第二之譚:滑稽なる茶番と裸一貫(2)
【2‐2】
人通りの少ない昼とは対照的に、夜は外食に赴いた家族連れで賑わう、陰日向な性格の繁華街。
その一際寂れた一角で、白樺灯は家主を待っていた。吊した両手には、スーパーの袋。
「卯月さん。居ますかー。
食材、調達してきました。入れてください」
――返事がない。
「!」
錆びついた音をたてながら、灯の視界に和風な玄関が展開する。見るからに因業そうな初老の女の、半ば呆れた表情と共に……。
「…なんだい」
女はつっけんどんに言い、前髪を掻き上げた。
ほほえんだ灯は、スーパーの袋を持ち上げ、
「夕飯、わたしが支度しますね」
「また、静香かい?」
「いいえ、今日はわたしの勝手なお世話です」
灯は嘘をついた。依頼人は静香という女性だ。でも、今となっては眼前の彼女が、灯の依頼人だ。
約束は、先週にした。橘卯月と……。
「…入りな」
「はい」
女――橘卯月は、自分の半分の歳月も生きていない赤の他人である娘を、自分だけの“城”に招き入れた。
殺伐としている――
初めて足を踏み入れたとき、灯の第一印象は率直なものだった。けど、今日は違っていた。
片づいてる?
旅館の面影を残す長い渡り廊下を足早に歩む卯月。背を追う灯は、言葉を選びつつ卯月とのコミュニケーションを図る。
「驚きました。キレイですね。廊下、長いのに」
「……掃除だよ」
振り返らずに、それでいて感情を込めずに、卯月は話す。
「アンタにやられちゃ癪だからね」
「あ、ゴメンなさい……。今度来たとき掃除しようかなって、思ってました」
申し訳なさそうに、灯は白状した。
「馬鹿かい? アンタは。…どうやら、世間擦れしてないようだね。」
鼻で笑ったあと、
「そうゆうことは言わないに限る」
「そうなんですか? 後生の為になります」
「後生? 若いのに、小憎たらしい措辞だね」
皮肉っぽく言った卯月に、灯は天井を仰ぎながら言葉を返す。
「措辞……? ああ、言葉遣いですね」
無視したまま歩く卯月は、私室らしき居間の前で立ち止まり一瞬だけ灯に視線を飛ばし、
「台所はあっちだよ。好きにしな」
灯の視線を台所の方角へ誘導した。
「はい。好きにさせてもらいます」
「…ふん」
再び鼻で笑ったあと、卯月は襖の中に姿を消した。残された灯は考える。
施設――入ってくれるのかな?
依頼人が当社に期待しているのは、持病を患っている母親を宰領の庇護下に入れること。
しかし、卯月は主張する。『まだアタシは若い。自治体の世話になどならん』――と。
灯も、卯月の主張には共感していた。
持病がどんなものかは知らないが、外見上、卯月は艶さえ感じさせるほど若々しい。それに、元々は女将だ。長年付き添った旅館をそう易々と手放せる訳がないではないか。
――板挟み。
友人に送ったメールで『明日には片づくかな?』と、自分自身に帰着を仄めかしてはいたものの、どうやらこの件は一筋縄ではいかなそうだ。じっくり腰を据えて向き合わなければ……。
床にうなだれるスーパーの袋を万有引力の束縛から乖離させた灯は、カツオブシの薫りが芳しい台所へ、躰の“向き”を換えた。
まず、台所と向き合わなくちゃ――
半日を各地の周遊に費やした太陽は、一日の始まりを告げるべく、新潟の街を照らしていた。
厳密には、地球が太陽の周りを運行しているのだが、吟じる風情に厳密もくそもない。
例のごとく洗面所で洗顔を終えた隆慈は、鏡に映った白い顔の妖怪の魔力で、躰の機関全体の信号がレッドランプに明滅しているかのような錯覚に捕われた。
「なぁッ!!?」――叔母さん??
隆慈はすぐに解った。美顔パックだと。
「朝から元気が良いのね。結構ケッコウ、コケッコウ♪」
悲鳴じみた隆慈の声を軽く受け流し、叔母は頬に手をあてる。
「それ、流行ってるギャグ?」
苦笑のまま、隆慈は質してみた。
「あら、知らないの? 若手ピン芸人『オムレツ吉原』の持ちギャグよ。勉強が足りないわね」
「あっそ」
隆慈はタオルで顔を拭きながら、
「親父からの言伝。……だろ」
「さすが私の甥ね。そうよ。伝言」
片手の甲を腰にあて、叔母は話し始めた。
「仁朗さん。朝から撮影らしいの。でね、『お前を説得させてみせるから来い』って伝えてくれって」
口真似は必要なのか……?
疑問を口にはせず、鏡に反映された叔母の目をしかと見て、
「了解。行くよ。説得されに、じゃなくて、決着をつけに」
と、決意を表明。
「利口ね。さすが私の甥」
意味不明な言葉を捨て、叔母は躊躇なく服を脱ぎだした。
俗に言う“朝シャン”は叔母の日課だ。
鏡越しで脱衣をおっぱじめたお笑い通のOLに、隆慈はつっこむ――
「つか、脱・ぐ・な」
あれ以来、五十嵐との連絡は途絶えている。いわゆる消息不明だ。隆慈は厚手のジャケットから携帯を取り出し、確認。
――着信は数件あった。
が、そこに五十嵐の名義はない。
おれが気にすることじゃない……か。
携帯をジャケットの内に潜らせた隆慈は、午前中のとりあえずの目的地に向かって、いつになく単調な歩行を再開した。
雲隠れになっていた父親との決着――
それは、今の隆慈にとって最優先事項だった。
嫌われているというのに、木枯らしは性懲りもなく隆慈の躰に吹きつける。
「寒い」
一言に、風は治まった。
「あ?! 風やんだ」
赤いハッピの少年は、呟いた。
地を蹴ってしなやかに身を翻し、
「誰かが僕たちのうわさとかしてたり?」
喋りながら、後ろ向きで歩く。
「その場合、わたしか一縷のどちらかが『はっくしょん』ね」
金粉を全身に塗したかのような毛色の大型犬を従えて歩む淑女――灯は、少年を諭す。
「前見て歩く」
腕を頭の後ろで組みながら歩く氷室一縷は、
「だ〜よねっ」
目の形を三日月に模して戯けてみせた。
曲がり角に差しかかった辺りで、
「危ない!」
灯が危険を知らせる。
「――え?」
が、遅かった。
どん!!
物体と追突。
エレベーターが上昇し初めた刹那に似た、重力感。次に、司令塔から四肢に防衛本能が疎通され、遅れて――
「いっつぅ……」
緩和されることなく感覚組織に直下した、鈍痛。
痛いってば!
「大丈夫!?」
声と共に足音が近づく。灯とクラウディアだ。
「僕はへーきだけどさ、ぶつかったひとは?」
「えっと……、大丈夫みたい」
呻き声の方を観察している灯は、一縷に簡潔な情報を伝えた。
車による交通事故ではないのだ。即死も悶死もありえない。
じんじんする尻を労りながら、一縷は規則正しい順序で起き上がる。先程のしなやかさは、もうない。
クラウディアが体躯を揺らして、のしのしと歩み寄ってきた。
「ああっ、す、すみません」
男はこちらを見向きもせず、カメラに故障がないか躍起になって点検している。
「あぁ…、良かった」
付近で眼鏡が割れていたが、そちらには気にも留めない。
「いたいけな美少年より、カメラのほうが大事? 僕、不満」
高級そうなカメラを撫で続けている男に対し、一縷は遠慮なく愚痴をぶつけた。
「一縷。初対面の人にそれは無礼よ。
……謝ったら?」
「僕にあやまってほしいよ。痛かったし」
言って、一縷はクラウディアの頭に触れ、
「こらしめちゃえ」
命令。
クラウディアはあくびで応える。
車が二台。連なって脇を走る。
「あ……ごめん。俺、地面とか見てたから」
割れた眼鏡をひょいと拾い、男は言った。
「いえ」
微笑を作る灯は、傍らで男に視線を刺す一縷の肩に手を置き、
「この子に非があるんです。なんたって、後ろ向きでよちよち歩いてたんだもの」
「僕は歩くとき『よちよち』なんて効果音しないよ」
上目遣いに灯を見据え、即座につっこむ一縷。
「………………」
年格好から二十代後半と想定できる男は、微笑中の灯を黙視している。
なんだよこいつ。アカリお姉ちゃんを見すぎ!
……キモイ。
一縷は男を睨んでやった。びしっと。
換言するなら。忠誠心の薄れたクラウディアの代わりに、威嚇を食らわせてやった。
「さ、行こうか」
垂れたリードを巻きながら、灯は促す。
「早くしないと、撮影の休憩時間、終わっちゃうよ」
「あ! じゃあ、俺はここで……」
言う男は、もじもじと道を譲る。
滑らかに灯に手を取られ、しかたなく――
「そだね」
一縷は賛成した。
いくらか歩いたのち、手から伝わる灯の体温に満足しつつ、一縷は気になって後方を振り返る。
割れた眼鏡の男が、恨めしそうにこちらを見つめていた。
二日間のうちに著しく活気づいた学区内に、並木隆慈は居た。
精確な緯度経度は不鮮明だが、そんな細かいことなど誰一人として意識していない。隆慈には無視できる詳細だ。
「並木道でのカットは諸々の事情で後回しにしてな。今日は朝から校舎内で撮らしてもらってるんだ」
授業あったらどうする気だったんだ?
今日は、土曜だから良かったけど……。
自慢げに話す並木仁朗は、豁然とも言い難いバックスクリーンを両腕で独り占めするように、
「主人公が昔やんちゃして面倒かけた高校教師が、そこの並木道で組織の人間に射殺されてな。それで主人公の三宅と助手の桜が、数年前に何らかの裏事情で廃校になった校舎で手がかり足がかりを探す。
てな設定なんだが。これがまた――」
廃校? ここ、まだ現役。つか、逆に新しいし……。
話は延々と連鎖し、しばらくして隆慈は、父の男優じみた声を遮断する“コツ”を会得した。
慣れてきたところで、隆慈は周辺を洞察する。
――教職員の利用する駐車場が近い。今は、おびただしい数のベンツが占拠している。暖房が利いた車内で待機している者も。役者だろうか?
素人の隆慈には用途の掴めない機材が、そこらかしこに分布している。至近では、ジーンズ姿の男たちが手持ちぶたさに煙草をくわえていた。中には、女性も幾人。
校内へのアクセス経路である玄関には、『関係者以外――立ち入り禁止』のテープ。こういったケースでは、教職員や生徒は関係者に含まれるのだろうか……?
無意味で無意義な考察から離れ、隆慈はテントに常備されている麦茶を一気飲みした。無論、コップを介して。
未だ、並木監督のお喋りは継続していた。そろそろ、シナリオの枢軸に触れそうだ。
「――でな、溝淵の言葉に血走った三宅は胸倉を掴むんだ。こう、ぐいってな」
熱弁する並木監督に不用意な接近を試みた若僧ADが、問答無用の相克関係を顕示された。
「か、監督……。放してください」
心も躰も脆弱そうなADが、自由を切願する。
「おお、スマン。つい熱を帯びてな。悪い」
言ったあとで、監督はADを解き放つ。
――ADは去っていった。何しに接近したのだろうか。軽率だ。
ほとぼりが冷めたと判断し、隆慈は話を切り出す。椅子に深く癒着した姿勢で、遠くを眺めながら。
「……どこに居たんだよ。六年間」
横向きのまま顔だけ監督――否、親父に寄越し、
「母さんは?」
「別れた。離婚」
ぶっきらぼうに事実を宣告した親父。
隆慈は、
「………………」
無言。沈んでいる訳ではない。
解析困難な表情を息子に向け、並木は、
「おいおい、驚かないのか? 父さん。驚いて欲しいな」
「たぶん、そうだろうと思っていた。四、五年前から連絡ないし……。
それに――」
隆慈は言いながら、視線を再び虚空へ。
「あの性格だしね」
「なんか湿っぽいな。フィルムを回せば、それなりの画になる」
並木は父親としてではなく、ドラマ撮影の現場監督として言った。
「……あっそ」
隆慈は並木監督の言葉に、使い慣れた辛辣な相槌。
沈黙。
やがて、父、並木仁朗が口を開いた。
「父さんの半生は、要約すると“疎略”だ。
株券の不正売買。仁義の道を踏み外した父さん――いや、俺は、非行を咎められるのを、あるいは法に裁かれるのを畏れて、逃避したんだ。新潟にな」
並木は隆慈の横顔を窺いながら続ける。
「母さんと出逢い。お前が産まれたのも、直度その頃だった……。
保身を図ったんだ。俺は」
カッコつけやがって。何が『保身を図った』だ……。
息子の胸裏を知ってか知らずか、並木は渋さを強調した声色で、
「で、平穏な日々を獲得した訳だ。十一年間分は、な」
――語る。
ようやく、一本の筋が通りそうです。本格的な一流ドラマを多分に意識しているので、無軌道かつ支離滅裂にならないよう気を配っているんです。小説家としての才能は未開拓ですが、“フィクション”は熟知しています。ご心配なく。シナリオ展開の技量には、きっと目を見張るものがありますよ。応援しながら陶酔しちゃってください。