第二話 エビフライ
今は昼休みだ。森橋高校に入学して二度目の昼休み。
俺は人数の少ない体育館裏の倉庫の影にいる。湿った土の臭いが鼻を突く。
ここにいるのは俺だけじゃない。相変わらず無口な村田さんも一緒だ。
そもそも、こんな雰囲気的に暗い場所へ俺を呼んだのは彼女である。
ここに俺を呼んだ理由は分かっている。質問の答えを聞くためだ。
「・・・考えましたか?」
「うん、考えたよ」
最初に口を開いたのは村田さんだった。続けて俺が喋る。
村田さんは俺を見ている。俺は村田さんを見る事が出来ない。
『俺が村田さんの恋人になるか? ならないか?』
とても初対面の相手に言う質問とは思えない。
「教えてください。高辺さんの答えはどうなのですか?」
「俺は・・・村田さんの――」
――村田さんは知らないだろう。俺が昨日どんな思いで一日を過ごしたのか。
どんな気持ちで今日この瞬間を待っていたのか。分からないだろう。
そうだ・・・昨日の俺に何があったのかを・・・―――
第二話 エビフライ
朝6時半。部屋にある目覚まし時計が騒音を鳴らした。俺は時計を止める。
昨日は全く眠れなかった。新学期が始まる事に浮かれていたのも理由の一つだ。
最も的確な理由は、村田さんの質問に対する答えを考えていたから。
幾ら考えてもハッキリとした答えがだせない。答えは二つしかないのに。
勇気を出してOKと言うべきか? 素直にNOと言うべきか?
何でこんな簡単な事が判断できないんだ? お前はそこまで馬鹿じゃないだろ?
気が付けば朝になっていた・・・というオチで終わってしまった。
我ながら情けない。「トホホ・・・」という言葉はこんな時に使う物だ。
― ― ―
制服に着替えて、顔と歯を洗ってから、コンタクトを付けて、朝食を食べに行く。
台所に行くと真ん中に置かれたテーブルの上にシリアルの箱と牛乳が置いてある。
うちの母親は仕事のため早朝から家を出て行く。朝食はいつも手抜きだ。
朝は保険セールスの仕事をやっており、夜はバーテンの仕事をやっている。
母親の浮気が原因で父は家を出て行った。こうなったのは母親の自業自得だ。
「お~はよぉ~・・・ふぁ~あ」
のんきな欠伸をかいて弟の『俊太』が台所に入ってきた。
小学4年の弟は周りの同級生より背が小さい。俺もその時は背が小さかった。
本人はそれが嫌で堪らない様子で、憧れている人物は何故か『スッペ』だ。
「またコレ? 兄ちゃん何か作ってよ?」
「嫌だ! 俺は眠いんだよ!」
「え~・・・何でぇ?」
「夜更かし・・・だね」
戸棚から器を取りだして牛乳を入れてから、シリアルをいつもより大目に入れる。
「へぇ~、兄ちゃんが夜更かしなんて珍しいね?」
「ああ、確かに珍しいね」
「何かあったの?」
俺はその言葉を無視してシリアスを食べる。牛乳との相性が良い。
最近の朝食はシリアス続きなので、俺は味噌汁やご飯の味を忘れてしまった。
「兄ちゃん・・・もしかして、恋してる?」
弟のその一言を聞いた瞬間、喉を通っていた牛乳が変な方向に行ってしまった。咽た。
「ええ!? 当ったの?」
朝から胸の奥が痛くなったのにも関わらず弟は謝罪の言葉を述べない。
何とか息を整えてから俺はシリアスを一気に食った。洗面所に器を置いて椅子に座る。
「おい俊太! 何でそんな事を俺に聞いた?」
「だって、体育の先生が恋をしたら眠れなくなるって言ってたよ?」
「体育の石田先生が、そんなこと言ったのか?」
「言ってたよ! そんで、恋してんの?」
「してねぇーよ!!」
俺は台所を後にバックを持って外に出た。春とは言え朝方はまだ寒い。
自転車に鍵を指して森橋高校に向う。俺が恋なんてする訳がない!!
― ― ―
行きに途中でよったコンビニ(村田さんと行った所)で昼食を買った。
母親が弁当なんて用意しているハズがない。安いサラダパスタが俺の昼食になる。
軽くなった財布をバックに閉まってから、近くの歩道橋の階段を上り歩いた。
同じ学校の生徒が何人か歩道橋の上を歩いている。みんな複数で固まっていた。
歩道橋の上を歩くと昨日の村田さんを思い出す。そして、あの笑顔も同時に浮かぶ。
確か今日は村田さん休みだったよな? 明日までに答えを決めないと駄目かな?
「あっ! 高辺くーん!!」
なんて考えている内に聞き覚えのある声が耳に響いた。
昨日のテスト時に隣の席にいた女子だ。寒い朝から元気に手を振っている。
「あ、おはよう」
「おはよっ! 今日は寒いよね!」
その女子は階段を一気に上っては、俺の隣まで来て肩を少し強めに叩いてきた。
寒いと口にしていながらそんな素振りは一切見せていない。元気に笑っている。
「確かに寒いよなぁ・・・えっと――」
「布団から出るの大変だったんだよね~! お母さんに言われるまで出れな――」
「――あのさ、名前聞いてなかったよね?」
昨日は彼女が一方的に喋っていたので、名前を聞かないまま終わってしまった。
すぐにテンションが高くなって、相手の話を聞かなくなる性格の人には慣れている。
良い例を上げるとすれば『スッペ』だろう。彼女と似た所がある。
「え? 私の?」
『他に誰が居るんだよ?』という言葉が口から飛び出そうになった。
「言ってなかったっけ? 私は『浦知彩奈』って言うの」
「ああ、浦知さん・・・うん、覚えたよ」
「それじゃ硬いから『ウッチー』で良いよ!」
何て言われても、女子相手にあだ名を使うのは若干抵抗がある。
中学の時は女子と余り関わってなかったから、こうして話していると緊張する。
そう言えば、村田さんとコンビニに行った時も若干緊張してたな。
「高辺くん、昨日の帰りに村田さんと一緒に居たでしょ?」
「え? 知ってるの!?」
浦知さんの口から以外な言葉を聞いて自転車のブレーキを引いてしまった。
自虐的な摩擦音が歩道橋全体に響き渡った。前を歩く生徒からキツイ目を向けられた。
歩道橋にそんなに驚く事じゃないとは思っていても体が反応してしまう。
「・・・学校から帰る途中に、高辺くんを見たから」
「見てたの?」
「うん、見てたよ」
親の車で家に帰っていた時に、俺と村田さんが並んで歩いていたのを見たと言っている。
どうやら浦知さんは、俺と村田さんがコンビニから帰る途中の道中を目撃したらしい。
そして厄介なことに・・・・―――
「あの時、村田さんに何て言われたの?」
「言われた?」
「ほら、村田さんの顔見て驚いてたじゃん!」
そう。あの村田さんが俺に『恋人』になる様に頼まれた瞬間を見られていた。
歩道橋を渡り終わっても浦知さんはその理由を追及し続けた。
俺は下手な嘘も思いつけないで、何とか誤魔化そうとして朝から必死に頑張った。
頑張った結果がバレバレの嘘に終り、浦知さんは更にしつこくなった。
「どうって事無いんだったら隠す必要ないでしょ?」
「あ、いや・・・特に隠す様なことじゃないんだけど・・・」
「だったら良いじゃん! 教えてよ!?」
押しに弱い俺は次々と思ってないことを口に出している。
村田さんに『恋人』になれって言われました、なんて普通は隠すだろ!!
「そんなに隠すってことは・・・恋愛に関する事でしょ?」
「え!? 何でそうなるの?」
「男子って恋話になると、よくモジモジしてるじゃん?」
恋愛・・・向こうが勝手に決めたことだから俺の恋なんて関係ない。
そもそも何で俺なんだ? 相手なら他に一杯いるだろ?
「教えてよ~! 誰にも言わないから!」
いっそ誰かに話してしまえば楽になるのかもしれない。
そんな考えが頭を過ったが、次の瞬間に昨日の村田さんが思い浮かんだ。
あのコンビニの前で男を拳一つで撃沈させた村田さんの姿が・・・―――
「――ゴメン! どうしても無理!!」
俺は浦知さんをその場に残して1人自転車で森橋高校へ駆けて行った。
後ろで俺を呼ぶ大きな声が、吹き荒れる春風に乗って耳の奥まで届いてくる。
― ― ―
ここは縦長に広い部屋の中。幾つかの机を中心に寄せている。
机の上は見えない壁があるかの様に物が左右に置かれていた。
右側の机には二つのパソコンと文章が書かいてある用紙の束がバラバラに置かれている。
反対の左側には綺麗に整理された大工道具の箱が一つあるだけ。それ以外は何もない。
そして、その部屋の隅で置物の様に椅子に座っている村田郁江の姿があった。
森橋高校の制服を崩す事なくキチンと着こなし、背筋を正して静かに目を閉じている。
半分だけ開かれた窓から冷たい風が入った。村田さんの整った髪がフワリと揺れる。
「ふぁ~あ・・・疲れたぁ~・・・―――」
1人の女性が呑気な欠伸をかきながら村田さんが居る部屋の中に入ってきた。
長い髪をゴムで纏めているその女性は、部屋に入って机の左側に大きな荷物を下ろした。
椅子に座っている村田さんに目を向けたが、一言も掛けないで机の椅子に座った。
暫くジッとしてた後、女性は黒い上着のポケットから缶コーヒーを取りだした。
チラチラと村田さんを見ながら女性は缶を開けて口元に動かした。
コーヒーを口に入れようとした瞬間、村田さんの目がパチリと開いた。
「・・・お早うございます」
「え!?・・・ああ、おはよぉ」
女性は缶を口元から離して、目を覚ました村田さんの元へと向かった。
「昨日はどう? 学校は大丈夫だった?」
「はい。何の問題もありませんでした」
「そう・・・なら良かったんだけどねぇ・・・―――」
女性は何かを確かめる様に村田さんの体を触ってから「よし!」小さくと頷いた。
村田さんは何も言わず、机に戻って行く女性を視野に入れた。
女性が席についてコーヒーを飲んだ瞬間、部屋の中にもう一人の人物が入ってきた。
イヤホンを耳に付けたギザギザな短髪頭の男性だった。女性と同じ上着を着る。
男性は部屋に入るなり女性が飲んでいる缶を素早く奪った。零れた中身が机の上に飛ぶ。
「ちょ、何するのよ!?」
コーヒーを奪われた女性のキツイ視線に男性は笑って答えた。
「お前、よく朝から呑気にコーヒーなんて飲めるなぁ?」
「飲んでちゃ悪い訳? 返せ!」
女性は立ちあがって男性の手からコーヒーを奪い返した。コーヒーがまた零れた。
「あ~あ・・・半分になっちゃったじゃん! コーヒー代返してよ!」
「はいはい、後で返しますよぉ~」
この2人の茶番を見ていた村田さんは、男性の方に向かって声を出した。
「『村田さん』・・・今日は私の点検日ですよね?」
「うん? そうだけど何か?」
男性はイヤホンを外してから背負っていた小さな三角バッグを用紙の上に下ろす。
机の下にあるパソコンのスイッチを立ち上げてから男性は椅子に座った。
「時間はどのくらい掛かりますか?」
「まだ分からない部分もあるからね・・・下手したら明日まで掛かるかもよ?」
「それは、困ります」
大きな袋の中から工具の箱を取り出していた女性は村田さんの言葉に驚く。
男性は村田さんの言葉に興味を持った。バッグの中から眼鏡を取り出したている。
「え!? 何か大事な要でもあるの?」
「個人的な約束ですが、大切な用事です」
「約束? 学校の誰かと約束してきたの?」
「はい。そうです」
その返事を聞いた2人は互いの顔を見合わせて歓喜を確かめた。
女性の方は今にも飛び跳ねそうな程の笑顔を見せている。
「そうかい・・・それじゃあ、早めに切り上げる必要があるね」
喜んでいる男性は村田さんにそう言ってから、再びイヤホンを耳に付けた。
その後は2人ともお互いの作業に没頭していった・・・―――
― ― ―
午後の授業は体育だった。内容は2時間続けての体力テスト。
クラス混合で男女分かれてテストを行う。前の中学でも同じ事をしていた。
今は日差しで暖まった運動場にて男子と女子で50m走を測っている。
「1位・・・6秒ジャスト! 2位・・・――」
俺はこの高校に入学するに当たって楽しみにしていた事が一つだけあった。
森橋高校のジャージだ。入学パンフレットを見た時に俺はジャージに心を引かれた。
ブラックの生地にゴールドのライン。機能性に優れた構造。ブランドは『アディダス』!
言わずと知れているアディダスファンの俺として、これはとても嬉しい限りだった。
流石はスポーツの名門校として知られている森橋高校だけの事はある。
俺は今日この瞬間が来る事を、1年の誰よりも心の奥底から待ち望んでいと思う。
そしてジャージの配給日! 興奮を抑えながらジャージを待っていると・・・―――
「高辺は体操着を持ってきてないから、今日の体育は欠席だ」
「は、はい!?」
そう、俺は体育に必要不可欠の体操着を忘れてしまった。体育は欠席。
ジャージは何故か担任の教師に預けられ、次の体育まで持ち越しとなってしまった。
スッペや他の男子からは「気にする事じゃない」と言われて慰められた。
現在の俺はクラスの雑用として働いている。今は50m走の記録係をやっている。
皆が憧れのジャージを着て元気に駆けまわっている。これは屈辱だ・・・―――
― ― ―
「おーいタッキー! 俺6秒ジャストだぜ!」
「知ってるよ! 聞いてたよ!」
クラスの記録用紙にスッペの記録を書いた。このクラスの中では早い方だ。
体育館の段差に座って男子から記録を聞き取っている俺の隣にスッペは腰を下した。
大きめのジャージを見事に着こなしているスッペを見ていると自分が惨めに感じる。
「残念だな。ジャージ貰えなくて」
「言うな! まだ根に持ってるんだぞ!」
中学の時は「面倒です」を口癖によく体育を見学していた。おかげで成績は下だった。
そのせいでタイムの記録には自信があった。堂々と胸を張って言える事じゃないけど。
「もしかして、高校の体育も3年間サボリ通すつもりじゃねーだろうなぁ?」
「いや、流石にそれは無いよ」
「だよなぁ~・・・タッキーはそこまでチキンじゃないよな!」
正直に言えばそれは考えていた。高校も体育は休もうと思っていた。
でも高校に成ればそれが進級に関わってくる。下手に授業放棄は出来ない。
後は『アディダス』のジャージが着れるという事位だろう。今日は残念だ。
「うわぁ・・・女子はヤル気ないって感じだな・・・」
「なんで女子見てるんだよ! スッペ変態!」
「違うってば! アレを見ろよ!」
俺はスッペに言われて女子の50m走に目を向けて見た。
確かにスッペの言う様に女子の方はヤル気が見えない。全体的にノロノロしている。
体育の先生は男子の方を見ているが、女子には余り気を使っていない様だ。
「あれ、お前の隣にいる奴だよな?」
「え? ああ・・・!?」
スッペが言っていた奴とは浦知さんの事だった。
朝の件の事があって浦知さんは積極的に俺へ話し掛けてくるようになった。
本人はどうしても、俺と村田さんの間に何があったのか知りたい様子だ。
今はそんな事はどうでもいいんだ。問題はその浦知さんの隣にいる人物にある。
「あれ? おいタッキーどうしたんだ?」
その人物はスラリと細い手足と体に整った綺麗な顔の文系的な人だった。
長髪の黒髪は艶やかに輝いて滑らかな動きで風に靡いている。
「高辺さーん? 聞こえてますかー?」
そして、その人物の一番の特徴は・・・―――
「おい、タッキー!!」
『アディダス』のジャージが一番良く似合っている事だった。
少なくとも、俺の人生の中で最もよく似合っている女子が俺の視線の先いる!
「タッキー!! どうしたんだよ!?」
「あ・・・はぁ?」
「『はぁ?』じゃねーよ! 記録を書けよ!!」
気がつくと俺の前に何人かの男子が居た。記録を書いてもらうのを待ってる人達だ。
俺は急ピッチで、その人達から記録を聞いて用紙に書き出した・・・―――
― ― ―
それは家に帰っても鮮明に心の中に留まっている。
あの人の顔、あの人の笑顔、あの人の動き、あの人のジャージ姿・・・―――
俺の頭はそれの浮かんでは消えての繰り返しを延々と続けている。自分でも変に思う程。
俊太が言うに、帰宅時の俺は何を言っても上の空で目が変な方向を向いていたそうだ。
どうしたのだろうか? 何かの病気にでも罹ったのだろうか?
「建太・・・上向いてエビフライを食べるのは止めてくれる?」
ワインのコルクを引き抜いて母親は俺に言った。「ポンッ」と軽い音と共に意識が戻る。
いつもなら深夜に帰宅する母親だが今日は臨時で店が休業している。
母親が「三人の夕食は久々ね♪」と意気揚々に言っていた記憶が頭に残っている。
父親の存在が我が家から消えた時から、母親と一緒に夕食を食べることは無くなった。
「あっ・・・ゴメン」
「兄ちゃんどうしたの? 帰ってからずっとソレじゃん?」
「いや、俺にも良く分かんないんだよね・・・あれ? うわっ!?」
気が付いた時には夕食を大量の醤油をエビフライに流し落としていた。
醤油色に染まったエビフライは元の香ばしさを失った。皿全体に醤油が渡っている。
「今日の兄ちゃん、朝から何か変だよ?」
俊太の言葉を無視して、俺は醤油たっぷりのエビフライを口の中に処理した。
「え!? どういう事なの俊太?」
「昨日は眠れなかったんだって。珍しいでしょ?」
味の感想を言うとすれば、これは案外イケる!の一言に収まる。
「やっぱり恋してるの?」
「してないよ。そもそも誰に恋すれば良いんだよ?」
「僕に言われても知らないよ」
俊太の『恋』という単語に反応した母親は驚きの目で俺を凝視している。
母親は夕食を食べると言ったけど、食卓の上にあるのはワインとチーズだけだった。
アルコール中毒という言葉がある。母親はそれに当たると俺は確信している。
「何だよ・・・母さん?」
「へぇ~建太が恋ね・・・相手は誰なの?」
「だから、してないって言ってるだろ!」
全力で否定しても母親と俊太は粘り強く攻めてくる。まるで浦知さんみたいだ。
母親が『恋』という単語に反応した理由はその性格にある。
「何にしても一度好きになった女性は優しくしないと駄目よ。女は飽きやすいから」
「母さんじゃないんだから・・・俺は簡単に誰かを好きになったりしなよ!」
甘えたがりの面が強い母親は、常に男の人に抱かれていないと落ち着かないそうだ。
こんなことを堂々と息子に話す母親に俺は半ば呆れている。まるで兎だよ!
父親が家を出て行く時と母親は次々と新しい男の人を家に招いては一緒に寝ている。
俺が恋をしないと考えているのはその為だ。父親の気持ちが分かる。
「過ぎた事は忘れなさいよ。建太も男なら女を好きになるのは当たり前でしょ?」
「母さんみたいには成りたくないんだよ! 父さんが何て言って家を出たか覚えてる?」
「それとアンタの恋話は別でしょ? 食事中に嫌な話しは無しって言ったでしょ!」
俺は覚えている。父親が言ったあの言葉。笑ってそれに答える母親の姿を・・・―――
「じゃあ俺の話しなんかするなよ! 気分が悪くなるんだよ!」
最低な母親と思った瞬間だった。尊敬していた父親を家から追い出した最低な母親。
俺は皿と箸を流しに放り投げて、荒い足取りで階段を上って自分の部屋に向かった。
ドアを開けてそっと閉めた。部屋の中に入ると急に力が抜けたからだ。
「母さん・・・兄ちゃんは・・・――」
「――ほっときなさい。思春期はあんな感じだから」
母親の声も聞きたくなかった俺はベッドの中に潜り込んだ。暴れたい気持ちもあった。
気持ちが揺れる。あの人の記憶。母親への苛立ち。父親の言葉。恋・・・―――
このまま何も考えないで眠りに付きたい。無駄な考えは待ちたくない。
頭の中身を振り払って眠りに付こうと必死になっていると村田さんの顔が浮かんできた。
あの平々凡々な無表情が頭の中に出てくると他の考えがその顔に吸い込まれていく。
勇気を出してOKと言うべきか? 素直にNOと言うべきか?
未だにその答えは出ていない。俺はどうしたら良いのかが分からない。
必死になって考えれば考える程、横道に逸れて目的地から遠ざかって行く。
何でこんな簡単な事が判断できないんだ? お前はそこまで馬鹿じゃないだろ?
昨日も同じ事を自分に言われた。どうして村田さんはこんな事を俺に言ったのだろうか?
こうして俺の頭の中は休む事無く疑問と怒りと不安を運んでくるのだった・・・―――
― ― ―
朝だった。ベッドの中で丸くなっていた俺は鈍い動作で体を伸ばした。
昨日はなんやかんやで早めに寝てしまったのだろうか目覚まし時計の騒音は鳴なかった。
「兄ちゃん・・・お、おはよぉ」
俊太が無音でドアを開いて顔を覗かせた。昨日の事を心配してくれているのか?
「ああ・・・おはよ」
「兄ちゃん、僕もう学校に行くね」
「今日は早いな。いってらっしゃい」
俊太は直ぐに家を出る訳では無く、暫く横になっている俺を見ていた。
どんな目で俺を見ているのかは顔を見なくても分かる気がした。
「兄ちゃん・・・その――」
「――俊太・・・昨日は悪かったな」
予想していなかったのだろうか? 俊太は心底から驚いている様な声を出した。
「俺が勝手に怒っちゃったから、変な気を遣わせて」
「ううん、兄ちゃんの気持ちは分かるよ。母さん・・・泣いてたよ」
「・・・そうか」
「僕が変なこと言ったから・・・兄ちゃん怒って、母さんは―――」
「―――もう良いよ。仕方ないことだろ?」
「・・・・・・うん。そうだね」
今はこれしか俊太に言ってやる事はない。俊太には高辺家の問題は負わせたくない。
頼りない母さんが背負いきれない分はこの俺がフォローするしかないのだろう。
こんな些細な事で悩んでいては進める物も先に進まなくなってしまう。
もう良いだろ。仕方ない事だ。他に悩むべき事は沢山あるだろ?・・・―――
「ねぇ、兄ちゃん」
「――・・・うん、どうした?」
「もしかして今日は高校休みなの?」
この一言にハッとなった俺は慌てて目覚まし時計の針を確認した。
いつも起きる時間より針は前に進んでいた。つまり・・・―――
「寝坊したなら急いだ方が良いよ。じゃあ!」
そう言い残して俊太は部屋から出て行く。俺はゆっくりと閉じるドアを見て行動に移った。
ベッドから飛び降りて、急いで服を着替えて、体が汗臭い事に気付いて、風呂場へ直行。
シャワーを浴びて台所へ行くと「昨日はゴメンチャイ!」と書かれた紙が置いてあった。
それをビリビリに破いてゴミ箱に捨てる。制服に着替えて家を出た。この間僅か15分!
湯冷めした体を気に掛ける間も無く、俺は自転車を森橋高校へと急がせる・・・―――
― ― ―
ギリギリの所で遅刻は免れた。慌てて教室へ飛び込んだ瞬間にチャイムが鳴った位だ。
席に付くと村田さんの机に目を向けた。所がその席に村田さんの姿は無かった。
今日は来ると言っていたのに・・・と疑問に思っていると―――
「――遅刻してすみませんでした」
という丁寧な声が教室で静かに響いた。村田さんは遅刻して来た。
先生から遅刻に対しての一言を受けた後、何も言わず自分の席へと向かって行った。
村田さんは席に着く前に一瞬だけ俺の方を向いた。軽く頭を下げてから前を向く。
今日は例の質問の答えを聞く日だ。村田さんも気になるだろうか?
一時限目が始まってから昼に成るまで、村田さんは俺に声を掛けて来なかった。
初めて村田さんと会話したのはコンビニ弁当を食べている最中だった。
「高辺さん、お昼休みになりましたら体育館裏の倉庫に来てください」
「え!?・・・あ、うん」
それだれを言うと村田さんは教室を出て行ってしまった。売店にでも行くのだろうか?
一緒に弁当を食べていたスッペや他の男子から今の事について色々と問われたが、俺は何も答えずにコンビニ弁当を食べ進めた。答えが決まっていないのに・・・―――
― ― ―
そして昼休みだ。森橋高校に入学して二度目の昼休み。
俺は人数の少ない体育館裏の倉庫の影にいる。湿った土の臭いが鼻を突く。
ここにいるのは俺だけじゃない。相変わらず無口な村田さんも一緒だ。
そもそも、こんな雰囲気的に暗い場所へ俺を呼んだのは彼女である。
ここに俺を呼んだ理由は分かっている。質問の答えを聞くためだ。
「・・・考えましたか?」
「うん、考えたよ」
最初に口を開いたのは村田さんだった。続けて俺が喋る。
村田さんは俺を見ている。俺は村田さんを見る事が出来ない。
『俺が村田さんの恋人になるか? ならないか?』
とても初対面の相手に言う質問とは思えない。
「教えてください。高辺さんの答えはどうなのですか?」
「俺は・・・村田さんの――」
一呼吸おいてから、俺は覚悟を決めて村田さんへ言った。
「――恋人になるつもりは無いよ」
「・・・・・・そうですか」
俺には無理だ。昨日言った様に恋人を持つ事ができない。恋なんかできない。
母親の様になりたくない。真剣に人を愛する自信がない。僕には無理だ。
一呼吸の間に色々な考えが頭の中を巡った。昨日の出来事や一昨日の帰り道。
体育で見た『アディダス』の似合う女子を思い出した。それは関係ない事だけど。
「すみませんでした。勝手な私情に付き合わせてしまって・・・」
「あ、いや・・・ほ、他の人とかに、きっと良い人がいるかもよ?」
「はい、他を当たってみます」
村田さんの顔は悲しそうには見えなかった。それでも何らかの気持ちはあったと思う。
その丁寧な声が少しだけ震えている様に聞こえた。そう聞こえただけなのかもしれない。
村田さんはどう思っているんだろう? どういう気持ちで今日を迎えたのだろう?
そうして村田さんは「失礼しました」とだけ言うと俺の前からスタスタと去って行った。
小さい背中を見送っているだけの俺は村田さんにある疑問を聞くことを忘れていた。
それに気がついた俺は「村田さん!」と呼び止めたが村田さんは聞く耳を持たなかった。
「村田さんは、どうして俺に『そんな事』を言ったんですか!?」
それが聞こえたのか、村田さんはその場で立ち止まってゆっくりと俺の方を向いた。
遠くからでも十分に分かる。村田さんの顔が歪んでいる。村田さんは・・・―――
「『そんな事』じゃありません・・・『大切な事』です!」
――・・・泣いていた。
― ― ―
初めてのことだった。女子を泣かせてしまった。
『そんな事』・・・その言葉が彼女を泣かせてしまった原因なのかは分からない。
村田さんの声を聞いた瞬間、俺は何とも言えない懐かしい記憶を思い出した。
母親と言い争う父親。父親の言葉に笑って返す母親。何も知らない弟。
階段に隠れて泣いてる俺。父親が扉を開いて玄関へ向かう。それを必死に止める俺。
父親の足を乱暴に掴んで泣き喚いた。でも父親が母親に言った最後の一言。
「お前はそうやって『大切な事』を『そんな事』で済ませるのか!?」
その声に驚いて俺は父親の足を放した。遠ざかる父親の背中・・・―――
まるで似ている。あの似た言葉を俺は村田さんに言われてしまった。
あの時と同じ遠い背中から。父親はその時はどんな顔をしていたのだろうか?
村田さんと同じ様に・・・泣いていたのだろうか?
その時の母親は笑っていた。今の俺は笑えない。そんな気持ちになれない。
熱いものがゆっくりと頬を流れる。それは数を増して止ることはない。
もしかしたら母親も・・・あの時は泣いていたのかもしれない。
こんな息子の様に・・・―――
~終わります~