⑨『使者たち、雑賀に向かう ― 検地の影と春の霧 ―』
春はまだ浅く、紀伊の山並みに白い霧がたなびいていた。梅の蕾は固く、野の脇には霜が残る。夕餉どき、集会小屋の囲炉裏に炭が赤く息をし、七つの影がその火心を囲んだ。
この谷の村は、もとは湯浅の外れにひっそりと在るだけの集落だった。ところが近ごろは妙な風が吹く。炭と鉄の出入りが生まれ、畝は揃い、名もない鍛冶場から火花が飛ぶ。道は磨かれ、倉は太り、煙の筋は以前より濃く長い。そうなると、村の言動ひとつが、外の者には“布石”に見え始める。
羽田隼人は、その変化のただ中にある。商社上がりの眼は、数字や道筋を測る癖が抜けない。今夜、その眼差しは品目ではなく“言葉”の先に据えられていた。
「いずれ、炭や鉄材の出入りは締めねばなりません。搬出の道順、水の取り回し、人足の割り振りも。……ただ、それが外からどう見えるかが問題です。とりわけ“検地”と取られれば厄介になります」
囲炉裏の輪に、短い緊張が落ちた。「検地」――この戦の世でもっとも敏感に響く音である。
応えたのは村長の西村だった。年の功を背中に負い、土の匂いをまとう古老の声は低い。
「湯川さまの名で動いたと見られれば、雑賀は黙らぬ。なかでも中之島の田尻どのに耳が届けば、事はすぐ硬くなる」
雑賀――地名でありながら、海と鉄と火薬を掌にする寄合の地の名でもある。西海岸を押さえ、堺の商と通い、鉄砲の匠を抱え、惣の力で自らを守る。中之島・太田・雑賀浦の三惣は互いに張り合い、寄り合い、利の網で結ばれている。その一角、中之島の田尻家は鉄と船に手の長い家柄だ。得体の知れぬ谷の村が“土地の調べ”を始めたと聞こえれば、疑いは立つ。
鍛冶場の頭・榊原が顔を上げた。荒くれのようでいて刃の角度には異様に細かい男だ。
「なら、わしが出よう。田尻殿は顔を知っとる。こないだ持っていった鉄塊に“目が利く”とも言うてくれた。鉄と炭の話を真っ向からするなら、向こうも耳を貸す」
羽田も身を乗り出す。
「俺も行きます。こちらから出した炭の行き先、鍬の数、次の段取り――“取引のための準備”だと伝えたい。支配の話は一切しない。検地の二文字は絶対口にしない。水と道の整備は“物を流すため”、それだけです。少しでも強く聞こえたら敗けです」
「わしも参るぞ」
西村の声は、火の粉の奥に芯がある。
「この村が勝手をしておると誤解されれば、先の商いは潰える。正す言葉は、村の口が発する」
静かに頷きが広がる。惣百姓の村といえど、外と間合いを測るのは命がけだ。刃を抜かせぬための言葉、退くための段取り、両方が要る。
そのとき、西嶋が灰を払って立つ。土木と測量の役を担い、川と道の癖を誰より知る男だ。
「この図を持って行きましょう。川の流れ、山の背、荷の通り道、それから交換所の位置。字の多い帳面ではなく、見て飲み込める筋だけを出す。『測っている』という印を弱めるには、見せ方が肝です」
紙を広げると、墨で引かれた線の要所に小さな朱が打ってある。水の通い路は薄い青。倉と作業場は四角で囲い、“板前”(板の前=公開の場)と通し符の受け口には小さな旗印。西村が覗き込み、鼻を鳴らした。
「字が読めぬ者にも筋が通る。これなら“道改め”に見える。悪くない」
水野が口を開く。落ち着いた声は、理を柔らかく咀嚼して渡す。
「干し物の見本も持ちましょう。干飯と味噌玉、干し芋の詰め合わせ。『飢えを遠ざける品』を先に見せる方が、刃の話より言葉が通る。相手の目に『利』だけでなく『日常』を入れる」
杉本が頷き、木箱の寸法を指で示す。
「見本箱は肩で担げる重さに。上段は口に入るもの、下段は道具。縛り紐は解きやすく、また締めやすいように。現場の手癖に合う結びにしとく」
榊原は、鍬刃の試片と“角度板”の小型を包みに入れた。
「刃の寝かせ五度違いで、土の割れ方が変わる。見せりゃ早い。触らせりゃ、なお早い」
囲炉裏の端で与平が低く言う。目尻は笑わず、声はやわらかい。
「話の筋は通っとる。通りすぎるがゆえに、なお気ぃつけい。惣というのは、理屈の通らぬものを力でねじ伏せる集まりじゃ。けんど理屈が過ぎると、『裏に誰が居る』と勘ぐられる。雑賀の地は、とくにそういうとこや」
羽田が小さく頭を垂れた。
「“こちらが選ぶために、選ばれない”――その間合いを保ちます」
口上も固めた。「預かりは湯浅印の札、話は板前、幕の外で」「道中の揉めごとは、その場で引く」「口約束は板に写す」。棒の合図も再確認する。ひと打ち=様子、ふた打ち=集まれ、み打ち=引け。もし場が荒れれば、み打ちで一斉に退く。
宵、更ける前に“宵の板”に三行が増えた。やってみる/貸す/借りるの欄に、決める/試す/保留の印。端には朱で小さく「返す」。村の口上を外へ返し、返事を内に返す。その往復がこの村の“骨”である。
*
数日後の朝。霧の襞が薄くほどけ、山肌の木々が湿りを光らせる。荷を軽くし、四人は谷を出た。羽田、榊原、西村、西嶋――背には見本箱と図、胸の内には口上と退きの合図。着物は地味に、腰の紐は締め直し、草鞋の緒を短くする。道具を見せに行く者が、武具に見えぬように。
中腹まで上がると、斜面の影からサキが現れた。片耳裂けの山犬は、尾を低く揺らして道の先に立つ。吠えもせず、ただ風上に鼻を向け、また彼らの前に戻る。榊原が喉の奥で笑い、指先で礼の形を作る。
「山の番が付いとる。縁起がええ」
尾根を一つ越え、川を小さく渡る。谷伝いの風が塩を運び始めると、平場が開け、遠くに海の色がのぞく。道の向こう、黒羽織がちらりと見える。鉄砲の乾いた音が、蜃気楼のように微かに遅れて届く。ここから先は雑賀の匂いだ。
歩きながら、羽田は言葉を整える。支配の語は避け、暮らしと道に寄せる。水と道は“利”のため、そして“無用の刃”を遠ざけるために整えるのだと。西嶋は背の図を握り直す。図の朱は、相手に“開いて見せる”ための朱である。西村は喉を湿らせ、村の口として出る言葉を胸に重ねる。「惣の口は荒い。けれど、荒い口にも筋は通る」――その経験が背骨になっている。
荷駄の揺れに合わせ、榊原の包みの中で鍬刃が軽く触れ合い、かすんだ鈴のような音を立てた。西村が空を仰ぐ。薄雲の向こうで、光が海に筋を引いている。
「行こうや」榊原が言う。「道具は嘘つかん。土も嘘つかん。人の口だけ、嘘をつく」
「だからこそ、口を“道具”にする」羽田が応じる。「板に写し、図に載せ、秤に乗せる。……それで足りないぶんは、次に直す」
西嶋が笑う。
「いつも通りやな。決める/試す/保留。足りぬは“返す”」
西村は短く頷き、胸の内でひとつ線を引いた。村の名はまだ地図にない。けれど、道に現れる名はもうある。よく切れる鍬、風を通す倉、甘い干し物。そういう名が、先に歩く。
やがて、雑賀荘の南端へ。海と鉄の香が混じる街道に、黒羽織と僧衣の背が揺れる。四人は足を止めず、約した小屋へ向かった。懐には地図と誠意、背には“ただの惣村”では済まぬ意志と責任。紀伊の地は、いま確かに揺れ始めている。その小さな震えの起点は、四つの足音と共に、春の霧の奥へ消えていった。
中之島、風を測る ― 鉄と道と誠意の弁 ―
紀伊西岸・雑賀荘は中之島。
潮は浅く、塩の匂いと油の匂いが混じる。船棚には黒塗りの小早、浜では網の修繕、奥手では鍛冶場が鉄を啼かせていた。武の音と商いの声が、同じ風に乗って往き来する土地である。
その一角、田尻家の表座敷。畳はよく踏まれ、柱には船口銭の札と鉄砲の部品記が掛かる。上座に座すは年寄衆のひとり・田尻兵衛。四十路がらみ、目に潮のきらめきを宿した男だ。
向かいに、四人の客。羽田隼人、村長の西村、鍛冶頭の榊原、そして物流を預かる田所正也。いずれも浜の風に晒された顔で、しかし膝の置き方に乱れはない。
茶が一巡したのち、田尻が最初に口を切った。
「……ほう、水と道の整理、とな」
声は低く、間に潮の重みを含ませる。
「織田が北伊勢へ伸びた折も、名目は“道の整備”じゃった。道が通れば兵が通る。水が澄めば、誰が主かが問われる。――ここ紀伊では、それが理や」
座敷の空気がすこし張る。羽田はすぐには返さない。先に榊原が膝をすすめ、落ち着いた声で継いだ。
「田尻殿。先にお納めした鉄塊の件、覚えていただいとるでしょうか。あれを安定して届けるには、谷の中の“水の道”と“荷の道”を揃えるしかない。境を侵す意図は毛頭ない。兵ではなく物を通すための道筋にございます」
田尻は「ふむ」とだけ頷く。
「品は悪くなかった。だが境目へ新しい筋が通れば、太田も雑賀浦も黙っておらん」
ここで田所が、打ち合わせどおり言葉を引き取った。わずかに身を前へ。
「そこで、こちらから任せに参りました。外へ抜ける“川下”の扱い――卸と舟手の主導は中之島の御家中にお任せしたい。うちは“川上”を揃えるだけ。村内の整理・集荷点まで。先は田尻さま方の手筋で運んでいただく」
田尻の眼がわずかに動く。
「任せる、とな。……口だけの“委ね”は軽いぞ」
羽田が穏やかに入る。
「口ではございません。図面と帳面を開きます。水の落とし段、荷置場、通行の幕線――すべて見取り図にして、お目にかける。月ごとに“出入りの数”の写しもお届けします。必要とあらば、中之島から目付を一本立てていただいても構いません」
西村が深く頭を下げた。
「疑念を抱かせたは我らの不徳。じゃが、暮らしを一歩ずつ戻すため、いずれは皆で同じ道をつくりとう存ずる。どうか、その気組みを汲んでくだされ」
一拍の静けさ。外から鍛冶槌の音が細く届く。田尻は茶を含み、視線を巡らせてから問いを重ねた。
「湯川の名は、背にあるか」
羽田は首を横に振る。
「誰の命でもなく。己の胃袋と、交易のためです。年貢の再割付に用いず、検地の二字も口にいたしません。もし怪しまれれば、先に申す所存」
「火薬の噂も聞くが」
「試しの段。扱わぬものは扱わぬと、はっきり申します」
榊原が続けた。
「鍛冶の刻印も湯浅印で揃え、混ぜ物は別札。失敬はいたしません」
座敷の襖がわずかに鳴り、潮風が畳の縁を撫でる。田尻は立ち上がり、壁際の箱から古い紙を取り出した。
昨年の海路整備図。播磨筋と紀伊を結ぶ内図で、寄港と風待ちの印がびっしりと記されている。
「昔、播磨と火薬をやり取りした。先に立ったのは道だったが、長く続けたのは言葉を開いた者だった。……見せよ、そなたらの図を」
羽田がくるりと巻紙を広げる。谷の落差、荷置場の広さ、幕線と口上場の位置。兵を寄せぬ線まで記されている。
田尻は指先でいくつかの点を確かめ、口の端をほんの少しだけ上げた。
「嘘の線は見えん。……よし。炭問屋と突き合わせる。連絡所を設けよ。ここ中之島と、湯浅の間に一つずつ。札と秤はこちらの型に合わせること。武装は幕外まで。揉めそうなときは“二打”で板前に集まる――その合図、こっちの衆にも教えよ」
田所と羽田が同時に深く頭を下げる。
「かたじけのうございます。出入りの月報を上げ、道の臨時封鎖は必ず先触れをいたします」
田尻は巻紙を返し、静かに言い添えた。
「道は進めば岐れ、岐れればまた疑われる。利に乗る前に、先に話せ。――それが惣の理よ」
そう言って、年寄は座を立った。
背にあるのは、惣中の懐と、風向きを読む棘の両方だった。
座敷を辞した四人は、浜風に当たりながら無言で歩いた。沖に小舟、帆には雑賀の印。鍛冶場の煙が薄く流れ、潮の上を鴎がかすめる。
最初に口をひらいたのは田所だった。
「……連絡所、こちらの痛手は大きくない。出入りが見える分、むしろ楽になる。問題は“先に話す”を徹底できるか、だな」
榊原が頷く。
「目付が来るなら、刻印と通し符はさらに揃えよう。混ぜ物は別棚、秤の型も合わせる。鉄は嘘をつかん」
西村が静かに言った。
「村の者にも言うておこう。検地とは違う、道の帳面じゃ――とな」
羽田は立ち止まり、港の風を胸に入れた。
「“川上は揃え、川下は任せる”。図と帳で先に開く。――これで、しばらくは疑いより利が先に立つ」
遠く、昼の太鼓が一度だけ鳴った。潮が返し、風がわずかに向きを変える。
四人は顔を見合わせ、うなずいた。
風が測れた。次に測るのは、こちらの手だ。
火と経と、道のゆくえ ― 根来衆との接触 ―
天正二年(1574)春のはしり。
紀伊・雑賀荘の北東へ山路を取り、小松原から岩出へと抜ける道は、まだ朝の霜を抱いていた。尾根の陰には白い雪片が残り、風の芯は冷たい。羽田隼人と田所正也は、馬を降りて草履に替え、足を揃えて山間の庵へ向かう。案内は根来の小者ひとり。道すがら、谷川の音と僧堂の板木の響きが遠くで呼応した。
根来。
僧兵にして鉄砲の名手、しかも寺内に学寮と座頭、銭座や倉まで抱えた一大「寺内都市」。周防から伝わった南蛮鉄の扱いにも通じ、雑賀と袖を分かちつつも、堺・和泉の商路に深く根を下ろす。石山本願寺の戦い(石山合戦)が続くこの年、畿内はなお渦中にあり、紀伊の水軍と鉄砲の行き先ひとつが、戦と市の色を変えた。
庵の土間で出迎えたのは、橘房玄と名乗る僧。
三十代半ば、目は静かで、口元はあたたかい。西塔方の会計と兵糧方を兼ねるという。火鉢に炭を継ぎ、低く一礼して座についた。
「……鉄と火薬、そして道。雑賀と結び、その筋を整えようとしておられる――風聞には届いておりまする」
房玄の声はよく通るが、棘がない。
「ただ、道を通すとは必ず門を置くこと。門があれば、通る者と通らぬ者が生まれ、そこに裁きが要る。――その裁きを誰が持つか、そこが理でございましょうな」
羽田は一拍おき、膝を正した。
「おっしゃるとおりです。通るものが増え、村の手に余るところは、我らでは裁けませぬ。ゆえに、その門の設置と**見張り(検断)**の一部を、寺方にもお預けしたく、参上いたしました」
田所が続ける。
「物流と徴収、往還の保安。拠点と道筋のいくつかを御坊の“目”に置いていただく。そのかわり、わが村で蓄えた品の出入りはすべて秤と帳面で示し、まず根来に見せ、値を正す。横流しを避ける仕組みを、共に作りとうございます」
房玄は火箸で炭の角を崩し、火の息を整える。僧衣の袖に、会計役らしい落ち着きが滲む。
「……それが成れば、堺の口を通して大きな流れにも乗せられましょう。南からの塩、北からの紙、和泉からの油――いずれも道が善ければ値が立つ」
「願ってもないことです」と羽田。
「ただし――」と房玄は声を落とす。「我らは寺。紀伊の山上には高野、河口には雑賀、そして北には石山。本願寺(石山の上様)の意向も無視はできませぬ。堺の商いがどちらに荷を付けるか、紀伊の舟がどちらに帆を向けるか――関与の度合いひとつで、風向きは変わる。そこを、どう計られますかな」
羽田は深くうなずく。
「“どちらにつく”ではなく、どう付き合うかを先に定めます。兵のための道ではなく、民のための道であることを、図と帳で開く。――口ではなく形で示します」
そう言って、懐から巻物を出した。雑賀と交わした物流確認帳の写し。湯浅印の通し符の色、幕線の位置、板前(板の前)での取り決め、月々の出入りの数。房玄は巻をほどき、目で追い、やがてそっと巻き戻した。
「……言葉に骨がある。ならばまず、僧都の評に上げましょう。返答を待つ間、門の試みとして、一か所――寺方の管理地に物見所(門)を建てていただきたい。寺の地で寺の目を置く。そこから始めるのが筋にござる」
田所が即座にうなずく。
「場所の案を三つ。山腹の杣口、谷の渡し直上、街道合流の手前。どこも兵ではなく、物と人が自然に集まる口です。幕と札、秤と帳、口上場までこちらで揃えます。寺方の目付を一人、常駐させてください」
房玄は微笑み、火鉢の灰を整えた。
「よろしい。寺の門を借り、市の理を通す。――ただし、鉄砲と火薬の扱いは段を追う。今は道具と糧を先に。火の品は“触るまで”。これはこちらの顔も立ててもらいたい」
「承知しました」と羽田。「火の品は試しを越えず。扱わぬものは扱わぬと、先に申す」
短い沈黙。庵の外で、木立を渡る風が経文のようにざわめく。
房玄は最後に一つだけ、別の札を差し出した。
小さな和紙に、端正な二行。
「先触れ(さきぶれ)を欠かすな。
利より先に知らせを。」
「惣も寺も、疑いは無知から生まれまする。利に先んじて言葉を。――それが、戦の世を市で渡る者の習いにござる」
羽田と田所は深く礼をして、庵を辞した。
帰路、尾根を越える風はまだ冷たい。だが谷底の水は、落とし段で細かく息をし、道端の笹は若い色を含み始めている。岩出の手前で二人は立ち止まり、段取りを合わせた。
「物見所は寺の地から。幕と札は寺の型に合わせる。目付を座につけ、出入りの月報を渡す」と田所。
「火の品は段を追って。まずは鍬と飯と油と紙。――門を市にする」と羽田。
二人は顔を見合わせ、笑ってうなずいた。
道は一本ではない。だが、先に話すことで、岐れは岐れのまま橋になりうる。
その頃、根来の山門でもまた、別の火がくすぶっていた。
石山はなお抗い、堺は風を読み、湯川は地を引き、雑賀は海を測る。
戦は続く。けれど、人は飯で結べる。火と経のあいだに、道を置ける。
庵の庭先で、房玄は先ほどの巻物をそっと開き直した。
墨の線は薄いが迷いがない。
「……市を通して戦を越える、か」
独り言のように呟くと、炭をひとつ火に足した。
火は静かに応え、灰の下で息を深くした。
焚火と灯明のあいだで ― 村評議、宗と政の境界を問う(羽田の口調調整版)
夜半近く。
まだ春浅い北風が谷を撫で、柚の葉がかすかに鳴る。木工小屋の奥座敷では行灯に油を差し、火鉢の炭に息を入れた。焚火の赤と灯明の白が交じり、板の間に長い影が伸びる。
座は古い習いに従い、出入り口に近いほうが下座、奥が上座。羽田隼人と田所正也が帳台の脇に座り、巻物と帳面を重ねる。向かいに村長・西村茂兵衛。脇に鍛冶の榊原、農の杉本、土木の横井、水野が膝を崩さず控えた。火の音が落ち着いたところで、羽田が巻をひとつ解く。
「これが根来側との折衝の記です。寺方の管理地に物見所を一か所、まず“試し”で建てる――先方が信を測る条件でした」
紙の繊維が擦れ、墨の香が立つ。田所が言葉を継いだ。
「せやけど根来は“宗”の顔だけやない。鉄と兵、それに検断――三つの力を一つに抱えとる。踏み外せば、あっという間に“政”の疑いにつながるで」
沈黙。炭がぱちりと割れ、榊原が低く唸る。
「……宗へ寄りすぎれば政から疑われ、政へ寄りすぎれば宗から距離を取られる、っちゅうこっちゃな」
羽田は火箸で炭の角を崩し、火の息を整えた。
「今は石山(本願寺)と織田が睨み合っています。根来も高野も、どちらとも浅くない。こちらが宗門に寄りすぎれば“宗門の手先”と見られる。祈りではなく、市で結ぶ――その姿勢を、形で示す必要があります」
杉本が首を振り、言葉を押し出す。
「けんど、道も水路も、寺の門を借りんことにはまとまらん。今さら引き返す道はないで」
田所が頷く。
「せやから見せるんや。“宗門には従わぬ、されど敵せぬ”。関わりは交易と自治の理だけ。村の中にも“宗の線”を引く」
水野が問う。
「その“線”、具体的には?」
羽田は巻の端を押さえ、三つの条を示した。
「一、寺への寄進は受けない。やりとりは代物の売買に限る。
二、寺方の軍動員には与しない。兵糧や人足の徴発は拒む。
三、村内に道場・掲示は設けない。講を開くなら野外、板前の範囲で。
逆に言えば、米や炭を売るのは可、道を通すのも可。ただし信仰は絡めない――この線です」
横井が腕を組む。
「……筋は通っとるが、向こうの機嫌を損ねはせんか?」
羽田は首を横に振る。
「先方にも実利があります。道と秤と帳が回れば、信徒にしなくても利は立つ。寺側にも“市を抱える理由”があるはずです」
そのとき、土間で杖が三度、ことりことりと鳴った。古習どおりの合図。
「御免」
暖簾が上がり、宮座の与左が入る。白髭を撫で、座の端に膝を折った。祠と祭祀を取りまとめ、宮座の帳を預かる古老だ。惣百姓の長である西村と、村の宗会を司る与左――二つの柱が揃う。
与左が場を見回して言う。
「宗と政の境、決めるそうな。ならば、里の祈りの道筋も、ここで定めとこか」
西村が静かに口を開いた。
「仏と刃は、昔から背中合わせや。わしの親の代にも寺と組んだ。けど最後はいつも村が焼ける。――商いと祈りは、ここで分けとこ」
与左が頷き、二つの作法を添える。
「宵祓いしてから評議、夜明けに祠へ申す。外への取り決めに起請は使わん。代わりに湯浅印と板前の記で示す。祈りを政治の楯にせぬ、これが肝や」
羽田が帳面を開き、筆を取る。
「寺方との応対は私と田所、水野で受けます。ほかは村の方針に従う。持ち込まれた話は、その日のうちに板へ上げる。村内では“政と経”を評定で、外では“宗との交渉”を窓口で――この分担で進めます」
杉本がぽつり。
「……まるで村に小さな幕府を据えるみたいやな」
羽田は小さく笑みを浮かべた。
「せいぜい町の役所です。ただ、柱は必要です。今のうちに」
榊原が手を挙げる。
「物見所の設え、図を引いとく。幕、通し符、秤台、札掛け。寺の目付が座れる腰掛けも。武具は幕外の決まりを板に書いて入口に掲げる」
横井が続ける。
「見回り番は二刻交代。棒の一打=様子、二打=板前、三打=引けは寺方にも先に伝えとく。水と人の逃げ道は、門の設計のうちや」
与左が懐から細い紙片を出し、机に置いた。薄墨で端正に二行。
祈りは里に留め、利は道に流す
起請より秤、法度より板
「これを今夜の御定めの見出しにせえ」
西村が火箸で炭を寄せ、座を見渡す。
「ほな決めよう。“宗に寄らず、政に組せず。市で結び、言で先触れ”――村の御定めとして帳面に記す。異論あるか」
誰も口を開かない。外の風が一度強く吹き、行灯の炎が細く揺れた。
羽田は巻を改め、ゆっくり筆を運ぶ。御定めは四段に分かれた。
一 宗政分別の条:寄進・動員を拒むこと、布教の常置を許さないこと。
二 交易作法の条:門・幕・秤・帳の四具を揃え、口上を掲げ、利より先に先触れを打つこと。
三 応対役の条:寺方の応対は三名、報せは即日板へ。沙汰は評定、祭は宮座。
四 違い置きの条:違えたときは三日閉門、二度目は月替わりの市を休む。祈りを楯にした者は板前で戒め、政を盾にした者は宮座で戒める。
書き終えるのに時間は要らなかった。要ったのは、言葉を選ぶ骨のほうだ。最後に与左が立ち、清めの塩をひとつまみ座の中央に落とす。
「神霊は里の祠に、利は道の彼方に。境、ここに置いた」
皆が深く頭を垂れる。羽田は湯浅印を押し、紙縒りで綴じ、竹筒に納めた。夜気は冷たいが、火はおだやかだ。焚火の赤と灯明の白、そのあいだに置いた細い線が、座敷の空気をまっすぐ通っていた。
やがて評議が解け、外に出ると星は冴えている。明け方には祠へ参り、御定めを口宣する手はず。戦の世に市を立てるなら、まず境を立てる――その夜、村は初めて、宗と政の境界を自らの手で記した。
『村御定書、定まる』
初夏の乾いた風が山の稜線をくっきりと起こした夕刻、雨上がりの匂いがまだ板間に残っていた。集会小屋の梁には杉の青さが残り、囲炉裏の炭は丸く息をしている。
羽田隼人、西嶋与一、榊原清太、横井大吾、杉本修司、田所誠一、そして村長の西村茂兵衛――七人が円く座につき、後ろ手には与平ら古老が黙して見守った。今日は古老の知恵が“主”ではない。暮らしが膨らんだぶんの“決まり”を、誰の目にもはっきり見える形に立てる日だった。
羽田が板帳を起こし、静かな口で切り出す。
「いずれ形にせねばと思っていました。口伝えや現場の勘では回らない。――“御定書”。村の取り決めを一冊にまとめます」
西嶋がうなずく。目は図面の癖を追う職人の目だ。
「人の出入りも物の流れも、もう“惣”の勘ではきかんところまで来とる。せやから“信”を立てる。誰が何をどう扱うか、先に書いとく。守るもんが見えりゃ、外に向いても胸張れる」
榊原は炭のはぜる音を一度だけ聞き、短く言った。
「鉄は危ない。置き場、出し手、戻し口――三つは決めとけ。火元は紙一重や」
横井が続ける。
「木も同じです。焼き板、柵、舟、車――似て非なる材が増えました。勝手に持ち出したら“木口が泣く”。銘と札で縛りましょう」
田所は板帳の別紙を繰り、声の調子を崩さない。
「搬出入の記録は生命線です。誰が/いつ/どれだけ/何のため――それさえ揃えば、外からの詮索にも説明が利く。“こちらの流儀”を見せること自体が防御になる」
羽田は一礼して西村へ向き直った。
「……私たちは元はよそ者です。しきたりを尊ぶ気持ちは変わりません。ただ、この先は口約束だと村の信が揺らぐ。暮らしだけでなく、交易でも問われます」
西村は、火の赤をひと呼吸見つめてから口を開いた。
「村は変わった。変えたのはおぬしたちや。ならば聞こう。“誰がこの村を治めておるか”と外から問われたとき、胸を張って『わしらの掟で治めとる』と言えるかどうかじゃ。――御定書、定めてよい」
羽田が深く頭を下げ、板帳の綴じ紐を解いた。空気が一段、張る。
御定書(草案)
羽田が読み上げ、水野が朱で小見出しを入れ、西嶋が板札の見出しを彫る。条文は三つの束に分けられていた――「物」「人」「道と旗」。
一 物の部(資材・保管・勘定)
資材は村の物。持ち出しは帳面に記す(誰/いつ/何を/どれだけ/何のため)。
保管の統一。鉄は鍛冶場・西蔵、木材は東蔵、食と薬は北蔵。夜明けと暮れ六つに見取り表で数合わせ。
相場の見取り。鉄一斤=米○升、炭一俵=塩○袋。毎月初めに板前で改定し、外へは“試し値”で告知。
火薬と薬材は秘匿とし、水野の許可なく口外・持出しを禁ず。調合場は幕内、見学不可。
鍛冶場・製炭場は榊原・横井の組が管理。鋼の配合と焼き戻しは帳外に書付、口伝れを禁ず。
貸し借りの札。貸しは藍、借りは紅、試しは生成り。返済は札の裏に押印、宵の板で締める。
榊原が短く補足する。
「鋼の流れ、書けば火が減る。火が減れば人が減らん」
横井も頷く。
「棚卸しは“目で数える”。数字が嘘をつかんよう、二人で読む」
二 人の部(役割・応対・争い)
交易応対は羽田・田所。宗門の来訪は西村または与左が主。武の要請は板前で評定のうえ回答。
外の話は板へ。その日のうちに“宵の板”に写し、名と刻を記す。
子の学びは村全体。読み書き算は夕餉前の刻、週二度。板札と相場、度量衡を教える。
争い事は寄り合いで裁く。初度は言い聞かせ、再度は三日閉門、三度目は月の市を休む。
火の作法。明りは油、火口は火打ち、寝る前に水一盌を囲炉裏脇へ。火事の合図は棒三打、桶は東口。
病と怪我は隠さぬ。水野の薬札を受け、林間に隔つる幕を張る。祈祷と医は別と心得る。
杉本が柔らかく言う。
「学びは“手”から始めましょう。縄の綯い方、刃の研ぎ方、材の癖の見分け……それも読み書きのうちです」
三 道と旗(門・幕・秤・帳)
門・幕・秤・帳――交易の四具は同じ場所に揃える。口上板を掲げ、通し符で人別を分ける。
合図は棒。一打=様子、二打=板前、三打=引け。外の客にも先に伝える。
道の整えは“流すため”。川の肩は止めず、落とし段で力だけ借りる。図は“畑名の図”として残し、検地の名は使わぬ。
関わりの線。“宗には寄らず、政に組せず”。寄進は受けず、動員に与せず、掲示は持ち込ませず。市と秤で結ぶ。
先触れの義。外への取り決めは先に言葉を開く。湯浅印と板前の記をもって証とする。
違い置き。四具の作法を違えた者は、一番に口頭、二番に札を裏向け、三番にその月の市を降ろす。
読み上げが終わるたび、囲炉裏の火がぽっと膨らむように見えた。沈黙のあと、ひとりずつ口を添える。
西嶋が条十五のところで指を置く。
「“畑名の図”って書いとこ。坂の名、畦の名、祠の名――字で縛るんやない、名で残す。検地と見られたら元も子もないで」
田所は条十三と十七を指で弾く。
「口上は固めましょう。“預かりは湯浅印、話は板前、幕の外”。先触れは“市の二日前”。外に“先に言う”は、物流の約束です」
横井が条十四に目をやり、短く。
「棒の合図、寺にも商家にも先に教えとく。音の取り決めは命綱や」
榊原は条四を見直し、ひと息あける。
「火薬、薬品――口は固める。見学は断る。断りの口上も書いとけ」
与平が古老の列から一歩進み、祠の作法を添える。
「宵祓いをしてから評議、明けの刻に祠へ申し上げる。外の取り決めに起請は使わん。起請より秤、法度より板――見出しに、その二行を」
西村が全体を見回し、深くうなずいた。
「よう言うた。――ほな、御定めに移す。異論は?」
異論は出なかった。羽田が清書に移る。筆が紙を走り、水野が朱を差し、西嶋が掲示用の板札に大見出しを彫る。榊原は火打ちを打って灯を守り、横井は秤台の水平を確かめ、田所は写しを綴じる台帳を紐で締めた。杉本は杉板の縁を鉋でさらい、手触りを整える。
清書が上がると、与平が塩をひとつまみ、座の中央に落とす。
「祈りは里に留め、利は道に流す。境目、ここに置いた」
西村が湯浅印を押し、巻止めを糸で結ぶ。
「これを“宵の板”と“交易所”に掲げる。子らには夕餉前に読み聞かせ、新しく来たもんには入り口で説明する。――異なる声は、次の評議へ」
羽田は静かに息を吐いた。
「ありがとうございます。外へ向けては、これを“作法”として先に示します。疑いを避けるのではなく、先に開く。それが長く続く道だと、僕は思います」
西嶋が笑う。
「道は“通す”より“通わす”や。板と秤が橋になる」
榊原は短く。
「火は小さく長く。決まりは太く短く」
横井が付け足す。
「水は止めん。人は止める――止めるのは争いや」
杉本はふっと目を細めた。
「木は逃げ道が命。村も同じや。逃げ道を書いときゃ、折れん」
田所は帳面を抱え、低い声で締める。
「“やった、貸した、借りた、返した”――この四つ、毎晩板で締めます」
笑いがわずかに広がり、すぐに凪いだ。外の夕風が戸口を鳴らし、行灯の炎が細く揺れる。御定書は巻かれ、竹筒に納められ、もう一本は掲示の板札へ。古老たちが立ち上がり、若い衆が縄を持ってくる。掲示の槌音が、暮れなずむ山に小さくひびいた。
その夜から、集落はただの“寄り合い”ではなくなった。板に文字が立ち、秤に皿が乗り、口上に筋が通る。翌朝の明け六つには、子どもらが板の前で声を合わせる。
物は皆の物、出入りは帳。
棒の一打は様子、二打は板前、三打は引け。
祈りは里に、利は道に。
起請より秤、法度より板。
山の稜線はまたくっきりと立ち、川の音は低く長い。“惣”の勘に、秤と板が加わった。
この村は、いま確かに、ただの“集落”から、決まりを持つ共同体へと歩を進めたのだった。