第二之譚:滑稽なる茶番と裸一貫(1)
【2‐1】
「電話……いいの?」
微かに音声の漏れた方をちらと確かめ、白樺灯は言った。
静かに、淑やかに、買い物カゴを床に置く。
「聴こえた?」
無粋だ。隆慈は口にしたあと、そう思った。
案の定、灯は『なんでそんな質問をするのか?』といった顔で隆慈を見据えている。
隆慈の速まる心悸とは裏腹なテンポで、首……否、髪を横に振り
「……いいえ」
と灯は誠実に答えた。
良かった……。
素直な言葉を自我に囁き、鼓動を抑える隆慈。
別に聞かれたところで、誘因など生じないはずだ。なぜ、こうまで隆慈の心拍数を高めるのか?
あまつさえ、会話の途切れなど気にしない性分の隆慈を、この“時”ばかりは妙に狂わす。
世界の七不思議に匹敵するかもしれない。
考えながら、隆慈はさりげなく携帯の通話を切る。
「買い物?」
灯は普通に尋ねた。
隆慈は引き継ぐように、
「――中。カゴはあっちだけど」
お菓子の箱を棚に戻しながら、隆慈は放置していた買い物の助っ人を指差す。ここからでは死角になっているので、証言の立証には回収が伴う。
「意外。って言ったら、失礼かな?」
声に反応し、隆慈は視線を返す。
――昨夜の微笑がそこにあった。
秘書。
微笑の似合う職種を連想した。眼前の彼女も、隆慈が記憶している名詞の情報を頼るなら、便宜上は秘書らしい。
彼女なりの『営業スマイル』かもしれない。
「いや、全然。よく言われるし」
「イイと思うよ。まさか、料理とかもする?」
「日常」
「またまた意外」
「それも、よく言われる」
「言われ放題じゃない。ふふ……、可笑しい」
会話は連続した。
勉強か読書の最中にコーヒーを喉に通すくらいの頻度でしか話さない隆慈にしては、すこぶる希なケースだ。隆慈は一徹に、常套手段を頼ったりはしない。
しばらく灯は目を細めて上品に笑っていたが、隆慈の肩に視線が流れたのを機に、まるで潮が引いたかのように笑みを殺し、
「あ……、もう四時」
呟いた。
閉幕か……。
隆慈は悟った。談話はこれで終わりだと。
「依頼人と約束があるの。なんか、歳が近いのに偉そうでゴメンね。
『仕事が忙しくて』みたいな感じで……」
床のカゴを腕に提げ、灯は謝る。
つか、何歳?
「君さ、おれを十五か十六だと思ってない。十七なんだけど……。もうちょいで」
疑問詞は省いて、隆慈は個人情報を補足する。否、補足ではない。そもそも、名前すら名乗ってはいないのだ。
「ううん」
再び髪を横に振り、
「わたしが十九なの」
灯は、さらりと歳を明かした。
「十九歳?」
驚いては不躾だ。
自覚しつつも、表情を微妙に変化させて、隆慈は本音をこぼす、
「同い歳。かと思ってた……」
ほほえみ、灯はすぐに弾んだ声色で応える。
「歳より若く見えるのは、お互い様」
「な……」
対する隆慈は、淀んだ声色だ。
人の心裏は目元に表れやすい。隆慈は、意識して顔に力を過密させる。
「……じゃあ、行くね。」
短い沈黙のあと、灯が別れを仄めかした。
!!
咄嗟に隆慈は何かを言いかけたが、質したい事項が脳裏を錯綜し、
「ピュアチョコあった〜」
完全に、
発言のタイミングをなくしてしまう。背から、幼い声が飛んできたからだ。
「ねえ、ふたつ買ってもいーい?」
「ひとつにしなさい」
振り返るまでもない。
母娘による二人だけの会話は、じゃれあうように続いている。
レジの方へ歩く灯は一度だけ振り返り、通路に微笑を寄越す。
商品を手にしている場合、レジを経由しなければ店内から出られない。常識だ。
「あのさ!」
訊きたいことがある。引き止めなくては。
そんな欲が、隆慈の声を増幅させた。
が、
「――忘れてた!」
立ち止まった灯は、可憐に半身を反し、
「黒猫さん。大人しくしてる?」
隆慈の声を掻き消した。
「……あ。いや、フツー。だけど」
「そ。仲良くしてね」
隆慈の渾身の意は、どうやら一蹴されたらしい。それだけ言って、灯は歩行を再開する。
「待っ…………」
先程の、通話中の携帯から漏れた音声。もしかしたら、聴こえなかった“フリ”だったのでは?
つんのめる隆慈は、思考の海面から浮上した根拠のない憶説に脚が踈む。
まさか……な。
バカバカしい。
今日は金曜。
帰宅した隆慈は、週末に備えて多めに仕入れた食材を冷蔵庫に貯蔵していた。足回りにスフレが躰を擦りつける。
「お……」
スフレなど眼中にない。携帯の着信に、だ。
軽い日常的な動作で確かめて見ると、
やはりメールだった。
題>義兄様と会った?
本文>電話で聞いたわ。仁朗さん。今、ドラマの現場監督してるんですってね。しかも新潟で。
『宿泊はどうするの?』
律儀に訊いたのよ。そしたら、
『例え義理の兄妹でも万が一がある。お金の心配は要らない』って。
私は今の今まで仕事中なんだけど、もうビックリ。
下品でしょ?
とまあ、粗末な話は帰ってからするから、それじゃあね。
返信はしなくても済みそうだ――
階段を上がったあと、隆慈は察する。
それにしても、叔母が用件をメールで伝えるとは、甥の隆慈には新鮮だった。ちょっとだけ、だが。
一階から、
「フニャー」
とスフレの鳴き声。
他の猫と変わらぬ音韻だ。隆慈は聴きながら、再認識する。
不意に感性が刺激され、窓に目を遣ると――
夕映えの効果で、
まだらな雲が朱色に染まっていた。
――悪くない。
そう思い。隆慈はラフに破顔してみた。
『謝礼は随意。されど尽力の限り――』
と。
訝りたくなるほど胡散臭い看板を遠目で見つけ、白樺宥夜は無意識に歩調を速めた。
礼金を客に委ねて、どうやって収支を賄ってるんだよ。爺さん。
軒先の看板と対面するたび、宥夜はいつも敷衍を求めてしまう。
「いっそのこと訊いてみるか」
呟き、宥夜は横断歩道をその名称に従って“横断”する。独り言は、街の雑音に紛れて霧散したようだ。
夕刻の街は――
消化を行使する蠕動のごとく、忙しなくうごめいていた。
有限会社メリーメリー。
それを会社と主張するのは、休日に限定して釣りを嗜好する人物が、自らを漁師と名乗るようなものだ。
規模の問題ではない。是非を問うのは意志だ。
「はぁ、面接…ですか?」
会社――否、事務所の談話スペースで、斎藤善則は社の長と向かい合っていた。
「茶が出せんで悪い。秘書が外でな」
「いえ、お構いなく」秘書が外出中?! 有限会社って、そんなもんかな?
見てくれは慇懃な対応をこなす斎藤は、初老を五も六も跨いだかのような社長の腑抜けた言動に、少なからずの不信感を募らせていた。
大丈夫かな?
茶の代わりに、と勧めれたグレープジュースを社交の心構えで喉へ運びながら、斎藤は手にしたブドウの果汁のように濁った未来を案じる。
こっそり奥を盗み見ると、書類らしき紙で散らかったデスクの側で、社長の後ろ姿が確認できた。契約書でも探しているのだろう。
斎藤の第一印象では、体躯、服装に変哲はない。歳を感じさせる白髭は、しかし地味だ。オシャレの一言であっさり許容できる。ホームレスの印象とは相違に思えた。
肥えている訳でも、痩せている訳でもない。いたって健康そうだ。
道理ある観察を斎藤が続けていると、
――呼び鈴の旋律。
社員か依頼人。あるいは単なる知人の訪問か。
「客かもしれん。相手してくれ」
奥から、焦燥の混じった声が跳ねた。
「僕がですか?!」
コップを置きながら、斎藤は拒否に等しい言葉を、奥に返す。
「だって、僕はここの――」
「本日をもって、お前さんを『メリーメリー』の正社員として起用する。満足かな?」
「はぁ…………」勝手に起用されても……。
斎藤は、愛想笑いと共に身に染みた苦笑いを浮かべ、言葉に詰まる。
しかし、時間は待ってくれない。容赦なく呼び鈴は催促を続ける。
社長の了見は知れない。でも、自分は試されているのかも……。
そう、斎藤は妄信することにした。
萎縮した脚に血液を送り、直立。口元にグレープが付着している蓋然性を危惧して、時計のない右腕で拭ったのち、
「今、行きます!」
と催促に応え、斎藤は玄関へ急ぐ。
男のシルエットが視界に入り、手動ドアに向かって数歩、歩いたところで――
「爺さん。さすがにこれはないんじゃないか」
勢い良く扉が開いた。
若い男の呆れた声と、ほぼ同時に。
モザイクのように滲んだ『扉』は、佇立する人物の全貌を観察者に把握させるには不都合だ。例え、その人物が世間的に広く認知されている者であっても、障壁を掃く事前に観察者が人物を識別することは、安易ではない。
白樺宥夜!?
玄関が開けっ広げになったことで、初めて斎藤は認識する。
カリスマ気象予報士の白樺宥夜だ。と。
「あんた、誰?」
斎藤の視界を陣取る宥夜は、無骨に尋ねた。
テレビでの愛想は微塵も感じさせない口調と面持ちで……。
異常なまでに気まずい空気に、斎藤は、
「そんな、名乗るほどの者じゃ……」
得意の愛想笑いで応戦する。それしか、有効な手立てはない。
「それ、ジョーク? ジョークだったら笑うけど。演技でOKなら」
蔑んだ態度で、宥夜は笑顔を作ってみせた。
「いやいや、ホントに名乗るほどの者じゃ……」芸能人って、こんなもんかな?
白樺宥夜の年齢なら承知している。自分より三つも年下ではないか……。
斎藤は、舌打ちを露骨にキメてやりたい心境だった。
「宥夜か。灯は居んぞ」
斎藤の背後から、腑抜けた声。
それに対し、玄関で立ち往生する宥夜は、
「おでかけ? 秘書じゃなかったっけ、あいつ」
所在ない斎藤は、背に近づく老人に助けを求める。
一度は視線が交じり、すぐに逸らされ、
「新潟は寒い。東京の土産でもあるろうに。茶が良いの」
「ムリ言うなよ爺さん。そもそも俺らは親類じゃないんだ。いくら妹が世話になってるからって、んな義理はない」
「言うな。わしはオマエたちを親類以上だと思っとる」
会話は続行された。
「親類って言やあ一縷は? 社員なんだろ? あれで」
「一縷は塾か図書館。
あやつとて、勉強はしておる」
渋い顔で顎を擦りながら、社長は話す。
「どうやら一縷は“えすぱー”でなかったらしくての。本人は読心術と申しおった」
「あー、それか。灯に教わったんだな。……たぶん、あいつの直伝だ」
宥夜は何かを悟ったように、口を緩めた。
「ほぅ、直伝――とな」
社長も、真似るように口元を緩める。
「………………」
斎藤を独り現つ世に取り残し、二人は何やら彷彿している様子で、天井を仰いでいた。
「あのぉ……僕は?」
耐えられなくなった斎藤は微衷を晒す。
声に反応し――
中間に佇む斎藤を黙視する二人。
『……誰?』
声は、絶妙にハモった。
副題の『裸一貫』とは、資本(事業の基)が躰のみの状態ですかね。別段、低俗な意味を示唆している訳じゃありませんので、悪しからず。