第一話 教科確認テスト
高校生。実感が全く沸かないけど俺は今年で高校生に成る。
受験勉強に苦労する事は無かった。偏差値が低い所を選んだから。
母親や先生からは「もっと上を目指せ!」と散々にまで言われてきた。
上を目指す。俺はこの言葉が大嫌いだ。無駄な努力が大嫌いなんだよね。
自分のレベルに応じた学校に行って何が悪い? 高校に入れたから良いだろ?
高校を出て、大学を出て、親の仕事を継ぐ。俺にはそれだけで十分だ。
「俺の人生はこれでいいのか?」なんて考えた事も無かった。
『あの人』に出会うまでは・・・・・・―――
第一話 教科確認テスト
『あの人』に会ったのは森橋高校の入学式の時だった。
退屈な入学式だった。俺の感想はこういった行事の大体は退屈で終わる。
俺は母親を学校に残して自転車で家に帰っていた。親と一緒に帰るのは気分が好かない。
新しい制服の着心地は最悪だった。早く家に帰って堅苦しい学ランを脱ぎたかった。
『あの人』に会ったのはその道中だった。あの時は何の違和感もなかった。
自転車を手で押しながら歩道橋を渡っていると1人の女子高生が俺の横を通った。
俺と同じ位の身長にショートの頭。あの時と全く変わらない姿だった。
『あの人』の事だから俺とすれ違った後にジーっと俺の事を見てたんだろう。
「あの・・・すみません!」
俺は『あの人』に呼び止められた。何の違和感もない透き通った声が耳に入る。
『あの人』は俺の前まで背筋良く歩いてくる。変わらない声量で俺に話しかけてきた。
「ここから森橋高校までの道を教えてください」
相変わらずの丁寧な発音はよく聞き取れる。俺は『あの人』に別の事を教えた。
「入学式ならもう終わったよ、『村田郁江』さん?」
「あ・・・私の名前・・・」
入学式に来なかった新入生の数は1人。それも俺がいる4組の生徒。
もしかしてと思って、その生徒の名前を言ってみたらやっぱり当った。
「森橋に行きたいなら、歩道橋を下りて右の交差点を左に真っ直ぐだけど・・・」
「もう終わった・・・―――」
村田さんは俺の言葉を聞くと、まるで静止画の様に動かなくなった。
考え込んでいる時の村田さんは動かなくなる。俺がそれを知るのはまだ先の話だ。
「む、村田さん?」
「分かりました。森橋高校まで行って教員に頭を下げてきます」
村田さんは正確な早口で俺に言うと、後ろを向いて階段まで歩いて行ってしまった。
その時の俺は村田さんを変な奴とは思わなかった。関わる事は無いと考えていたから。
俺も歩道橋を下りようと思った時、「すみません!」と村田さんに呼び止められた。
「お名前を伺ってもよろしいですか?」
「ああ、『高辺建太』!!」
俺は村田さんに叫んだ。大声で叫ぶのは久しぶりな気がする。
村田さんは俺の名前を聞くと何も言わず階段を下りて行った。一歩ずつ丁寧に。
ここで俺は初めて村田さんを変な奴だと思った。名前を言って良かったのだろうか?
どうせ同じクラスの人だからこれ位は良いだろう。隠す事でも無いし・・・。
俺は村田さんが階段を下りるのを眺めてから、自転車に乗って一気に階段を下りた。
― ― ―
登校初日に俺は村田さんに会った。教室に入れば会うのは当たり前だけど。
村田さんは椅子に座って置物の様に動かない。なんだか気味の悪い感じだ。
「おはよ、タッキー!」
「よぉ、スッペ!」
教室に入って早々スッペに声を掛けられた。『川埼允』通称スッペである。
中学時の友達の一人でバレーの推薦でこの学校に入学した奴だ。
幼稚園の頃からバレーをやっていたスッペは身長が大きい。羨ましい!
「ここまでタッキーと同じクラスになるとは思わんかったよ」
「それ俺も思ったよ。これで4年目だな!」
「やっぱり俺達って、硬い何かで結ばれてるんじゃない~?」
「やめろよ! 気持ち悪い!」
中学の時は俺もバレー部に入部していた。1年の頃からスッペは強かった。
最初の大会では補欠。次の大会では2年を差し置いてレギュラーに入った。
2年で部長になって今に至る。スッペはバレーの才能に恵まれている。
うちの中学が全国に行けたのはスッペのおかげだ。結果は全国2位。
「将来は日本代表だな!」と言うと「サラリーマンに成るかもよ?」と言う。
スッペの将来は殆ど決まった様なものなのに何であんな事を言うんだ?
俺はその点でもスッペが羨ましかった。先の事が見えているのは良い事だ。
因みに俺はスッペを恐れて2年でバレー部を止めた。強すぎて怖い。
「なぁ、タッキー・・・バレー部入ってくれよ」
「何で? 俺バレー下手じゃん」
「知ってる顔がいないと緊張するんだよ」
「将来の大物選手が、そんなことで弱音吐くなよ!」
川埼がスッペと呼ばれている理由は、川埼が苦手としている梅干しに関係している。
あの川埼に梅干しを食べさせると「スッペ!!」と言って梅干しを吐きだすのだ。
そこから取って『スッペ』である。俺の『タッキー』よりましな由来だ。
「チキンのお前に言われたくねーよ!」
「臆病者じゃない。やらないだけだ!」
「それがチキンなんだよ!」
「うっせーよ!」
仕方ないから教えるけど、中学の時の俺は何事にも逃腰で有名だった。
ある日『ケンタッキー』の中に俺の名前が入っているのを発見した奴がいる。
逃腰のチキン。ケンタッキー。この二つが合体してタッキーが出来た。
「タッキーだったら公立に行けただろ? 何でここにしたんだよ?」
「・・・落ちたら嫌だろ。無駄な努力が嫌いなんだよ」
「うっわ、逃げ腰だ!」
俺をからかうスッペを相手にする気が無くなり俺は自分の席に付いた。
俺の席は村田さんから斜め後ろの席だった。そして前の席はスッペである。
スッペが俺を追いかけて前の席に座ると同時にチャイムが鳴った。
周りの生徒が慌てて席に付く中、村田さんはずっと椅子に座っていた。
何かをやっている訳でもなく前を見て姿勢良く席に付いている。
ボケた老人でもそんな事はしないぞ? 考えながら俺は教科書を机の中にしまった。
― ― ―
教科書は必要なかった。今日1日は教科確認テストをやると先生が言った。
スッペが「勉強してねーよ!」と困った顔を俺に向けてくる。自業自得だな。
俺も人の事が言える立場じゃない。この学校に入るのに勉強が必要とは思わなかった。
入試だって楽な問題ばかりといて合格が来たのには正直に驚いた。
「今日のテストは楽だと思うよ」と俺は言ってやった。スッペも馬鹿ではない。
纏まりのないバレー部を引っ張っていくのはとても大変だったと言っていた。
それで全国2位まで行けたのだからスッペは相当のリーダー性があるのだろう。
スポーツの頭脳は付き物だ。公立を狙えたのはお前だったんじゃないのか?
― ― ―
前言撤回。スッペはやっぱり馬鹿だった!
1時限目は国語のテストだったがスッペの野郎は開始直後に寝てしまった。
堂々と机に顔を伏せてしまい最後にはイビキもかいた。物凄く煩い!
馬鹿というよりアホだ。俺もやりたかった事を堂々と・・・。
先生がスッペを起こそうとしたが全然反応しない。結局スッペは終わりまで寝た。
「おい、このデクノボウ起きやがれ!」
と言って俺は1時限目終了後にスッペの背中をシャープペンで突き刺した。
それでもスッペは起きない。他の生徒がスッペに声を掛けるが無駄だった。
どうやらこの馬鹿は一度寝たら絶対に起きないという特徴を持っているらしい。
起きてくれないと本人もそうだがこっちも困る。汚いイビキでテストに集中できない。
それは村田さんを除いての事だ。村田さんの席はスッペの隣になっている。
現在の村田さんは朝と同じく椅子に座っているだけで何もしていない。
村田さんはスッペのイビキをどう思っているのだろうか? 煩いのかな?
入学式の帰りから今まで村田さんを見てきたが、やはり変の一言しか浮かばない。
「・・・あ!」
そんな村田さんが俺の方を見ている。正確には人溜に目を向けている。
村田さんがここで初めて席を立ち上がった。椅子をしまうとスッペの方へやってきた。
スッペの周りではこの馬鹿を起こす勇者は現れるのかと教室の生徒達が集まっている。
村田さんがその人溜の中に入ってきた。軽く周りを見渡してから俺の方を向いた。
「おはようございます。高辺さん」
「・・・お、おはよう」
そういえば村田さんと会話をするのはこの時間帯が初めてだ。
それだったら最初に挨拶から入っても変じゃない。そして村田さんはスッペを見た。
「この方は・・・?」
「え? ああ、この馬鹿が寝ちゃってさ・・・起こしたいけど起きないんだよ」
「不眠症か何かの病気ですか?」
スッペが病気? 真冬の川に入っても寒いの一言も言わない健康馬鹿だぞ?
その時は俺も一緒にやったけど話にならない位寒かったし風邪も引いた。
「いや、ただの寝不足・・・かな?」
「起こした方が宜しいのですか?」
「起きてほしいけど絶対に起きないよ」
何故か俺が自信ありげに笑っていると、村田さんは片手をスッペの首に回した。
起こす気でいるのか? と村田さんを見ていると周りの生徒達も村田さんに注目し始めた。
すると数秒も立たない内にスッペの馬鹿が突然目を覚ました。凄い! これは奇跡だ!
「・・・熱ッ!!」
スッペは目を覚ますと同時に椅子から立ち上がり首に手を回しながら悶絶している。
これを見て村田さんは何も言わずして、また自分の席に座ってしまった。
「おい、スッペ・・・大丈夫か?」
「大丈夫じゃねーよ! 誰だよ! 俺の首に変な事した奴!!」
「首? どうかしたのか?」
「熱いんだよ! 首が!」
スッペに首を見せてもらうと首元にクッキリと赤い手跡が付いていた。
「これって火傷じゃねーのか?」と俺の隣にいた男子が教えてくれた。
火傷? 俺は村田さんを見た。自分の役目は終わったと言わんばかりこっちを見ている。
何人かの生徒も俺と同じ様に村田さんを見ていたが村田さんはスッペだけを見ていた。
俺が村田さんに何をしたのかと聞こうとしたら、村田さんは急に前を向いた。
すると学校のチャイムが鳴り数秒遅れて先生が教室に入ってきた。
そうして2時限目が始まった・・・―――
― ― ―
スッペは火傷と教えてくれた男子のススメで保健室に行く事になった。
先生から何があったんだと聞かれても俺はなにも知らないといって真実を述べなかった。
正直に答えても信じてくれないだろう。先生も余り深くは追求しなかった。
翌々考えればあの火傷はテストを受けなかったスッペが悪いのだと俺は思う。
そしてこの一件で俺の中の村田さんに対する興味が高まった。
俺はテスト中に何度も村田さん目を向けた。2時限目は理科のテストだった。
理科は俺の苦手分野であり諦めているものなので頑張る必要はなかった。
「いいかー、カンニング行為は絶対にするなよー!」
先生は俺を見て言ったに違いない。俺は慌てて自分の答案用紙に目を戻した。
村田さんはずっと問題用紙に目を向けていた。この人もやる気がないのか?
先生がスッペの調子を見に教室を出たのを合図に再び村田さんへ目を見た。
するとさっきまで問題を見ていた村田さんが答案に凄い速さで何かを書いている。
その手は異常な程に速く細かな動きをしている。その動きはまるで機械の様だ。
その人間離れした動きに見惚れていると隣の席に座っている女子に肘で突かれた。
「カンニングは駄目よ!」と小声で注意までされてしまった・・・―――
― ― ―
なんやかんやで今日一日の授業及び教科確認テストが終了した。
帰りの挨拶も済まして教室の中から生徒達の姿が消えていく。村田さんもいない。
テスト中にずっと村田さんを見ていたが全てのテストであの動きを見せていた。
問題用紙を確認しては答案用紙に凄い速さで何かを書く。この繰り返しだった。
入学式の時と言いスッペの時と言い一体あの人は何者なんだ?
そうしてアレコレ考えていると隣の女子が「じゃあね!」と言って帰って行った。
2時限目のカンニングの誤解以来、隣の女子が俺に話しかけてくるようになった。
結構喋る人で殆ど俺がその人の話を聞いていた事になる。分かった事も沢山ある。
その女子は隣町からここまで通っている。この学校に来た理由は学力の低さの為。
テレビを見るのが大好きで今人気のアイドルなら詳しい詳細まで全て知っている。
入りたい部活が沢山あり、その中で運動部のマネージャーをやりたいと言っている。
俺は部活に入るつもりは無いと言ったら驚かれてしまった。人の勝手だろ?
あ、そう言えば肝心の名前を聞く事を忘れていた。まぁ、別の日で良いか。
僕から聞いた事と言えば村田さんの事だ。あの人は特に気にしていないそうだ。
まぁ、意識しなければ目立たない感じの人だからな・・・村田さんは。
村田さんは大人しすぎる。話しかけると対応してくれるが自分から動く事はない。
スッペの時もそうだ。誰もが困り果てた時に動いたのだから自分の意思ではないと思う。
「ん・・・・・・―――」
―――考えてばかりいても時間の無駄だ。帰ろう。
スッペの事も気に成るが今日はもう疲れた。宿題も出てないし家に帰ったら寝るか。
うん、そうしよう。それがいい・・・―――
― ― ―
そう考えて帰っていると案の定、例の村田さんに遭遇してしまった。
ゆっくりと歩道橋の階段を上っている。遊びながら階段を上がる小学生に抜かれた。
考え付かれた俺の頭が「村田さんは避けろ!」と言っているがそれは無理な話だった。
この車道を渡るには歩道橋を渡るしか方法がない。信号は今は工事中だった。
そうして俺はトボトボと自転車を押して階段を上がった。遅く歩けば気付かないかな?
「やっぱり・・・高辺さんですね?」
「あれ? 村田さん?」
階段を上がると橋の真ん中辺りに村田さんがいた。俺がいた事を知ってたのか?
「自転車通学なんですね」
「ああ、家遠いんだよ」
「そうですか・・・遅くなると大変ですね」
入学式の時から思っていた事だが村田さんは全く表情を見せない。
常に無表情で口元ですら表情を作らない。村田さんは動くマネキンみたいな人だ。
でも、「そうですか」と言っている時の村田さんは少し寂しそうに見えた。
「寄り道とかしてるから、何時も帰るのは遅い方だよ」
「そうなんですか」
「じゃあ、さよなら・・・」
俺は歩道橋の上に村田さんを残して階段を降りようとした。
すると、村田さんが俺の方まで走ってきた。村田さんって走れるんだ・・・。
「ちょっと寄って行きませんか?」
「え・・・何処へ?」
村田さんの口からでた以外な言葉に一瞬だけ茫然としてしまった。
何処へと聞くと村田さんは俺の後方を指した。そこにあったのはコンビニだ。
歩道橋の階段を下りたすぐ近くに位置している。あそこに寄れと?
「駄目ですか?」
「ああ・・・少しならいいけど・・・」
「では、行きましょう」
そういって村田さんは階段を下りた。手すりに捕まって一段ずつ丁寧に下りて行く。
村田さんは階段を下りたり上がったりするのが苦手なのかもしれない。
俺が自転車で駆け下りる。村田さんの顔はこの時も寂しそうにしていた。
下で待っていると村田さんがやってきた。最後の一段を小さなジャンプで飛ばした。
着地を決めると「待たせました」と言って俺の顔を見た。俺は早く帰りたかった。
「じゃあ、行こっか」と言うと村田さんは何も言わず速足でコンビニへ行ってしまった。
俺は慌てて村田さんの後を追いかけた。村田さんの足は意外に速かった。
― ― ―
村田さんは1人でコンビニの中まで行ってしまった。誘っといて置いていくのかよ!
なんて考えたけど、学校での村田さんの奇妙な行動を思い出すと、どうでもよくなった。
「あの人は普段は何を考えているのだろう?」という疑問が素直に沸いてくる。
中に入ると村田さんは雑誌コーナーにいた。呼んでいるのは『週刊ジャンプ』だった。
「む・・・村田さんはジャンプ好きなの?」
置いて行った事は気にしない事にして、ジャンプを読んでいる村田さん側に寄った。
読んでいると言うより唯ページをパラパラめくっているだけだった。
「これ、この漫画が好きなんです」
「『ブレイスバース』か・・・へぇ~」
俺もジャンプは毎週読んでいる。ブレイスバースは読み切りで乗っている漫画だった。
内容は機械のモンスターに家族を奪われた少年が修行して家族を取り戻しに行く話だ。
村田さんは少年の姉が好きだと言う。この話は良く読んでいないので解らなかった。
家族を奪った機械のモンスターは家族の1人である少年の姉と合体していた。
自ら進んで合体した姉を前に少年は泣き崩れてしまう。それでも少年は姉と戦った。
結果的には勝ったのだが姉は少年を恨んで死んでしまうというオチである。
「『ブレイスバース』って暗い話なんだね」
「私・・・このお姉さんの気持ちが解らない・・・」
「ふ~ん・・・え?」
村田さんはジャンプを手に持ったまま車道を走る車を見ている。
ふと気に成って腕時計を見ると針が4時を回っていた。この時間ならまだいてもいい。
「どうして機械になろうと思ったのか解らないんです」
「漫画には『機械に魅了された』って書いてあるけど?」
「そこが私には理解できないんです」
「でも、漫画の話だろ? そこまで入り込まなくても・・・」
「機械も人も結果的には人が創る物です。同じ物でこんなに違うんです」
村田さんは駐車場に置いてある車に目を向けた。ちょうど人が下りる所だった。
男の人が苛立った様子でドアを閉めて女の人が後から追いかけてきた。
コンビニの入口前で喧嘩の言い合いを始めてしまった。
「俺にそんな事を言っても、解んないんだけど?」
「操られる側に成るのが不便だと思わないんですか?」
「自由に成ったとしても不便なのに変わりはないと思うよ。それに面倒だろ」
「面倒・・・何故ですか?」
村田さんは『面倒』と言う言葉に反応して俺を見た。黒い瞳に俺が映っている。
入口前の男女の喧嘩は更に酷い物と成って行く・・・。
「人は何でもできる訳じゃない。無駄に努力をするよりも自分に会った事をする方が良い」
「それでは、その『無駄な努力』は何のためにあるのですか?」
「叶わない夢に生きる奴の為。結果は無駄に終わって無駄に疲れるだけ」
俺がそう言うと村田さんはジャンプを閉じてレジの方まで持って行った。
ジャンプを受け取る店員は外で起きている喧嘩が気に成っている様だ。
俺が入口を見ると遂に男の人が女に手を出し始めた。女の人は顔を殴られた。
「うわぁ・・・酷でぇ・・・」
女の人の体には他にも数か所殴られた後がある。同じ男にやられたのか?
男は女の胸倉を掴んで女の顔をもう一度殴った。女の声が中まで聞こえてくる。
「さて・・・行きましょう」
レジを済ませた村田さんが俺の隣にいた。行くという事は店を出るという訳だ。
俺は今から出るのは止めた方が良いと言ったが村田さんは1人で言ってしまった。
村田さんが外に出るとやはり男に目を付けられてしまった。
村田さんは男の側で止まった。男の人が怒鳴りつけたが何の反応も見せなかった。
そして男は女を放して村田さんに体を向けた。男の拳が村田さんを襲う。
「村田さん・・・!!」
俺は覚悟を決めて自動ドアを抜けて外に出た。でもその必要はなかった。
男の手は軽々と受け止められて村田さんにその手を背中に回された。
女の時よりも酷い男の声が俺の耳に伝わってきた。村田さんの無表情が際立った。
俺は何の為に外にでたのか? 村田さんはそのまま男を地面に押さえつけた。
そして男と同じ様に手を握って男の顔を殴りつけた。鈍い音が駐車場に響く。
暴れていた男は気絶してしまった。顔を見ると鼻が見事に潰れて血を流している。
「早く帰りましょう」と言って村田さんは速足で駐車場を抜けて行く。
俺はそんな村田さんの背中を追い駆けながら駐車場を後にした。
― ― ―
村田さんと並んで歩いている時に救急車のサイレンを聞くと不安になる。
コンビニを後にしてからは村田さんとは何も話していない。とても気まずい。
村田さんに殴られた男が、その後どうなったのかは全く知らない。
「あの・・・村田さん・・・」
「なんですか?」
俺と村田さんはコンビニ前の、細い歩道の先にある信号まで歩いていた。
ハンドルを握る自分の手に力が入らない。壊れたギアは1と2の間で止まっている。
今の俺はどうしても前を向く気になれない。心の何かが地球の引力に引っ張られている。
俺はだらしなく下を向いたまま村田さんに声を掛けた。発音の良い声が帰って来た。
「ゴメン。あんなこと言っちゃって」
「・・・何で謝るのですか?」
「酷いこと言っただろ? あの時は何にも考えてなくって・・・」
あの時の俺は何かに火が付いていた。俺でも訳が分からない。
『自由になっても不便に変わりはない』この言葉・・・聞いた事があるぞ!
昔だったと思う。うんと小さい頃だ。誰に聞いたのかは覚えていない。
「それはいつの事ですか?」
「コンビニでジャンプ読んでた時に・・・だよな?」
村田さんの声は聞き取りやすく綺麗だった。同時に言葉にできない違和感がある。
一言々に感情が籠っていないのに近い。何を思っているのか伝わってこない。
ジャンプの時もそうだった。どこかに書いてある台詞を棒読みしている感じだった。
「私は酷いとは思いませんよ? あれは正論だと思います」
「正論? 何で?」
予想しなかった村田さんの言葉に反応して俺は顔を上げた。
俺の目に映った村田さんの整った顔はとても穏やかな表情を見せている。笑ってる!?
そして村田さんと目が合った。村田さんが俺に表情を見せたのはこれが初めてだった。
「理由や根拠は何もありません。私が正論だと思っているだけです」
「・・・それだけ?」
「はい、それだけです」
俺は村田さんの考えている事が全く理解できなかった。
ジャンプを読んでいる時に何故あんなことを言ったのか未だに考えている位だ。
「もちろん、正論にしたい理由は私の中に存在します」
村田さんの顔は、何事も無かったかの様に無表情へ戻っていた。
その無表に澄んだ村田さんの目に俺が映っている。戸惑った顔をしている。
「確かとは言えませんが、その言葉は私の将来に必要になる時が来ると思います」
「俺の言ったことが、村田さんの将来と関係するってのか?」
「それは全くの無関係です。私と高辺さんは赤の他人です」
俺の言葉・・・それが村田さん自身ではなく村田さんの将来に必要になる。
自分で酷いと思っていた言葉は村田さんにとっては重要な言葉の様だ。
文にすれば簡単な事だけど、実際に言われるとここまで考えるのに苦労する。
「それじゃあ、必要になる時が来るってどう言う意味なんだよ?」
「それは・・・その・・・」
村田さんの言葉が曇った。弱い所を突いてしまったのかもしれない。
俺は村田さんの将来に興味はないけど、自分が言った言葉どう関係するのか気にはなる。
自分の行動が人の為に成る、何てことが全くなかった俺にとっては新鮮な体験だ。
「私の個人的な私情なのですが・・・――」
そう言いかけた途中で村田さんの動きが止まってしまった。
入学式帰りに会った時の様に途中停止している。どこからか小さな電信音が聞こえた。
ピー、ピー、ピー・・・と小刻みに鳴る電信音が村田さんから出ているのは明白だった。
「――えっと・・・私の『恋人』になって頂いても構いませんか?」
謎の電信音が止むと同時に喋り出した村田さんの言葉に、俺は目を丸くした。
― ― ―
「・・・俺が村田さんの『恋人』に?」
「ええ、そうです」
「来年までに『恋人』を作りたいと思っているのですが、宜しいですか?」
宜しいですかと簡単に聞かれても・・・俺は更に戸惑うばかりだ。
「ちょっと待てよ! その前に俺の質問はどうなるんだよ!?」
「理解し難いと思いますが、今の言葉が質問の答えです」
解らない。村田さんの将来と俺が『恋人』になる事は全く関係がない様に思う。
そもそも何で俺なんかと『恋人』になるんだ? 他の人でも・・・。
「えっと・・・ゴメン。考えさせて」
「何故ですか?」
「行き成りの事だから、ちょっと動揺しちゃって・・・」
こんな謎だらけの人を『恋人』にする勇気はない。何て口が滑っても言えなかった。
「明日は事情が会って森橋高校には行けません。今この場で決めてください!」
村田さんは俺の腕を力強く掴んで、肩にその小さな顔を持ってきた。
顔や言葉からは伝わらない必死な心境が俺の腕を通して伝わってくる。痛い!
時間が数秒過ぎるにつれて力が強くなる。これでは強引にも程がある。
「頼む! 必ず答えは出すから!」
女相手に大声を出したのは母親と喧嘩した中一の時以来の事だ。
それ以外は余り女とは関わりを持っていない。普段から女に好かれないから。
「・・・どうしても、考える時間が必要ですか?」
「ああ、どうしても必要なんだよ!」
必死なのは村田さんだけではない。俺の腕にある薄い筋肉が悲鳴を上げている。
そんな俺の気持ちを理解したのか、村田さんの手から力が抜けて行く。
「分かりました・・・明後日に答えを伺います」
そう言うと村田さんは1人で信号まで歩き出して行ってしまった。
― ― ―
家に付いた俺は真っ先に、洗面所の前でシャツの腕を捲くった。
痛々しく変色した手形の痣がくっきりと腕に浮かんでいる。今も痛みは残っている。
洗面所に来た弟が珍しそうにして俺の腕を見ていたが、母親の方は何も言わなかった。
食事を取って、風呂に入って、少しテレビを見て、明日の支度をして、眠る。
何の変化もない一日の終わり方だ。ただ一つ違った事と言えば・・・――
――明日が来る事に、少しだけ期待をする様になった事くらいだった。
~終わります~