この世界に十六年以上も滞在している隆慈の敵ではない。厳密には今が秋の暮れであることなど承知していた。
雪はまだ早い。早過ぎる。
教室では、現在進行形で国語の教師が詠う何の変哲もない詩歌をよそに、教室の在るべき座標に位置する大多数が窓を静観していた。
雪だ。
窓際の男子が、視覚で観察できる事象を喉と舌で紡ぐ。少し遅れて、教壇付近に佇立する諸橋の不愉快な表情が傷んだ教本の陰から露になった。
「ん……もう立冬なんだ、降りたい奴には降らせておけ。それが仁義ってものだ」
後半意味不明。
隆慈を含めた三の九乗は、教員諸橋五十歳の錆びれたジョークに対する免疫はとうに完成させていたのだ。
…………無視。
「なんかさ、今年の冬って来んの怖くない?ゼッタイさぁあ、そのうち死ぬほど寒くなるって。
あたしさー、冬眠しよぅっかな。きゃはっ」
「なに〜それ、マジウケるんだけどぉー」
場違いかあるいは適当なのか、教室の後部座席で両手をぱんぱんと叩いて笑う女子二名。
しかしそれも、永刧の“時”の寿命と比べれば刹那。教壇から二人に浴びせられる無言の憤怒を感知した以後、炭酸の抜けたコーラのように大人しくなる。
実際に、二人は肌がやたら黒い。
「続ける……」
渋い諸橋はさしずめ鳥龍茶といったところか。
一連の茶番を傍観しつつ、隆慈はこの状況に対してあくびが出るかどうか試していた。
放課後。隆慈は想定していた馴れ合いを早々と辞退し、学校一の変わりダネと各所で噂される友人――五十嵐勝御のもとへ自主的に赴く。
やはり予想どおりの場所に彼は居た。
「なー。おっちゃん機嫌悪くねぇ?」
「なんとも……」
『学内に設けられた屋外』へと到るための窓口に、遠目でも体格が良いことが観察できる男子生徒が、萎えていた。
隆慈の気配に気づいたのか、カップ麺のように即席した友好的な笑みを対象物に向ける。
五十嵐だ。
その様子から、諸橋に解放されたのは数十分前と思われる。今は、連続性を疑うコンクリートの段差に腰を置いていた。
彼に関する詳らかな解説は野暮なので、省略。
「そおかぁ?
オレが親戚だからってありゃ度が過ぎてるっつーの。体罰ヤバいんじゃねえの?よう知らんけど」
この五十嵐とあの諸橋は親類だっけ……。
改めて再認識するDMAの執念に感心しながら、隆慈は意識して彼から横幅二メートル離れた二段上の人工的な隆起に腰を落とす。
「サン…タさ、もうほっとかない?
つか、ほっといても無害だし」
ごく自然に提案した隆慈に五十嵐は、
「ダメっしょ。奴……、似非サンタの実体はオレらが暴かんと迷宮入りしちまうぞ!ヤだろ?リュージ的に」
「いや、嫌じゃないし」
即、否定。
隆慈の意志はめっぽう強靭なのだ。それを知ってか知らずか、五十嵐は言い淀むことなく、
「困るだろお前。つーか困れ」
と追撃。
友人の猛攻に呆れた隆慈は無言を維持しつつ五十嵐に背を向けた。
意味が解らん……。
「おぉっと……ちょいちょい、わあった。わあったから待ちんしゃい。な。好きだろ、テリヤキバーガー?」
段数は短いが横に幅のある階段を上がり終えた隆慈は足を止める。
別にテリヤキバーガーごときに動揺した訳ではない。
居たのだ。そこに。
楚々とした佇まいで、落ち着いた深い藍色の制服を着こなす女子が……。
確か下級生のはず。ってことは、一年生?
「何か用?それとも後ろの男に、とか?」
いつもの調子のいつもの声音で無難に尋ねた結果。事前に用意していたらしい台詞をソプラノに準ずる音域で発声する。
「並木くん。ちょっと……、いいかな?」
見事な上目遣い。不思議と腹は立たない。
名も知らぬ新人女優の演技がどこから撮影されているのか気になった隆慈は、自分を凝視する共演者二名を意識の隅に置きながら周囲を洞察する。
少なくとも、大がかりな機材は確認できない。
「ここじゃ、ダメ?」
縦横無尽に稼働する視線を少女の両目に戻し、隆慈は提案する。
イジワルな返答であることを自覚しつつ。
「え……!でも……」
隆慈の背を窺いながら下級生はそう呟く。
隆慈の認識では、背後で薄ら笑いを浮かべた不良が好奇の眼差しをこちらに向けているはずだ。
目前の下級生に暗黙の同意を求められた隆慈は、しかたなく順当な結論を提示する。
「あのさ、グラウンドのベンチでいい?あれこれ近いお陰で、サッカーやってないっぽいし」
毎度の学力検査が近い。成績によっては、いわゆる『留年』という事態に陥る。
「んと……いいですよ。と言うより、わたしもそこがいいです。はい」
何を勘違いしたのか。
隆慈の使う『いい』は、普遍的に用いる『良い』とは極端な差異がある。どうやら、隆慈の妥協は綺麗に誇張されたようだ。
「あの……どうかしました?」
そっぽを向いたまま微動だにしない隆慈に不安を感じたのか、下級生は先輩に問う。
事理に疎い隆慈とて、状況を理解、把握するのにさほど時間を要しなかった。
三人の頭上では、
銀灰色の空のから忘れていた雪の続きが、地上へと舞い降りていた。
文字どおり、似ているようで非なるサンタクロース――似非サンタ。巷の若い衆(これには小学生も含まれる)の間ではすんなり通じるそれが何を指すのかと問えば、意味のある解答は以下に絞まれる。
新潟の街を闊歩するコスプレじじい。
英会話の講師で、生粋のロシア人。
薬物依存の変質者。
サンタクロースの末裔だが、ただそれだけ。
と。人の想像力が成し得る幾多の仮説が唱えられてはいるが、隆慈の知る範囲では未だに真相には行き着いていないようだった。
「連絡事項は?」
「ない……」
人気の失せた校門に仁王立ちする五十嵐の脇を器用にすり抜け、隆慈は栓のないジョークを蹂躙した。
「ちゃうって!報告、報告。お前ってホント冗談つーじねえなぁ……」
「じゃあ、通じる奴とつるめば」
得意の正論攻撃。
しかし五十嵐はかなりの強敵だ。この程度では無傷であろう。
「だからさッ、オレは隆慈のこと好きなんだよ!まじまじで」
「……………………」
唐突に訪れた友人からの告白に、隆慈はしばらく沈黙する。数秒と経たず、躰は歩行を中断した。
「いや、同性に告られも嬉しくないし。……異性でも困るときもあるけど」
そのとおりだった。
「おいおい。漢としてだろーに、オ・ト・コとして!!
気づけ、そんぐれぇ」
五十嵐は言いながら、先を行く隆慈を追い越し、電柱の側で踵を返した。
傍らにそびえる高級マンションの住人が、何ごとかとベランダごしから顔を覗かせる。更年期に悩まされていそうなオバサンだ。
隆慈はすみやかに目を逸らす。
冗談が通じないのはどっちだよ……。
「で、どうすんの?似非サンタ」
隆慈はこの人物に相応しい話題を振る。
意表を突かれた五十嵐は、
「もち!作戦実行だ。
この前は駅んとこで見失っちまったからな。今日こそ積年の激闘にケリ着けっぞ」
と、意気揚々。
彫りの深い横顔には、陽光を反射したピアスが燦ざめく。
そういえば、雪……止んでる。
うざったい前髪をふるふる払い、隆慈は陽光の指す方角を見上げると、いつもの眩し過ぎる顔がそこに在った。
安堵。
「報告……まだじゃね?」
肩越しからふざけた五十嵐の声が聴こえた。ここは、根負けしてみるのもいいかもしれない。
「相談」
と一言だけ。
こんな感じでちまちま贈りますです。