【エルネア番外編】これからも、ずっと
※別作『歳の差100歳ですが、諦めません!(https://ncode.syosetu.com/n5540ji/)』の、ほのぼの異種族姉弟話です。時系列は87場の後ぐらい。お気軽にお読みください。
※登場人物まとめ↓
メルディ・ジャーノ・アグニス(19)
グレイグの姉で、レイの妻。赤茶色の髪と煉瓦色の瞳を持つヒト種。デュラハンの防具職人。たとえ自分よりガタイがよくなろうとも、弟は可愛い。
ゲオルグ・グレイグ・リヒトシュタイン(17)
メルディの弟。紺色の全身鎧を着たデュラハン。顔はなく、首から上には可視化した魔力の闇が漂っている。魔法学校4年生。口うるさい姉に辟易しつつも、なんだかんだ慕っている。
レイ・アグニス(142)
メルディの夫で、メルディとグレイグの父親の親友。金髪緑目のハーフエルフ。姉弟喧嘩に巻き込まれるも、慣れっこなので動じていない。
「もー! グレイグなんて知らない! 勝手にしなさいよ!」
小さな肩を怒らせ、メルディが商店街を去っていく。炉の炎みたいな赤茶色のポニーテールが激しく揺れるのを見つめながら、グレイグは心の中で舌を出した。
「大人になっても、君たちは変わらないねぇ」
レイの呆れた声は、雑踏の中でもはっきりと聞き取れた。真冬のくすんだ空の下でも、彼の金髪はかなり目立つ。形のいい輪郭から伸びるエルフ特有の長い耳は、寒さで少しばかり赤くなっている。
ここはラスタ王国の首都グリムバルドを東西に貫く、商店街のメイン通りだ。新しい年が明け、これから再開する寮生活のために、必要なものを姉のメルディと姉の夫――つまり、義兄のレイと共に買い出しにきたのだ。
手の中の買い物メモに目を落とす。可愛らしい丸文字が、紙面を埋め尽くしている。
冬休みの課題に追われていたグレイグのために、メルディが作ってくれたものだ。腕利きのデュラハン防具職人として、商店街に詳しいメルディの中でも、特におすすめの店だという。
ただ、どこもメイン通りから外れている上に、店と店の距離が離れていて、正直、回るのが面倒だった。だから、百貨店のワーグナー商会で全て揃えようとして、メルディと衝突してしまったわけだ。
グレイグは名門リヒトシュタイン侯爵家の跡取り息子。お金には困っていない。
特に今回は、母親から支度金をたっぷりもらっているし、時間をお金で買うのは悪くないと思う。十歳で工房入りしたメルディにとっては、甘く感じるのかもしれないが。
「大人になったのはお姉ちゃんだけでしょ。僕はまだ十七歳で、未成年だもん」
我ながら可愛くないセリフに、レイが黙って肩をすくめる。レイは父親の親友で、グレイグたちが赤ん坊の頃からの付き合いだ。姉弟喧嘩に口を挟むのは悪手だとわかっているのだろう。
「はいはい。なら、路地裏には入るんじゃないよ。あそこは治安がよくないからね。バレンタインだっけ? 去年、メルディがタチの悪い竜人に絡まれて大変だったんだから」
そういえば、そんなことがあった。母親の部下の警備隊長が、身につけた青い鎧に負けないほど、青ざめていたことを思い出す。
「あれ? レイさんも行っちゃうの?」
「さすがに奥さんを放っとけないからね。悪いこと言わないから、そのメモ通りに回った方がいいと思うよ」
肩越しに手を振りながら、さっさと歩いて行く。子供の頃は喧嘩両成敗で、どちらの肩も持たなかったのに、結婚した途端にメルディの側につくようになった。それが少しばかり寂しい。
「ちぇっ……。いいよ、一人で回るから。残ったお金でおやつ買っても分けてあげないからね」
愚痴りながら、メモの通りに店を回る。結局、メルディの思い通りになっているわけだが、百貨店の紙袋を見せて、更に怒りを注ぐのも面倒なので仕方ない。
ヒト種にとっては一日がかりの行程でも、デュラハンの脚力を持ってすれば、数時間で全て回れた。
通りの端に寄り、買った荷物を闇魔法で収納する。グレイグが生む闇の中には、倉庫三つ分ぐらいの空間があり、人や物を容易に運べる。
帰る前にカフェで一休みしようかと考えていると、目の前を幼い姉弟が駆けて行った。
姉は十二、三歳ぐらいの黒髪のヒト種、弟は真白い体毛を持つ熊の獣人だ。
頬を膨らませている姉に対して、弟は泣きべそをかいている。喧嘩でもしたのだろうか。先ほどのメルディを思い出して、苦いものが胸に広がった。
グレイグたちは種族違いの姉弟だ。メルディは父親と同じヒト種、グレイグは母親と同じデュラハン。
様々な種族が暮らすグリムバルドでは、さほど珍しくはない。グレイグ自身も、メルディと見た目が違う事実を悩んだことは一度もなかった。
けれど――これはグレイグの黒歴史でもあるのだが、成長期を迎えてお互いの力の差が顕著になるにつれて、メルディを内心見下すようになり、姉と呼ばなくなった時期があった。
『ねぇ、グレイグ。たまには遊びに行こうよ。受験勉強ばかりじゃ息が詰まっちゃうでしょ?』
『いいよ。時間がもったいない。いい歳して家族と出歩くのも恥ずかしいし』
『恥ずかしいって何よ。お姉ちゃんはあんたを心配して……』
『いらないお節介なんだよ。僕のことは放っといて』
今思えば、受験のストレスと思春期特有の苛立ちがそうさせたのだろう。メルディが甲斐甲斐しく世話を焼こうとするのを、無性に煩わしく思っていたのだ。
『弱いくせに偉そうに』
『二歳しか変わらないのに歳上ぶって』
口には出さなかったが、そんな酷いことばかり考えていた気がする。
幸いにも、メルディは後に引き摺らない性格で、ひとしきり喧嘩をした後は、けろっと工房で金槌を振るっていたものの、レイや父親にはやんわり嗜められたし、普段は孫に激甘の祖父にも叱られ、母親からは鉄拳制裁を食らった。
それでも、魔法学校に入学が決まるまでは、メルディに冷たい態度をとっていたと思う。いつの間にか普通に接していたが――何がきっかけで、再び姉と呼ぶようになったのだろう。
「確か、四年ぐらい前だったと思うけど……。思い出せないなぁ」
グレイグにはヒト種みたいな顔はなく、首の上には可視化した魔力の闇が漂っている。けれど、仕草を真似ることはできる。
腕を組み、ない首を傾げたとき――「ついてこないでよ!」と甲高い声が上がった。
さっきの姉弟が、少し離れたところで言い争っている。やがて、姉が弟を振り切るように路地裏の中に駆けて行った。
弟も少し躊躇して、姉の後を追う。周りの客は買い物に夢中で気づいていない。まずい展開だ。
グリムバルドは広い。日夜、警備隊が巡回しているとはいえ、どうしても目が届かない場所はある。
レイが別れ際に告げたように、路地裏はその筆頭だ。世の中には幼い少女に触手を伸ばす変態も、獣人の毛皮を剥ぐ人でなしもいる。あの姉弟は自ら魔物の巣穴に入ったのも同然だった。
深いため息が、首の上の闇から漏れる。
グレイグはメルディみたいに他人に優しくない。けれど、見てしまったからには無視できない。
ここで放置すれば、姉はもとより、温厚な父親もさすがに怒るだろうし、母親の拳骨はもう食らいたくない。
「ねえ、そこのお姉さん。警備隊呼んできて。グレイグって言えば、すぐに飛んできてくれるから」
近くの店の店主にことづけ、薄暗い路地裏に足を踏み入れる。デュラハンに鼻はないが、それでも饐えた匂いは十分に感じられた。闇の中に潜むギラギラした視線や、敵愾心に塗れた気配も。
「弟に触んないでよ!」
少し進むと、吐瀉物や割れた空き瓶が散乱する砂利道の上で、大きく手を広げた少女が、全身に刺青を施した竜人を相手に立ち向かっていた。
転んだのか、それとも地面に突き飛ばされたのか、身につけた赤いワンピースは土で汚れ、ところどころ破れている。
その背後では、青いオーバーオールを着た獣人の少年が、丸耳を折りたたむように頭を抱え、地面にうずくまっていた。姉が時間を稼いでいる隙に、大人を呼びに行く気概もないらしい。
「獣人なのに情けないなぁ。お姉ちゃんを見習って――」
そうこぼしかけて、ふと気づいた。少女の足が大きく震えていることに。
『グレイグには指一本触れさせないわよ!』
少し甲高い声が脳裏によみがえる。少女の小さな背中に、炉の炎みたいな赤茶色のポニーテールが重なり、揺れる。
四年前の光景が、記憶の蓋をこじ開けて一気に広がった。
コークスで汚れたズボンをはいた、目の前で震える細い両足。小さく切り取られた空から差し込む光に照らされているのは、十歳の誕生日にメルディが父親から貰った金槌だ。
あの日、メルディは腰のベルトから抜き取った金槌を振り上げ、今にも掴み掛からんとする竜人に叫んだ。グレイグを、弟を守るために。
――ああ、そうか。どうして忘れていたんだろう?
「騒ぐんじゃねぇよ! 大人しくしてりゃ、痛い目には――」
「おじさん、僕そこ通りたいんだよね。邪魔だから、ちょっとどいてよ」
足を踏み出し、少女を庇うように前に出る。剣は抜かない。グレイグの大剣は狭い場所では不利だ。
相手は一人――ではないだろう。路地裏に足を踏み入れたときに感じた視線が殺意を含んだものに変わる。その剣呑な空気に、背後の姉弟が小さく悲鳴を漏らした。
「ああ? なんだ、てめぇ! ガキが首を突っ込んでんじゃねぇよ!」
竜人は突然現れた体格のいいデュラハンに一瞬怯んだが、おじさんという単語で、グレイグがまだ未成年だと気づいたらしい。口に咥えていた紙巻きタバコを吐き捨て、威嚇するように短剣を抜いた。
それを合図に、頭上から鋭く尖った石礫が降ってくる。土属性の魔法だ。
竜人は指や足の裏に細かい毛が生えていて、自在に壁を這うことができる。目を凝らすと、左右に乱立する建物の隙間から、鱗が生えた細長い尻尾が見えた。姉弟が逃げても捕まえられるように、あらかじめ網を張っていたのだろう。
「ほんっとに竜人は厄介だよねぇ!」
氷魔法を展開し、石礫を防ぐ。同時に、まっすぐ向かってきた竜人の刃を籠手で弾いた。グレイグの鎧は父親とメルディが丹精込めて作ってくれた特別製だ。たかが短剣で貫けるほど軟弱じゃない。
間髪入れずに、竜人の顔を目掛けて蹴り上げる。しかし、素早さでは竜人に分がある。鈍く光る鉄靴からギリギリ身をかわした竜人が、大きく裂けた口を歪めた。
「チッ、ただのお坊ちゃんじゃねぇってことか!」
グレイグが一筋縄ではいかない相手だと気づいたらしい。腰からもう一振りの短剣を抜き、猛攻を繰り出してきた。
呼応するように、石礫の勢いも更に激しくなる。グレイグ一人なら何とかなるが、背後には子供たちがいる。長引けばこちらが不利だ。
「ねぇ、僕の影踏んで!」
グレイグの声に、弟を胸に抱いて地面に伏せていた少女が、はっと顔を上げた。
「影?」
「うん。遊んだことあるでしょ、弟と!」
影は十時の方向に伸びている。踏むためには、一度グレイグの足元から出なければならない。
少女が青ざめた顔で唇を噛み締める。眼前でデュラハンと竜人が激しく撃ち合い、空からは絶え間なく石礫が降っているのだ。恐怖は相当なものだろう。
それでも、弟を守りたい気持ちが勝ったらしい。少女はキッと眦を上げると、声も出せない弟の体を抱え上げ、グレイグの影に向かって駆け出した。
その途端、ぬかるみに足を取られたように、小さな体が影の中に沈み込んだ。二人の身を守るため、グレイグが闇魔法で飲み込んだのだ。
レイみたいな熟練の魔法使いなら、氷魔法を展開しながらでも己の影を伸ばせるだろうが、剣での戦いが中心のグレイグには、まだそこまでの技量はない。だから、どうしても少女に頑張ってもらう必要があったのだ。
とぷん、と音を立てて姿を消した姉弟に、竜人が嘲笑する。
「バカなやつだな! 術者が死ねば、中にいるガキも死んじまうぜ!」
「僕が死ぬって?」
グレイグは目を細めた。
「子供だからって舐めないでよね。痛い目に遭うのはそっちだよ、おじさん」
ダンッ、と激しく音を立てて足を一歩踏み出す。竜人の懐に飛び込むと同時に、影から伸ばした闇の鎖で短剣を弾き飛ばし、刺青で覆われた太い首を捕らえた。
そのまま顔面を鷲掴み、地面を陥没させる勢いで捩じ伏せる。グレイグの怪力も魔力も母親譲りだ。一度引き倒してしまえば、竜人の腕力では抜け出せないだろう。
「お待たせ。次はあんただよ!」
全身で竜人を押さえ込んだまま、頭上に叫ぶ。空中を埋め尽くすように出現させた氷の槍をバリスタのごとく打ち込み、石礫もようやく止んだ。
大きくひび割れた建物の隙間から、鱗が生えた尻尾がだらりと垂れている。グレイグの勘が当たっていれば、急所を避けて磔にしたはずだ。まあ、多少は怪我しているかもしれないが。
足元に転がった竜人は白目を剥いて気絶している。念のため、何重にも巻いた闇の鎖の上から体を揺するが、ぴくりともしない。少々、やり過ぎたかもしれない。
「過去の雪辱は晴らせたかな」
ぼそりと呟いたとき、こちらに近づいてくる複数の足音が聞こえた。
路地裏に入る前に、女店主に要請した警備隊だろう。案の定、先頭を駆けてきたのは、青色の鎧を着たデュラハン――母親の部下の警備隊長、ハンス・ワーグナーだった。
***
「もおお、帰省のたびに問題起こすのやめてくださいよー。君のママに殺されます」
「僕が起こしたわけじゃないって。むしろ、市内の治安維持に貢献したでしょ?」
相変わらず薄暗い路地裏で、腐りかけの木箱に座り、ハンスの事情聴取を受ける。竜人たちはすでに留置所に連行されていた。
少し離れたところでは、グレイグの闇魔法から出した姉弟が、女性の警備隊員に介抱されている。膝が擦りむいていたものの、大きな怪我はなさそうだ。治療魔法ですぐに治るだろう。
「それにしても、今回の下手人。去年、メルディさんを攫おうとした竜人の兄弟だったとは……」
「また、ママに怒られるねぇ。仲間を取り逃がしていたわけだから」
「うう、胃が痛い……」
前屈みになり、銅鎧の上から胃を抑えたハンスが、何かに気づいたように地面に膝をついた。グレイグと同じく、分厚い籠手に覆われたその手には、小さなメモが握られている。
「あ、僕のだ。あの子たちを闇から出すときに落としちゃったみたい」
受け取ろうと手を差し出すも、ハンスはメモを凝視したまま動かない。何度か促して、ようやく「すごいですね」と感嘆の息をついた。
「これ、どこも値段の割に高品質の商品を扱っている店ですよ。中には国宝級の代物もあると聞きました。偏屈な店主が揃っているらしくて、うち――ワーグナー商会が何度卸してくれと頼んでも、首を縦に振ってくれなくて困っていたんです」
いいなぁ、とハンスが羨ましそうに呟く。
「職人さんたちに聞いたんですか? ここまで調べるのは大変だったでしょう」
ハンスはワーグナー商会の次男坊。その彼が言うのなら、間違いはないだろう。
手渡されたメモに目を落とし、店を回ったときのことを思い返す。店主はみんなメモを見るなり、笑顔を浮かべて商品を渡してくれた。まるで最初から用意されていたみたいに。
「……何だか、すごいプレゼントもらっちゃったなあ」
「え?」
「何でもない。事情聴取が済んだら、もう帰っていい? ママには僕から報告しとくからさ」
「調書はとれましたし、後はあの子たちを送り届けるだけですので、構いませんよ。むしろ、そうしてくださると助かります……」
心底安堵した声に苦笑しながら、地面に座る姉弟に近づく。今まで気丈さを保っていた少女も、さすがに緊張の糸が切れたようだ。優しい警備隊員に慰められて、しきりに涙を拭っている。
「ねぇ。僕、そろそろ帰るけど、もう大丈夫?」
鼻を啜った少女が、グレイグを見上げてこくりと頷く。
「……それ以上、ターニャ姉ちゃんに近づかないで」
害がないとわかっていても、見上げるほど大きなデュラハンに、本能的に危機感を抱いたらしい。さっきまで少女の背に隠れていた少年が、姉を守るように立ちはだかった。
その目には、さっきまでなかった闘志が揺らめいている。四年前の事件後、グレイグはしばらくメルディのそばを離れなかった。きっと、彼と同じ目をしていたのだろう。精一杯の虚勢を張る少年に、小さな笑みが漏れる。
「君、名前は?」
少年は黙ってグレイグを睨んでいたが、やがて「……ミーシャ」と小さく名乗った。
「そっか。いい名前だね」
地面に跪き、ミーシャの両手を握る。まだ硬くもなく、鋭い爪も生えていない、小さな手。けれど、いつか姉よりも大きな手になるはずだ。グレイグがそうだったように。
「ミーシャ、いつか君はお姉ちゃんよりも遥かに強くなる。でも……」
そこで言葉を切り、ミーシャの蜂蜜色の目をまっすぐに見つめた。
「お姉ちゃんは、ずうっと変わらず君のお姉ちゃんだ。大事にしなよ」
ミーシャから、はっと息が漏れる。グレイグの思いは十分伝わったらしい。目を潤ませたミーシャが力強く頷いたのを合図に、その場に立ち上がる。
昔に比べて、随分と高くなった視界。その先にいつも見える赤茶色のポニーテールが恋しくなって、グレイグは足早に路地裏を後にした。
***
メルディが好きなケーキの箱を手に工房に戻る。とはいえ、ずかずかと入る勇気はない。
工房に併設した店のカウンターから中を覗くと、メルディはこちらに背を向けて一心不乱に金槌を振るっていた。まだ怒っているらしい。金属音が、いつもより大きく響いている気がする。
「……うーん。今回は根深いな。いつもなら、とっくにけろっとしてるのに」
まあ、さすがに、あれだけ労力を割いたものをいらないと言われたら怒るだろう。同じ立場だったら、しばらく口もきかない。
「仕方ない、行くか」
魔法学校の実技試験よりも気合を入れてメルディに近づく。集中しているのか、グレイグに気づく様子はない。
驚いて怪我をしないように正面に回り、しゃがみ込んで顔を覗き込む。いつも楽しそうに笑んでいる唇は尖り、険しく寄った眉間から汗が一筋流れ落ちていた。
「あのさ」
日頃鍛えられた腹筋で声を張り上げるも、金属音は止まらない。グレイグの存在に気づいていないわけではない。無視しているのだ。
ここまで怒らせたのはいつぶりだろう。兜をガリガリと掻き、深々とため息をついた後、女王に捧げ物をする騎士のようにケーキの箱を差し出す。
「色々考えてくれたのに、無下にしてごめんね。お姉ちゃんのおかげで、いいものが買えたよ。お礼にケーキ買ってきたから一緒に食べよ?」
振り上げた金槌がぴたりと止まった。メルディの煉瓦色の瞳がグレイグをまっすぐに見つめる。子供の頃から変わらない、意志の強い瞳。唇はまだ、への字に結んだままだ。
生唾を飲み込むグレイグを前に、メルディは納品前の防具を検品するごとく目を細め――堪えきれなくなったように、ふっと息を漏らした。
「……フルーツタルトある?」
「もちろん。お姉ちゃんが好きなカフェのやつ。僕のお小遣いで買ったから、ママは気にしなくていいよ」
「えっ、ほんと?」
煉瓦色の瞳が喜びに輝く。自分でも表情が緩んだことに気づいたのだろう。わざとらしい澄まし顔で、こほん、と咳払いをし、金槌を金床に置く。
「仕方ないわね。ケーキに免じて許してあげるわ。コーヒーはあんたが淹れてよね」
安堵の息と共に、肩の力が一気に抜けた。
十中八九、許してくれるとはわかっていたが、何にでも例外はある。魔法学校に戻れば、次に帰省できるのは夏休みだ。もやもやした気持ちを抱えたまま、半年以上も過ごしたくはなかった。
「わかった。砂糖控えめにしとく? 最近、ダイエットしてるって言ってたもんね。ケーキ買ってきて何だけどさ」
「うっ……そ、そうね。でも、その前に……」
目を吊り上げたメルディが、声を大にして叫ぶ。
「あんた、どこで何やってきたのよ! 鉄靴ドロドロじゃないの! 綺麗にしてあげるから座りなさい!」
勢いよく指し示されたパイプ椅子に、反射的に座る。弟の悲しき習性なのか、姉の命令には逆らえない。
メルディは作業台から鎧の手入れ道具を一式取り出すと、床に跪いて鉄靴を磨き始めた。
さすがの手際だ。さっきまで土で汚れていた鉄靴が、みるみるうちに元の光沢を取り戻していく。
懐かしいなぁ、と心の中でひとりごちる。昔――まだ、金属鎧の扱いに慣れていなかった頃は、よくこうしてメルディが磨いてくれた。
ケーキの箱を抱えたまま、忙しなく動く赤茶色の頭頂部を眺めていると、メルディが「……私もごめんね」と呟いた。
「え?」
「あんたが面倒くさがるのわかってたのに、押し付けて」
何も言えずにいるグレイグを上目遣いに一瞥して、メルディが言葉を続ける。
「あんた今年で成人でしょ? これから本格的にママの後を継ぐわけだし、ああいうお店も知っといた方がいいと思って。貴族って、箔? ってやつが必要なんでしょ」
「お姉ちゃん……」
熱いもので胸がいっぱいになる。思わず前のめりになるグレイグに、「動かないでよ」と釘を刺し、メルディが額の汗を拭う。折れそうなほど細くて白い腕。その下に隠れた頬は微かに赤らんでいた。
「まあ、余計なお世話だったわよね。職人の私よりも、お爺ちゃんやママの方が詳しいと思うしさ」
「そんなことないよ。ありがと」
「ん。……ほら、もういいわよ。二階でケーキ食べましょ」
この工房は二階建てで、二階にキッチンや寝室がある。一度店に出て、質素な木の階段に足をかけたところで、メルディを呼び止めた。
「何よ。まだ磨き足りないとこ、ある?」
「四年前、路地裏で竜人に絡まれたの覚えてる?」
そんな返答がくると思わなかったのか、メルディは一瞬目を丸くした。
遠い記憶を手繰り寄せるように首を傾げ、ポニーテールがゆらゆらと揺れる。子供の頃は馬の尻尾みたいで面白くて、何とか掴もうとジャンプしたことを思い出す。
「あー、あった……かしらね? ママにめちゃくちゃ怒られた気がする。去年もレイに怒られてさぁ。あんたも路地裏には入るんじゃないわよ。いくら強くたって、過信は禁物だからね」
入った上に、竜人を叩きのめしたとは言えない。誤魔化すように咳払いをして、言葉を続ける。
「あのとき、何で僕を置いて逃げなかったの? 今みたいに強くはなかったけど、お姉ちゃんより遥かにデカかったし、多少殴られても大丈夫だったと思うんだよね」
二人の間に落ちる沈黙。鎧の下の心臓が早鐘を打つ。メルディはグレイグを見下ろしたまま、キョトンとした表情を浮かべ――「何言ってんの」と吹き出した。
「逃げるわけないでしょ。私はあんたのお姉ちゃんなんだからね!」
刹那、窓から差す光が、スポットライトのようにメルディを照らし出した。
グレイグとは違う、小さな体。グレイグにはない、感情豊かな顔。真冬の冴え冴えとした光の中に浮かぶ微笑みは、昔と変わらず優しかった。
別れ際にミーシャに告げた言葉が脳裏をよぎる。
『お姉ちゃんは、ずうっと変わらず君のお姉ちゃんだ。大事にしなよ』
――ああ。そうだ。メルディはグレイグのたった一人の姉なのだ。どんな暗がりの中でも、グレイグを照らし続けてくれる炉の炎。そして、グレイグも、ただ一人の弟として在り続ける。
これまでも、これからも、ずっと。
「お姉ちゃんには敵わないなぁ」
心からの言葉に、メルディは嬉しそうに笑った。
種族違いの姉弟が書きたくて書きました。後悔はしていない。どれだけガタイが大きくなろうと、グレイグはメルディの弟で、メルディはグレイグのお姉ちゃんなのです。
↓以下おまけ
「おやつ我慢して待っててよかった〜。レイが、『きっとグレイグは、ケーキを買って戻ってくるよ』って言ってたのよね」
「うーん。敵わない人、もう一人いたなぁ」
「あと、ママが兜を磨いて待ってろって。あんた、何やったの?」
「……死んだら骨拾ってね」
※兜を磨いて、はデュラハンが使う慣用句で、ヒト種でいうと「首を洗って=覚悟しておけ」の意味です。