前夜祭
皐月と赤松香織は大きな長机を挟んで対峙していた。お互いに硬い表情だ。
「以前、あなたがおっしゃっていた、葛城さんってどういう人なのかしら?」
「古い知り合いですよ」
目をくるくる動かしていた。また嘘をついている。
「それにしても今日は月山追いじゃない?見に行かなくていいの?また変装して」
「へぇ、どこから見ていたの?」
「変装が雑ですからね、あなた。まあ、とにかく警察も来ているし、下手に行動できないと思っていたのに、さすが香織さん、いえ、如月さん。もう勝手な行動しないでくださいね、本当に迷惑です」
赤松は皐月の焦りを感じ取った。やはり裏で別の計画が進んでいる。介入はしないという条件だったはずだが、その葛城という人物とも関係があるのかもしれない。
「そうそう、私の妹を殺したのは誰?本当にあの清沢っていう女?」
「あら、関心があるんだ」
「人並みにね。どうなの?」
「まるで別人みたいね。以前はもっと快活な少女っていうイメージだったのに人は変わるものね」
「話を逸らさないで。あなたこそ一体誰なの?12年前のこと忘れた?」
「12年前?時間を強調したいの?まるで無意味だわ。12年でも120年でも凡人には一瞬に過ぎない」
「自分は天才だと言いたいようね」
「駄目。不毛だわ」
皐月はとうとう席を立った。そのまま奥の部屋へ消える。赤松はふと天井を見つめた。首が自然に上がった。のびたというべきか。あれだけヒントは渡したのだ。そろそろ気付いてもらいたい。彼にはやるべきことがわかっているはず。真っ白い天井の壁に点々と茶色い染みが見えた。ぎぃと肘掛け椅子が軋む。この軋みこそが歪んだ制度を滅ぼすのだ。着火点は一つでいい。準備は少しでいい。ただ少し、平衡をずらすだけでいい。反応はすぐに始まる。そして連鎖する。滞りなく、終わりもなく、まがった光が消えていく。赤松の視界が歪んだ。眠気。或いは強制的なスリープ。あと少し、本当にあと少しだ。彼さえ気付いてくれれば、もう何もやることはない。肉体なんて要らない。そこに宿るシステムこそが美しいのだ。
葛城と別れた後、二人はまず月山の持ち場を回った。その後、月山の最深部、大仏広場(通称)にある捜査本部に向かった。迫田さんを見つけて永瀬にも届いていた郵便物のことを話した。迫田は慌てた様子で部下に何か指示を出して永瀬と俺を仮の捜査本部となっている洋風の屋敷に連れて行った。取調室にちょうどいい個室があった。窓がないので、多少窮屈だった。
「いやぁ、バタバタしていてすいません。明日の月山追い祭りがまさか開催されるとは思ってもいなかったので、急遽、人員を集めるために各管轄に要請をしていたんです。永瀬君、詳しく事情を話していただきたい」
警察は月山追い祭りの開催を知ったのは、ついさっきだったようだ。緑園学院内では当然、やる気ムードだったので、既に公式に発表がされていると思っていた。随分、緑園学院は閉鎖的なんだと感じた。永瀬は特に変わったことは話さなかった。情報的には警察が十分把握していることだろう。
「あ、あれ、もしかして東君?」
あまり名前で呼ばれることがないので俺は驚いた。しかも全く予想もしていなかった人物の声である。その声の主は取調室に入ってくると不思議そうな表情で、じろじろと猫のような目で俺を観察した。彼女は東京にいた時に一度お世話になった人である。
「旅行?」
「いえ、えっと、実はこっちに引っ越してきたんです」
「わお。それはびっくり、奇遇ね。あ、迫田さん、ちょっといいですか」
香川と迫田は席を外した。永瀬と俺は二人、この密室に取り残された。
「誰?知り合い?」
「うーんとね、東京にいた時の知り合いかな。まあ、ちょっとしたことで」
「え?何?ちょっとしたことって。普通、警察と知り合いにならんだろ」
俺は葛城を見習って、話題を変えることにした。
「あの話する?タイムマシンの方」
「タイムマシンというか、サマータイムな」
二人はその場で、暗黙の了解で、話さないことに決めた。そもそもわざわざ取り決めなくてもお互いに話すつもりはなかっただろう。少しして香川だけ戻ってきた。迫田は戻って来なかった。
「はーい、じゃあ、話聞かせて。君は確か…永瀬君だ」
「はい」
「例の封筒、具体的にいつ届いたの?場所は?」
香川はてきぱきと話した。どこかの誰かさんとは大違いだ。
「一枚目の白い封筒は香織が行方不明になった日の次の日です。机の中に入っていました。二枚目の赤い封筒は、昨日です。同じく机の中に」
「では東君に届いた封筒と同じように机の中に置かれていたということね。心当たりは、二人とも?」
俺と永瀬は顔を見合わせた。先に永瀬が口を開いた。
「香織は、ご存知かもしれませんが、緑園学院にとって貴重な選手でした。だから初めは他校の生徒が香織を誘拐したんだと思っていたんですけれど、今はもしかして本人がわざと自作自演でやっているんではないかと」
「そう思う根拠は?」
「直感に近いんですが、相手を油断させる、とかです。誘拐されたとみせかけて、夏になったら大会直前に戻って来て、他校を動揺させるとか。騙すにはまず身内からみたいな」
香川は腕を組んでふーんと低い音を出した。
「その可能性は真っ先に考えたよ私も。あの緑園学院だからね、やりかねない。知ってる?結構、君たちの学校、マークされているからね?」
「えっ本当ですか?」
「まあね。私の知り合いにも何人か緑園学院出身の人がいてね、よく話聞くから何か悪さしてそうだもんね」
相変わらず身も蓋もないことをずけずけという刑事だ。香川の印象がさらに悪くなっていく。
「それで東君、君は?」
「うーん、どうも赤松ではないと思います。悪戯だと思っていたんですけど、清沢があんなことになったので本格的にあの手紙は本気なのかなと思い始めたところで具体的に犯人は誰かということは分かりません」
「うーん」
香川が黙ったことで取調室が一気に静まりかえった。
「エアコンの仕組み知ってる?」
全く関連性のない話題なので、全く反応できなかった。
「君たちね、エアコンみたいに論理的。しゅーっと気体を膨張させて、パーンと圧縮するような無味乾燥した意見だよね。私はね、そんな話を聞くためにわざわざ現地に赴いたわけじゃないのよ。もうちょっと、本音を聞かせてくれないかな?じゃないと返さないよ?」
そう言うと、香川は素早い動作で取調室の扉を閉めた。今まで半開きだったのだ。
「もっとオーバーヒートするようなどろどろした話、聞かせてよ」
取調室を出ると、香川は迫田に向かって手招きした。くいくいと手を返す。声を出すな、と言いたいらしい。香川はぼそぼそと話した。
「東君に実は池袋署で一度任意同行をお願いしたことがあります」
「どういう容疑だ?」
「破壊活動防止法違反の容疑です」
「は?個人に対してか?」
「もともとこちらがマークしていた団体に所属していた可能性がありました。ですので任同を要求しました」
「なぜそれを池袋署が?完全に公安調査庁の仕事だろう」
「なぜって、私がいるからです」
「ああ、そうか。あの二人に何か聞きたいことがあるのか?」
「話が早い。さすが迫田警部です。私なら吐かせられます」
迫田は香川の一瞬光った眼を見逃さなかった。危険な眼をしている。仕事は確かにできるが、危険な香りを常に漂わせている。
「何か証拠があるのか」
「ええ」
「わかった。だが30分以内だ。あまり警察内部に軋轢を生みたくない。なるべく穏やかにな」
「わかりました」
香川は取調室へ戻った。
葛城がいつものように自宅で調べ物をしていると、滅多に使わない方(といっても最近はよくかかってくる)に連絡が来た。五回コールするのを待ってから通話ボタンを押した。
「さすが、用心深いですね」
「君に性格が似たようだ」
「私、見た目よりもぶっきらぼうですよ。挨拶はこれくらいにして…」
全く挨拶をしたつもりはない。
「実は既に月山の付近にいます。東真一をマークしていたのですが、東は永瀬と合流して今あなたのアパートへ向かっています。早急に帰宅してください」
香川にはGPSと同等のスペックで葛城の居場所を把握している。
「わかった、早急に戻るよ。そうだ、一つ謎が解けたよ」
「なぞなぞを出した覚えはありませんが」
「RHKの担当責任者に時刻表記を早めたかどうか尋ねてくれ。よろしく、じゃあ」
香川の冗談を無視した。あまり余裕がない証拠だ。
「永瀬君、あなたは12年前に起きた俗に言う日本版ブレーメン事件の被害者ですね?そして三上君、矢嶋君、清沢さん、里中さん、赤松詩織さん、そして赤松香織さんも同様に皆当時誘拐された子供達ですね?間違いありませんね?」
永瀬は青ざめた顔をした。不意をつかれたような、ボディブローが効いてきたような、突如の噴出だった。永瀬の目が明らかに泳いでいる。これには俺も予想外だった。
「赤松香織さんが行方不明になったと聞いたとき、どう感じました?またあいつらの仕業かも知れないと、少なからず頭をよぎりませんでしたか?あなたは故意に忘れようとしていますね、そうやって論理で自分を作り上げる。典型的な症状です」
「違う……ちょっと何の話ですか一体。もう帰ります。明日は月山ですので」
「本当だったんだ。あれを仕組んだのは、緑園学院、そう疑っているんでしょう?私なら情報をいくつか持ってるわ、取引しない?」
俺は永瀬を見つめた。永瀬は深くため息をついて、持ち上げかけた腰を下ろした。
「取引とは?」
「そこの彼を売る。それだけ。こちらの情報というのは、その誘拐犯についてよ。私ね、刑事の前は公安調査庁っていう官職だったの。だからその辺の危ない組織には割と精通しているわけ。信じてもらえなければ、今から公安調査庁の長官に直に電話かけて確認取らせてあげられるけれど?」
香川が俺を始めて睨んだ。どことなく赤松香織の細長い眼を思い出した。香川の目的は俺か。さあ、どうしよう。まさかこんなにすぐに幕切れになるとは思わなかった。面白くない。葛城だろうか。それとも迫田?日本の警察(あるいは探偵)は評判より優秀ではないか。下馬評はいつだって信用できない。永瀬が何も言わないので香川が再び口を開く。
「永瀬君は引っ越してから東君と同じ小学校に移ったはず。それから中学まで同じ。計四度も同じクラス。東君がなぜ東京に転校になったのか、なぜ私と面識があるのか、明晰なあなたならこれらの条件と東君から客観的に観察される行動を加味してすぐに答えは出るんじゃない?東君、とても頭いいでしょう?工学的センスなんか抜群」
「黙れ」
しんと静まりかえった。さっきの静寂よりも一段と濃い静けさだ。閉めきった部屋にこだまする声。一瞬、誰が発したのか判断が遅れた。
「黙れ、黙れ、黙れっ」
そうか、これは俺の声だ。
「永瀬は関係ない。俺だけでいいだろう。彼は解放してくれ」
「東…お前、やっぱり……」
永瀬は動きを止めた。香川は緩い瞬きをした。早い瞬きが緩く見えたのかも知れない。もはや不定だ。
「時間を早めたのは誰ですか。あれさえ、なければ完璧だった…それに脅迫状だって…」
「あなたは知らなかった。あなたの計算にミスはなかったわ。条件が不足していたのよ。月山追い祭りはね、知ってる?朝の五時から始まるのよ?体調管理には気をつけなきゃ」
俺は生まれてはじめて苦く、ドスンと胸に響いてくるような心臓の鼓動を味わった。屈辱、それとも挫折?いや、もっとシンプルな感覚だ。どうしようもない不運を感じている。
「…ははは、文字通りサマータイムだったというわけか。時間は30分どころじゃないな?一時間は早まっているだろ?」
「あら?それが本性ね。そうよ、その通り。あなたはびっくりしたはずよね。確かに時間通り来るように伝えたはずなのに清沢怜は一時間も早くやってきた。初めはあなたは清沢が抜け道を使って来たんだと考えたはず。でもどう見ても清沢怜が草を掻き分けてやってきたようには見えない。これでは作品が完成しない。だから殺すしかなかった」
「おい、嘘だろ……」
永瀬は俺の肩を掴む。俺はその力に抵抗しようとも思わなかった。天に見放された。これ以上に絶望を感じることがあるだろうか。
「何人たりとも救わぬか…」




