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神無月





永瀬は校庭を一人で歩いていた。あの日のことを思い出す。バトンが落ちたあの瞬間だ。永瀬はそのとき、何も考えていなかった。全くの虚無だった。意図はなかった、なかったと信じたい。次に赤松香織のことを思い出した。赤松香織は突然、永瀬の前に現れた。あれは校庭で三上と共に練習していた時だ。永瀬と三上は月山追い祭りに実質的には参加しない。一週間前に近くの陸上競技場で行われる予選会の結果が緑園高校の得点にカウントされるだけだ。10月のレースであり、また、新人戦の大きな地方大会直前であるので、調整が難しい。できれば出場したくはないところだが、こればかりは緑園高校に在籍している以上、出場拒否は許されない。赤松香織は永瀬だけに話しかけた。唐突に、あれは本当にミスだったの?と尋ねられた。仕組まれてはいなかった?とも言われた。永瀬は返答に窮した。そこで永瀬は不意打ちをかけた。赤松に、こう聞き返したのだ。

「あのお前の活躍は、仕組まれたものだったか?」

赤松は目を大きく見開いた。次の瞬間には鋭い目つきに変わる。疑惑が確信に変わるように。

「やっぱり。知っていたのね、ねえ、どこまで知ってんの?どこまでが八百長?一体誰がやったの?もしかして、全部が全部、仕組まれていたことなの?」

赤松は永瀬に詰め寄る。赤松の息が上がる。永瀬はちょうど真正面にある赤松の整った顔と対峙した。

「俺は何も知らない。バトンミスだって、よくあるような距離感の問題だ。少なくともあのバトンミスをほじくりかえそうとしてくるのは、お前くらいだよ」

赤松は全く信じてくれなさそうだった。

「本当に?それじゃあ、室崎っていう人にも同じこと尋ねるけど、大丈夫?」

赤松は永瀬から距離をとった。薄暗くてよく分からないが、近づいてくる人影はおそらく三上だろう。先ほどから約100mの間を往復している。

「室崎にでも誰にでも言って構わないよ。あのさ、バトンミスを仮に俺が仕組んでいたとして、俺には何の特にもならないし、それに、最悪なんだよ。後輩の俺がバトンミスだぞ、仕組むとか、ありえないだろ」

支離滅裂な言い方になってしまった。もう限界だった。あの記憶は封じ込めていたのだ。

「そんなこと分かってるよ。指示されていたことなのかを聞いているのよ。あなたにも手紙が届かなかった?封筒に入った」

急に話が分からなくなった。手紙、とはどういうことだろう。永瀬は赤松香織に関する黒い噂を知っているだけだった。赤松香織が先の陽炎祭で、下馬評を大きく覆し、優勝したことに関してだ。つまり、赤松の対戦相手が皆、わざと負けたのではないか、という噂だ。主に竹聖から流れてきたものだ。現に永瀬はこの噂を室崎から聞いた。

「手紙って……ちょっと何の話?」

赤松は驚いた表情だった。赤松の着ている制服のスカートが大きくなびく。それに構わず赤松は顔を横に向けた。三上の方を見た。三上はこちらに寄ってくることなく、往復走を続けている。

「三上君にでも聞いてみたらどう」

赤松はぼそりと言った。

「まさか……そっちは偶然だなんて。ありえない……」

赤松は独り言を呟く。

「お前さ、もしかして、妹と喧嘩でもしたのか?姉の活躍に拗ねた妹のくだらない悪口とかなんじゃないの?」

これは室崎の言っていたことだ。妹の赤松詩織は陽炎祭でフライイングで失格になっている。その妬みだと思った。詩織はしかも竹聖である。かなり苦しい説明だが、姉妹喧嘩の原因はそんなものだろうと思う。ただ、この赤松香織がそんな些細なことを気にするのか、という疑問は残るのだが。

赤松は何も言わなかった。急に何かとんでもないことを思い出したような顔をしていた。青ざめた顔でこちらを向いた。

「後でまた連絡するから。それから……」

永瀬の記憶はここでフリーズする。そう、あの言葉で永瀬は嘘をつくことに決めた。世界は単純だ。理由はいらない。赤松のにっこりとした笑顔を思い出す。別の赤松だ。

「うっそー、なーーんてね、どう、迫真の演技だったでしょ。この子、可哀想だな、って永瀬君、2.3秒くらい思ったでしょ。ばーか、ばーか、この赤松香織様がそんなこんな変な噂なんかで凹んだりしないから!」

180度、性格を変えられるこの女にはいまだに慣れない。他に似た人格に出会ったことがない。

「ほんとばからしい、どうでもいいような変な噂流しやがって…あれは実力だ」

永瀬はどう対応すればいいのか分からなかった。三上の方を向く。遠くに見えた。都合の悪い奴だ。

「いい?今から言うことでどうにかよろしく。私達を見ていない、知らない、あんまり知らなーい、私とあなたはバトンミスについて話した。すぐに別れました。そして私は次の日、家出いたしまーす、明日から半年間、国外逃亡するのでよろしく、わかった?永瀬副隊長!」

いつもの赤松香織にようやく戻った。それと、どうして副隊長なのか、ああ、隊長は三上のことか。

「秘密は墓場まで持って行けよ、陸上少年」

赤松香織のためなら、死ぬまで嘘をつき続けようと思った。赤松香織との以前の記憶は、今日はまだ思い出さないことにした。





10月。肌寒いわけでもない、なんとも夏の暑さを引きずった季節。赤松詩織の遺体が見つかったらしい。そう、手紙には記されていた。予定外であった。詩織の独断か、それとも別の意図か。緑園学院の意図ではないことは確かだ。それでは、本格的に始まったのか。赤松香織は、澄み切った夜の空気を全身で感じる。緑園学院から程近い、しかし大きく外界から隔たった場所で今は暮らしている。騒ぎは広まってきた。ようやく緑園学院の生徒達も気付き始めた頃だろう。あれが始まったのだと。今年は少し趣向が違う。人が死んだ。この、些細な事実のために多くの人間は特別な意味を見出そうとする。内容としては何ら変わりない、一年の大きな行事が始まった。詩織の殺害は永瀬のバトンミスと本質的には変わらない、そう彼が気づくまでは、まだもう少し時間がかかりそうだ。生徒会総務、矢嶋琇之からの情報によると、自分と同じクラスの、地味なあの東真一が私たちのことを嗅ぎ回っているらしい。これも予定外であった。警察は問題ない。生徒達は大丈夫だ。アリバイは決して崩れない。そういう仕組みになっている。ただ東にはノーマークだった。あいつが何かを知ってしまえば……清沢と……。

「香織さん、少しお話しを伺いたいのですが」

部屋の奥から声が聞こえた。香織は今、バルコニーにいる。とある屋敷の二階にある。ここから見下ろせるのは、周囲を囲む暗い森林と、紫色の空。香織は部屋の中へ戻った。戸口のところにこの屋敷の居住者である皐月と呼ばれる女が立っていた。この屋敷で暮らしている者には苗字が無い。

「どうしたの?手紙のこと?」

皐月はいいえと首を振った。

「あなたのことよ。あなた、緑園学院の生徒でしょう。詩織さんと怜さんが亡くなったそうよ。これも全てあなたの思惑なの?」

「多少、違うけど、まあ、あなたが気にすることではないよ。この屋敷にも迷惑はかからない」

皐月は綺麗な女性だ。女から見ても美人と言える。いつも白い服装だった。年は二十歳前後に見える。

「何を考えているのか知らないけれど、今朝、あなたを訪ねてここにやってこられた方がいましたよ。既にだいぶん、迷惑です」

え、と思わず呟いた。まさか。

「誰?」

「葛城、という方です。以前、一度お会いしたことがある方です。多少、因縁があるので、できればお会いしたくありませんでした」

葛城、という名前は香織には全く聞き覚えがなかった。一体、誰だろう。

「こうおっしゃっていました。こういう物騒な事件がこの辺りで起きたときは、必ずここに来ることにしているんです、ってね。迷惑です」

それは葛城さんに怒っているのか、香織に怒っているのかわからなかった。

「ごめん、全然、知らないその人」

「とにかく迷惑かけないで」

皐月はすーっと出て行った。この屋敷にやってきて一ヶ月。いまだにこの屋敷の住人には慣れない。ため息が漏れた。






俺は自室の窓から外を覗いた。もうすっかり日が落ちていた。神無月。10月。特別な月だ。神がいないのだ。八百万の神々は、皆、出かけている。赤松香織を連れ去ったに違いない。神隠しだ。そういうことにしよう。

「ちょっとだけ話を聞いてあげよう」

宮池が偉そうにそう言った。

「だから、多分、みんな嘘をついてるんだよ。そうじゃないと、あまりに辻褄が合わない」

「異議あり!嘘をつく理由は?」

宮池が手を上げてはきはきと喋った。

「わかりません」

「なんじゃそれ」

宮池は手を下げる。

「警察の話だとね、赤松詩織は自殺だそうだ。手首にリストカットの跡があったんだと。でも清沢の方わね……刃物で心臓をひとつきみたいだから、こちらは他殺と。つまり、詩織が清沢を月山の奥に連れ出して、清沢を殺し、自殺した。とまあ、心中だよ」

宮池らしからぬ神妙な顔付きで、生々しい話を語った。

「それにしても心中とはね……恐ろしや」

宮池が語った話は俺も知っていた。新聞に載っていた。警察もそう断定せざるを得なかったんだろう。状況的にそれが妥当だ。俺もすっかり熱が冷めて、探偵気取りをやめにした。葛城ともしばらく会っていない。

「調査した結果、なんか分かったのか?」

宮池が床に寝そべりながら尋ねた。眠そうだった。

「いいや。何も」

「そもそも人間関係だとか興味なさそうなのに、調査してるって聞いて耳を疑ったね、何度も」

何人にも言われた台詞を再び聞いた。理由か。

「友人の頼みだったんだ」

「誰?」

「三上」

それから返答が帰ってこなかった。もう眠ってしまったらしい。俺は三上に頼まれてバトンミスについて調べようと思った。そしたら赤松香織が失踪し、そして二人が死んだ。いつの間にか事が大きくなっていった。俺はその世間の渦に飲み込まれていたのかもしれない。携帯に着信が来た。葛城からだった。

「こんばんわ。今すぐ会えない?ちょっと大事な話があるんだ」

「今からですか」

「悪いね。ちょっと気になることがあるんだよ。緑園学院から一番近い月山の入り口付近で待ってるよ」

俺は隣で寝ている宮池をそのまま放置して、コートを羽織り、月山へ向かった。


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