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玉響  作者: 遠井 符$
カナタとマナタ
10/13

天狗鬼

森人族の森へ戻る道のりは、思った以上に長く感じた。


足取りが重いのは、疲労のせいではなく心のせいだろう。カナタもまた、俯いたまま言葉を発さない。


それでも木々が見えてくると、胸の奥でかすかな安堵が芽生えた。森に入った瞬間、土の匂いが鼻をくすぐる。湿り気を帯びた空気が肺に染み渡り、少しずつ心が落ち着いていく。


見知った森人族たちが俺たちを見つけた。だが彼らは何も言わなかった。理由を尋ねる者も、怪訝な顔をする者もいない。ほんの少し目を細め、ただ静かに頷くようにして道を空けるだけだった。その沈黙の優しさに胸が詰まる。


奥へ進むと、かつて休息をとったあの場所に辿り着いた。森の深奥に広がる小さな聖域。木漏れ日が淡く差し込み、澄んだ水の流れる音が遠くで響いている。鳥の声も風のざわめきも、不思議と今は聞こえない。ただ、息を呑むほどの静けさがそこにあった。


その静けさは、残酷なほど無慈悲に思えた。何も語らない森は、俺たちの痛みすらどうでもいいと切り捨てているようにも感じられる。


だが、次の瞬間。そよ風が吹いた。木の葉が揺れ、枝の影が俺の肩に落ちる。まるで「ここにいていい」と言われたような気がした。耳を澄ませば、草木の間から響くかすかな音色、森そのものが奏でる音が、胸に染み渡っていく。


カナタは黙ったまま、そっと膝を抱えた。顔は俯いているが、その表情はほんの少し和らいで見える。  


気のせいかもしれない。けれど、森が彼女を慰めているように見えた。


俺も隣に腰を下ろし、深く息を吐いた。静寂は冷たくもあるが、寄り添ってくれるようでもある。


――あぁ、この森に来て正解だった。




しばらく森の音に耳を傾けていると、胸を締め付けていた重苦しさが少しずつほどけていった。俺とカナタは顔を見合わせ、小さく頷き合う。――腹も減ってきたし、食堂へ行こう。


森人族の集落に戻ると、彼らは変わらず穏やかに迎えてくれた。柔らかな微笑みと、落ち着いた声色。


人族の町では味わえない安らぎがここにはある。


食堂に入ると、あの時の青年や長老が席を用意してくれる。温かな香りの立つ料理が並ぶ中、俺たちは静かに腰を下ろした。


そして、言葉を選びながらも、あの出来事を話した。

天邪鬼との遭遇、出会った腐人族との別れ。


重い話だったが、誰一人顔をしかめることなく、ただ真剣に耳を傾けてくれた。


全てを話し終えた時、長老は目を閉じ、しばらく考え込むようにしてから言った。


長老「天邪鬼が誰なのかは分からぬ。じゃが……君たちが会った腐人族のことなら覚えておるぞ」


俺とカナタは息を呑む。


長老「最初に来たときは、荒々しくてな。森にいる者たちともよく衝突していた。だが……不思議なものだ。通うたびに角が取れていき、最近では林業を手伝うために寄りに来るような奴だった」


その言葉を聞いた瞬間、カナタの肩が小さく震えた。俯いたまま、口元が綻ぶ。


カナタ「……あぁ、あの人らしい」


クスクスと小さく笑うカナタの横顔は、ほんの少しずつではあるが、立ち直ろうとしているように見えた。俺はその姿に心底安心して、深く息を吐いた。


食堂での安らぎのひとときは、突然の騒ぎによって破られた。外から聞こえる怒号と衝撃音。俺とカナタは顔を見合わせ、急いで飛び出す。


そこにいたのは、この世のものとは思えぬほどの目つきをした天邪鬼だった。血走った瞳。傷だらけの体。今にも崩れ落ちそうなのに、それでも纏う威圧感は圧倒的で、背筋が凍る。


奴は俺たちを見つけると、ガラガラに掠れた声で叫んだ。


天邪鬼「見つけたぞォ……腐人族──ッ!」


その瞬間、森人族たちが立ちふさがった。穏やかな彼らが声を荒げ、必死に制止しようとする。


だが、鬼人族の力は圧倒的だった。振り払われた衝撃だけで数人が吹き飛び、木の幹に叩きつけられる。


俺は咄嗟にカナタの手を引こうとした。だが、その手は震え、足は動かない。


カナタ「……天邪鬼がここにいるのって……」


ここに天邪鬼がいるということは、あの腐人族がどうなったのか、察してしまったのだ。


俺「カナタ!マナタに代われ!」


叫ぶと同時に、カナタの黒髪が淡く揺らぎ、金の長い髪に変わっていく。表情は一変し、マナタが現れた。彼女はすぐに体勢を変え、俺の腕を引いて走り出す。


だが次の瞬間――。


天邪鬼「……ッ!?」


天邪鬼の足が動かなくなった。驚愕の表情を浮かべた奴の足元を見れば、地面から伸びた木の根が絡みついている。


根は生き物のようにうねり、どんどん天邪鬼の体を引きずり込んでいく。 地面が呻き声を上げるかのように振動し、森そのものが彼を拒絶していた。


「やめろッ!なんだよこれッ!」


喚き叫ぶ声は虚しく、体は土の中へ沈んでいく。その姿はあまりにも無力で、あまりにも哀れだった。


森を荒らした代償。


その言葉が、胸の中で自然と浮かんだ。


最後に聞こえた断末魔は、森のざわめきに飲み込まれて消えた。気づけば、先ほどまで天邪鬼が立っていた場所には、何一つ残っていなかった。




森が天邪鬼を呑み込んだ直後、空気が張り詰めた。


その時影が差し、俺たちは思わず顔を上げる。


空から一人の鬼が舞い降りてきた。天狗鬼だ。その姿は謙虚にして堂々、どこか神々しさを纏っている。鋭い目つきだが、威圧ではなく静謐さを感じさせた。


森人族も俺たちも言葉を失ったまま見つめる中、彼は前置きもなく話し始めた。


天狗鬼「今回の件は……同胞が迷惑をかけた。許せとは言わぬ。ただ、彼も好きでやっていた訳ではない」


その言葉には憐憫の色が滲んでいた。そして続けて、低く重々しい声で告げる。


天狗鬼「これからも――きっと、他の天邪鬼と出会うだろう。あるいは、それ以上の大きな騒ぎになるやもしれぬ」


俺は息を呑んだ。まるで、未来の困難を当然のように予見しているかのようだ。


天狗鬼は最後に森人族へ向き直り、告げた。


天狗鬼「森を守るため……しばらくは森人族以外、この森に足を踏み入れることを控えてもらいたい」


静寂を割るように風が吹き、彼の衣を揺らす。次の瞬間、その姿は風と共に空へと消えていった。


俺たちは再び旅を再開した。だが、その道行きで俺は違和感を覚え続けた。


カナタがマナタと代わろうとしない。


まるで心の奥に閉じこもり、自分の部屋に鍵をかけたかのように。 彼女の沈黙が、俺の胸を重くさせる。腐人族のこと。天邪鬼のこと。そして未来に待つであろう「もっと大きな騒ぎ」のこと。


旅の景色は変わっても、心の影は簡単には晴れそうにない――。

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