第六話 帝妃
空は人で溢れていた。ヘイジは街を見渡しながら、一人で城に向かった。
オウビはこなかった。ヘイジだけで充分だと言った。手柄を独り占めするようで、ヘイジは嫌な気分になったが、オウビはそんなことを気にも留めていないようだった。船着場まで見送ってくれた彼女は、いつものオウビに見えた。
「気分はどうですか? 」
ヘイジが尋ねると、オウビは眉根を寄せた。
「嫌味? 少し寝ぼけたからって。」
寝ぼけていただけなら、ヘイジも気にしない。オウビが言い張るなら、それで済ませておいてもいい気がした。
報告を終え、ヘイジは家に一度戻ろうとしたが、その前にホウドに案内され、皇子と初めて会った庭に連れて行かれた。そこには、皇子がいた。彼の周りは近衛兵士がいた。
「大変だったな。」
皇子の顔から表情がなかった。それは周りに人がいるからなのだろうか、帝となったためにヘイジがそう見てしまうのか。
ヘイジは深々と頭を下げた。
「オウビ殿が、喜んでおられました。」
ヘイジは帝の顔をうかがった。彼の表情は変わらなかった。誰だか知らないような反応に、ヘイジは少し戸惑った。
これが、月の民の帝。表情は出さない、悟らせない。それが、自分達の統治者だ。
近衛兵士が耳に何かをささやいた。
「ヘイジ、干菓子は好きか? 」
皇子が何かを渡す。小さな包みはずしりと重い。
「テト家の者には珍しくないだろうが、もって行け。」
ヘイジが受け取ると皇子は去った。
近衛兵士と一緒に去ると、ヘイジはこっそりと中を見る。小さな紙が混ざっている。まるで逢引だと思った。
家に戻ると兄がいた。今帰ってきたばかりなのだろう、上着を脱ぐところだった。
「お前も戻ってきたのか。」
兄の顔を見るのが、十年ぶりな気がした。
「ちょうど良かった。戴冠式の服を仕立て直さなくてはいけない。お前も今日やってしまえ。」
「遠慮します。テト家ではなくて、一兵として出ます。」
「父上が許すわけないだろう。」
困ったように兄が眉間に皺を寄せる。
「それより兄上に聞きたいことが。」
ハルは溜息をついた。
「お前も父上の友人の名前くらい覚えろ。どなたに会ったんだ? 」
兄に釘を刺された。ヘイジは少しバツが悪かったが、尋ねた。
「ロサ家について聞きたいのです。」
ハルはしばらく考えた。
「ロサ家? 月の民か? 」
「ええ。」
兄がうなっている。父の知り合いでないのだろう。
「ヘイジ、戻ってきたのなら私の所にすぐ来い。」
背後から怒鳴られ、ヘイジは驚いた。父が剣呑な顔で立っている。
「子供じゃあるまいし、いつまでも兄の袖を引くような真似はするな。ハル、布が届いたので合わせてこい。」
「わかりました。」
今日は機嫌が悪いらしい。父に呼ばれ、部屋に連れて行かれる。元々仲も良くないが、機嫌が悪い時に顔を合わせたくない。
「どこでその名を聞いた。」
思いもよらない父の言葉にヘイジは一瞬なんとこたえて良いかわからなかった。
「仕事で耳にしました。」
「誰だ。誰がその名を口にした。」
咎めるような言葉に、オウビの名を出して良いのか迷った。
「業務上のことは明かせません。父はご存知ですか? ロサ家を。」
「その名を口にするな。」
いつになく苛立った様子の父に、ヘイジは眼を細めた。・
「何故語ってはいけない名なのですか。」
父は眉間に皺を寄せたまま、溜息をついた。
「ハルより先にお前に話すことになろうとは……。」
苦々しく父は口を開いた。
「先代……今はもう先々代になろうとしている帝のときだ。皇女だけを残して亡くなった帝妃を肋骨の君として生まれ変らせようとした。」
肋骨の君。
皇族の肋骨と、娘の肉で創られる母体を通さず産まれる娘のことだ。娑原の山奥にある泉で、肋骨を埋めた肉を沈めると、十月十日で娘として生まれ変わるという。
「だが、肋骨の君を生み出すための泉はとうに枯れ、密林の中にある源泉を求め兵をむけた。源泉にはたどり着けなかった。それでも帝はやめなかった。帝妃の肉が腐る前に、彼は多くの兵士を送りほとんどの兵が命を落とした。」
ヘイジも歴史で知っているが、出兵は地上の領土拡大だとしか知らなかった。
「その時の帝は病死して退位。弟君が帝となった。残された皇女は帝妃の縁者であるロサ家に戻った。だが、その後帝となった皇子を簒奪者として反感を抱いた者が反乱を企てロサ家に集まった。そして、あの事件が起きた。」
父の言葉一言一言に、なぜかオウビの顔が過ぎる。彼女の消えそうな微笑が、彼女の死を恐れない、眼差しが眼に浮かぶ。
「奴らは皇子を襲った。ロサ家は皆処刑された。嫁いでいた娘も自害した。ロサ家の血は途絶えた。」
血が途絶えた。嘘だ、オウビは生きている。
「本当にロサ家は誰もいないのですか? 」
父が恐ろしい顔でヘイジを見た。ヘイジは、僅かに震えた。
「……生きているのではないのですか? ロサ家は。」
思っていることが口をついて出た。
「なぜそう思う。」
ヘイジは頭の中を必死に回転させた。
「私の仕事を御存知でしょう。今は反乱組織について調べております。皇子が襲われたのは十年以上前です。今更ロサの名を聞くには、古過ぎます。反乱組織の中心にロサ家がいたのだとしたら……。」
父は溜息をついた。
「それはない。ロサ家は力を失った。あの件で財産も奪われた。」
そうだ。オウビがロサ家なら地上に降りるはずはない。帝の強い血を引く女子なのだ。
「ロサ家最後の娘も子を産めない。貧民街の農地にやられたと聞いた。」
落ち着きかけたヘイジに、父は背を向けて窓の外を見ながら呟いた。
夕暮れが眩しかった。ヘイジは露店の前にいた。その前で席に座っている青年がいた。顔を隠しているので歳まではわからないが、落ち着いた様子ではあった。
ヘイジは浅く会釈をし、干菓子の中に入っていた紙を見せた。
「一人ですか? 」
「密事は隠れてするものだ。干菓子は美味かったか? 」
微笑んだ彼の顔は、歳相応の幼さが感じられた。
「私が密書を書くときは印の所に印をつけるようにしている。朱色なのでわかりにくいが、針で穴を空けておく。」
ヘイジはよく見ないと気づかない、穴を見た。
「ヘイジも覚えておくと良い。役に立つ。」
まるで友人のように、話しかけてくれる。彼は自分を信頼しているのだろうか。ヘイジは目の前にいる青年がわからなかった。
「オウビの、生まれについて聞きました。」
ヘイジが言うと、青年は首をかしげた。この仕草はオウビに似ている気がした。
「彼女は、貴方のために死に場所を探しているような気がします。」
青年が立ち上がった。
「少し歩こう。」
青年は丁寧に顔に布を巻いた。
人通りが少なくなった道を、ヘイジは青年と供に歩いた。
「直接聞きたいことがあったんだ。私にまで上がってこない情報がある。」
「私の質問に応えてもらえるなら。」
ヘイジは、自分が無礼なことをしていると感じながらも躊躇わなかった。
「何が聞きたい? 」
微笑んで青年は言った。
「貴方は、オウビをどうするんですか? 」
青年は苦笑した。
「あの子に惚れたか。無理もないが、困難な恋だな。」
ヘイジは黙った。青年はからかったつもりだったのだが、ヘイジが本気だったと気づいた。
「テト家の父上を納得させるのは難しそうだ。」
楽しげに彼は言った。
「貴方から奪うことの方が難しそうです。」
ヘイジは真面目に言った。青年は微笑んでいたが、眼は笑っていなかった。
「私はあの子を空に上げる。地上に降ろす気はない。肌を日に焼かせず、麻の服など着せない。」
それは彼女にとって幸福なのだろうか。オウビは、帝の命を聞くことで生きているような娘だった。けれど、山の民と交わり笑っていた彼女もまた、オウビだ。空に閉じ込められた彼女は幸福には思えなかった。
「あの子は私の可愛い花だ。誰もあの子を幸せにしない。」
オウビの眼を思い出す。妄信してつきすすむ者の眼。狂気すら感じた。
「あの子の母が飲み残した毒を、あの子は口に入れてしまった。それがあの子の胎を腐らせた。父も母もなく、子の産めない娘がどうなるか知っているか? 」
嫁ぐ場所のない娘は羅倶汰にはいられない。鉱山街に送られる。
「私の父は、オウビを危険視しなかった。オウビは農地にやられ、それからニジ殿に出会い、ソウ殿に会い今の忍び者に収まった。今が一番活き活きしている。」
青年は遠い目をした。
「あの子の命が、危険に晒される。だが、止めることはできない。あの子の笑える場所がそこなら、それでもいいと思った。だが私は帝になった。あの子の生きる場所を与えるのは私だ。」
夕日が落ち長い影が重なった。青年はふと声を落とした。
「私の聞きたいことにも答えてもらえるか? 」
ヘイジははっと青年に振り返った。
「肋骨の君の泉はあったか? 」
ヘイジはうなづいた。青年の眼が細くなった。彼は舌打ちをした。
「やはりあったのか。」
忌々しげに呟いた。
「山の民が守っていて入れない場所だが、我々が入れるほどの場所にできていたのか。」
「御伽噺では? 」
「作れる。濃い血と原水さえあれば。陽の民は大量に作っているらしいからな。」
底冷えする、笑い方だった。ヘイジは肋骨の君創っている姿を想像してぞっとした。元々、王族が濃い血を残すために作った娘だ。自分の肋骨の娘の肉に埋め込み、山にある命の原水につけて十月十日すれば娘の赤ん坊がうまれる。その娘は肋骨の主の分身であり、永遠の伴侶。決して裏切ることはない。
「ですが、今帝が肋骨の君を作る意味があるのですか? 貴方がいるのに。」
カツキ皇子は若く、力もある。貴族の娘でも申し分ない。
青年は自分の首元から、くびに下げていた紐を取り出した。中から白い欠片を出す。
「これは私の肋骨の欠片だ。くだらないことに使われるのが嫌で持ち歩くことにした。」
青年は骨をしまった。
「父は肋骨の君には興味ないが、母体を通さずに命を生み出すことには興味があるようだ。」
薄気味悪い言い方に、ヘイジは怪訝な顔をする。
「天人の娘にとって出産は死に等しい。子供も誕生死する者が絶えない。だが、そうやって生まれてくる者は果たしてまともな人間か? 」
青年は自分の首から下げたものを確かめるように、懐を撫でた。
「オウビは……私に一度望んだことがある。私の肋骨が欲しいと。」
日はいつの間にか落ちていた。青年は、溜息混じりに言った。
「あの子にそれほどの思いをさせるほど、子を産むことは娘にとって大切なのだろうか。」
ひやりと風が通った。首筋の汗が冷えただけなのだが、寒気がした。
人気の無い路地裏の先に、人影が立っていた。五人ほどはいるだろうか。
彼らが立ち止まった瞬間、ヘイジは敵だと感じた。青年を庇うようにして立つ。
「ヘイジ、彼らを生け捕りにできるか? 」
青年の言葉に、ヘイジは冷静に言った。
「私が盾になるのがやっとです。逃げてください。」
五人が全員刃を抜いた。ヘイジも太刀を抜く。青年はヘイジの腕を掴んだ。青年の拳がヘイジより前に突き出される。相手が襲いかかろうとした瞬間、青年の拳が光った。光は一瞬で大きく膨らんだかと思うと、男たちの身体が吹き飛んだ
何が起きたのか分からなかったが、青年は散らばった男達の身体の間を駆け抜けた。ヘイジも慌てて追いかける。
「今の、光は? 」
人が駆けつけてくる前に、青年は城の裏の方向に走る。
「祖父が言っていたが、昔から私の一族に伝わる力らしい。銀色の光のようなものが出せるのだが、直線にしか進まないし破壊力が大きすぎる。仲間まで殺しかねない。」
茂みの中を青年は入っていく。
「このしげみの三本目に、ニジに作ってもらった道がある。もしもの時の脱出路として作ってもらったが、夜遊びにも使わせてもらっている。」
「……使わないでください。」
ヘイジは当たり前のことしか出てこなかった。
「ヘイジ、早く出世してくれ。お前ほど楽に話せる近衛兵士がいれば、父のように胃を痛めなくて済む。」
皇子は最後にそう言って笑った。親しんだ皇子の顔に、ヘイジは戸惑った。何がこの人の本心なのだろう。分からないが、おそらくオウビのことを話す彼は、本心を言っていると信じたい。
庭で水を撒き、久しぶりにツナと散歩や買い物をした。戻って家の中の掃除をし、自分の荷物を整理した。そして縁側でツナの頭を撫でながら、一緒にくつろいでいた。
「ツナ、山に行った時あなたの一族に会ったよ。あなたも山に帰りたい? 」
ツナがこっちを見上げる。尻尾をパタパタ振る。
「ここで充分? 優しい子だね。」
夕暮れの空は真っ赤に染まっていた。
「知ってる? 太陽が空を紅く染めながら中々沈まないのは、月に焦がれているからなんだよ。」
オウビは空を見上げた。羅倶汰が過ぎっていく。
「……私みたい。」
部屋はすっかり暗くなり、日は沈みきっていた。ツナを小屋に戻し、オウビは部屋の扉を全て閉めた。
持って帰った草花を押し花にしていると、玄関の方で音がした。オウビは護身用の剣を手に、玄関へ向かう。
「どなたですか? 」
尋ねると扉の向こうで人影が答えた。
「私です。」
ヘイジの声にオウビは扉を開けた。
「どうかしたの? 」
ヘイジは荷物を抱えていた。
「皇子から貴方に。」
荷物を揺らせると、オウビは笑って扉を開けた。
「お茶を淹れるから座って。」
「ニジ博士は? 」
オウビは居間にヘイジを招いた。
「戴冠式のお話しで羅倶汰にいってらっしゃるの。」
オウビはお茶を淹れて居間に向かった。ヘイジが広げたままにしていた押し花を見ていた。
「貴方は草花が本当に好きなんですね。」
差し出された干菓子を受け取り、笑った。中の干菓子は全て花の形をしている。
「似てるからわからないでしょう。毒草か、薬草か。だからこうして貼っておけば、花の形で判断ができるでしょう。」
オウビは大事そうに、干菓子をしまった。
「皇子は、帝になったら貴方を羅倶汰に連れて行くと言われていました。」
「私を? 」
てっきりオウビは嬉しそうに微笑むと思ったのだが、彼女は困ったようにうつむいた。
どうしていいのか、わからないという表情に、ヘイジはしばらく黙って見る。
「空に上がって、何をすればいいのか、おっしゃった? 」
「貴方を地上に降ろす気はないと言ってました。」
ヘイジはオウビの伏せたまつげや少し開いたまま、言葉を迷っている唇を見た。
「帝の命ですが、迷いますか? 」
ヘイジの問いかけに、オウビは顔を上げた。
「私は空に帰ってはいけない。あの方も存じてらっしゃる」
ヘイジは苦笑いした。
「貴方がロサ家の方だから? 」
オウビは瞬きをして、それからまたうつむいた。
「そう。私はロサ家の者で、反逆者だから。」
オウビは唇を噛み締めた。
「私は、選抜試験に紛れ込んだ日、ロサ家のものだとわかって反逆罪に問われた。私がロサ家だから、帝を暗殺するために入り込もうとしたと思われた。私は子供だったから、あの方のためにできることが父と同じ道しかないと思った。」
オウビは涙もなく言った。
あの記憶は、恐ろしくはなかった。絶望的で悲しくはあったが、嫌な記憶としてはのこっていない。
「誰も信じなかった。私が、あの方に仕えたいだけだと言っても、誰も信じてくれなかった。あの方は信じてくれたから、私に生きろと言ってくれた。私を、私は……。」
ヘイジが自分の話を、真剣に聞いてくれている姿が見えた。
ヘイジはいつも真剣だった。真剣に心配してくれて、真剣に助けてくれて、真剣に怒ってくれた。女のすることなんかどうでもいいとほおっておかないでくれた。死んでも任務だから仕方ないと、見捨てないでくれた。
「私は、貴方が、眩しい。」
笑って眼を開けた時、オウビはヘイジの腕の中にいた。
「私にも貴方は眩しい。」
オウビは恐る恐る抱き返した。
抱きしめて、相手の心音が聞こえるほど耳を寄せる。
「お願いです。何も言わずに私の妻になって下さい。」
オウビは首を縦に振ることは出来なかった。黙って、ヘイジの腕の中にいた。
「私は……子供が……。」
「言わないでください。貴方は言わないでください。」
オウビはヘイジの顔に触れた。彼が泣いているのを見て、オウビの眼からも涙が落ちた。
「私の代わりに泣いてくれた人、初めて見た。」
オウビは悲しげに笑った。