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⑧交易の深化――道と契りと秤の重み。

村の西、街道に面した小さな平場。かつて藁屋根と杉板で急ごしらえした“仮の交換所”は、もう仮ではなかった。榊原が墨で引いた構造図どおり、柱は太く、ぬきが通り、ひさしは二重に折れて夏の熱を逃がす。棟の下には煙抜きの小さな格子、雨脚を受ける竹樋たけどいは地面の砂利に落ち、ぬかるみを作らない。

杉本の手になる棚は段違いで、上段に軽い品、下段に重い品。棚口の前には細い縄が渡され、客は縄を越えずに見本だけを手に取る。右手には計量と清算の場――榊原が据えた秤台は、石の土台に太いはり一本、支点は真鍮の刃、皿は桜の板で反りがない。梁の端には細い目盛り、横には標準升ひょうじゅんます銀秤しろがねばかり、印打ちされた分銅が布にくるまれて並ぶ。

入口の柱には三つの札が揺れている。青は「試し」、白は「決め」、黒は「保留」。その下に、田所が毎朝朱で書く宵の板――「稼ぎは止めず/線は太く/札は二色」。横井が人の流れを見張り、与左が杖で地を一度鳴らして開市かいちを告げると、浜から来た者、谷から降りてきた者が、三々五々と庇の影で腰を下ろす。干し物の匂い、研ぎたての金気、炭の甘い残り香。

農閑の頃には近在の百姓が家々の話を持ち寄り、竹茶碗をすすりながら他村の様子を語る。「あの鍬は跳ねが少ねぇ」「紙が厚ぇ」「干し芋は子どもでも噛める」。時折、見本の臼やふるいを指して「うちにも入れたい」と願い出る者が出る。書状も判物はんもつもいらない。目で確かめた変化が、足と口で広がっていくのだった。


その朝、雑賀と根来の使者が揃って庇の下に現れた。往来の挨拶は短い。前回のような“品の交換”だけでは終わらない空気があった。羽田たちは、今回は関係そのものを持ち出すつもりでいたからだ。

羽田が帳場から竹紙を一枚取り、両手で掲げる。墨は乾き、角はきちんと落とされている。水野が一礼して読み上げた。


「――本村は月三度、道を開き、出入りを許す。取引は等量交換または銀秤による。往還の安全を期し、随伴の武具は弓一張・脇差一本まで、交易の場において干戈かんかを交えず。

紛議は板前にて、双方から一名ずつ立会い、湯浅印と相手印のもとに決する。

つもり違いの際は見本に従い、悪しき再発には三倍のつぐないを。

道の開閉は一打=様子/二打=集まり/三打=引けの合図による。

札は二色、**道印みちじるし**の木札を携えぬ者は幕の外に留める――以上。」


読み口は抑えめだが、声の芯は固い。羽田が続けて、竹紙の端を指で押さえた。

「この村と交換所は“道”の一部です。望まれるなら、いずれ紀ノ川筋の市へ繋ぐ中継なかつぎにもなれる。往来の定まりを持てば、双方の利はふくらむ。道は片側では張れない。ならぶものとして取り計らいたい」


玄澄げんちょうと名乗った根来の文僧は、羽田の前まで進み、竹紙を丁寧に受けた。墨のにじみを確かめ、秤台や標準升を一つずつ眺め、静かに頷く。

「契りは言葉だけでは弱い。だが秤と帳があれば、言葉に骨が入る。寺としても、誓紙をもって応ずることはできましょう。座の名義で紙と墨を、定めの日に重ねます」


隣の雑賀の使者――稲田三之助は、口角を少し上げた。弓の名で知られる男だが、まず秤を覗く。皿を指で軽く弾き、揺れの収まりを見て、わざとらしく肩をすくめた。

「道にこそ利が宿る。刃より先に動く者が値打ちを持つ時もある。よう見てる。……ほな、乗ってみるか。この秤に」


三之助は背の従者から袋を受け取り、皿にそっと載せた。菜種油と魚脂を合わせた精の良い油、和紙に包まれた薬種が小さく音を立てる。榊原が分銅を置く手を止める。梁は鳴らずに止まった。

羽田も皿に、鍛接の刃が入った鍬と鋤、杉本の篩と小ぶりの搗き臼の見本、さらに試しに用意した**火打ち石と火口ほくち**の小箱を載せる。秤の梁はわずかに揺れ、すぐに静かになった。玄澄が目で数え、三之助が鼻で笑う。


「もう一つだけ」と羽田。

「道中の目印に、これを」

取り出したのは親指ほどの木札。片面に湯浅印、片面に二筋の線(道の意)。受け渡しのたびに朱で刻みを一つ入れ、十刻みで新しい札に替える約。横井が、往来の順番を記す札掛けを庇下に取り付け、与左が杖で地を二度鳴らして見せた。


「もう一つだけ」と玄澄。

「秤の検見けみは誰が担う?」

榊原が一歩出て、梁の刃と目盛りを指で示す。

「秤は板前。刃は月ごとに磨き、分銅は双方の印で封じる。検見は湯浅印一人、根来・雑賀から一人ずつ、三人立会で」


「ほな、違約は?」と三之助。

田所が帳場から顔を出した。

「初回は見本に照らしての差替え。二度目は三倍返し。三度目は幕の外。――それでどうや」


玄澄と三之助は視線を交わし、短く頷いた。玄澄が袖から誓紙を出す。三之助は腰の印判袋を解き、惣中印の小さな朱を捺す準備をする。

榊原が秤台の横に紙板しばんを立て、羽田が竹筆で日取りを書いた。

三斎みつのいち――毎月八・十八・二十八。開は辰の刻、終いは申の刻。雨天でも庇の下で薄く開ける」


与左が杖で一度地を鳴らす。膝に置いた木槌で杉本がさんを一つ増やし、横井は人の列を二列に分ける。水野は油の灯を少しともして火口の火持ちを確かめ、岡島は鍬の角度板を横に置いて、希望者の背丈に合わせて柄の長さを調整する。榊原は倉口の紐を締め、榊原の隣で榊原……ではなく榊原はもう十分だ、榊原が最後に秤の梁を素手で止めた。


玄澄は竹紙に根来の座印を、三之助は雑賀の惣中印を、羽田は湯浅印をそれぞれ落とす。朱の匂いが立ち、三つの印が重なって乾く。

「契りは紙に宿った」と玄澄。

「道は二つ張れた」と三之助。

「秤は鳴らず」と羽田。


そのあとのやりとりは、もう儀式ではなかった。

菜種油は灯に回り、魚脂は革と防水に回る。薬種は水野が熱と湿の扱いを書き付け、干し芋は根来の従者が行李こうりに詰める。鍬を持った若い者が外の土を一打ちし、「跳ねねぇ」と笑う。紙は宵の板の端に積まれ、墨は印打ちの台を黒くする。

田所は帳に細い字で書き足す。「試し、良。次回、油ひと抱え増。紙は根来の薄口、松脂は雑賀の山筋」。与左は杖で二度地を鳴らし、幕の縄が細く揺れた。


この日、刀は抜かれず、銭の音も高くは鳴らなかった。鳴ったのは、梁が止まる微かな気配と、朱が乾くときの静けさだけだ。

契りと秤の重み――それは、この時代において何より信を問うもの。紙と印は風に流されるが、作法は残る。

村ははじめて、続く関係というステップに足をかけた。道は片方から押すだけでは前へ進まない。二つの手が、同じ重みで支え合うとき、はじめて道は地面に定着する。


庇の縁で風がひと筋通り、秤の梁が目に見えぬほどわずかに震えた。すぐに止まる。

「――よし」

羽田は小さく息をつき、竹紙を巻いた。次の三斎までに、やるべき段取りは多い。だが、その多さを厭う者は、ここにはもういなかった。



焚き火の赤が静かに呼吸する夜、羽田は板の上に広げた竹紙を指で押さえ、皆の顔を順に見た。小屋の隅には秤台、札掛け、白黒の小石。ここに置く“骨”は三つ――そう告げて、墨を含ませた筆を走らせる。


まず一つ目は記録(帳面)だ。

品ごとに「誰が/いつ/何を/どれだけ/何のため」を書く。行は一日ごと、列は品目。字が読めぬ者にも通じるよう、品名の横に絵印を描く――鍬は刃の絵、炭は俵、鉄は束ねた棒。帳面は二冊つくる。倉前に置く受払帳と、宵の板に写す日次控。書き手は二人一組で、片方が読み上げ、もう片方が記す。最後に立会人のしるしを朱で落とす。読み上げは必ず三度――揃える/数える/確かめる。誤りは墨で引かず、朱で上書きし、余白に改め印を置く。


二つ目は見える化(在庫)。

資材は置き場所を割り振り、棚ごとに見本一いちを吊る。月の三・一三・二三日み・いち・にちを“棚の見日”とし、数の合図に白石を、欠けは黒石を置く。西嶋が考えた簡易棚卸しは難しくない。倉の中央に見本を並べ、在庫は「見本×束数+端数」で読めるようにする。干し物は乾きで目方が変わるから、入は目方、出は束数で扱い、梁秤の刃は月三度研ぐ。分銅には湯浅・雑賀・根来の三印封を掛け、封を切るときは必ず立会を置く。


三つ目は相場(交換価値)。

「鉄一斤=米○升」「炭一俵=塩○袋」――羽田が草案を示した。値は山と海の事情で揺れるから、三斎(八・十八・二十八)ごとに相場板を更新し、上がりは朱、下がりは白で記す。相場板が立てば、作る量も決まる。「何をどれだけ作るべきか」が、帳面と棚の数字から自然に現れる。


羽田が筆を置くと、木工の若い衆がおずおずと手を上げた。

「……そんなもん、村の誰がわかるんや?」

「最初は混乱するよ。でも、“誰かが覚えて書く”を繰り返せば、村全体が目を持つようになる」羽田は穏やかに返す。「字は十も要らない。一・二・三、入・出・残、日・月。それに絵印だ。読み上げは数え歌でいい」


西嶋がうなずき、皆へ向き直る。

「榊原さん、横井さん。あんたらは字も数も強い。まずはかしら筋で帳面を回してくれ。物々しく聞こえるかもしれんが、仕組みが無いまま人と物だけ増えたら、足元から崩れる」


榊原が少し目を伏せ、短く応えた。

「鍛冶場でも、近ごろ“何を何本作ったか”で揉めた。最初の帳面、わしが書いてみる。印の型と秤は、火と同じで基準が命や」

横井も続ける。

「土木も同じや。杭が足らん、縄が消えた――どこで消えたかが分かれば、無駄は減る。俺のとこでも付ける」


羽田は竹紙の端に、割札の絵を描き加えた。

「帳面だけじゃ足りない。割札で現物に道を残す。札は二つに割り、片は荷縄、片は帳場。出すときは合わせて通す。合わなきゃ止める。字が苦手でも、札が教えてくれる」


さらに、運用の段取りを置く。

朝の版で前日の残を読み上げ、夕の版で入出を締める。夜の持ち込みは札だけ受けて品は幕外、明け六つに検見して入に落とす。倉前くらまえの三役――田所(帳と勘定)、榊原(秤と印)、与左(立会)の三つ止め。各持ち場から週替わりで補助を一人。違約は一度目注意、二度目朱書き、三度目で幕の外。


そこへ、木工の若い衆がもう一つ。

「字の読めん者は?」

「仕事の文字からだ」羽田は笑って、炭で絵印をなぞる。「子どもと若い衆は写しをやる。夕の輪で読み上げて、口と手で覚える。寺子屋はいらない。暮らしの帳で十分だ」


西嶋が言葉を継いだ。

「帳面が回れば、“余ったから売る”やなくて、“売るために作る”ができる。これはもう、商いの入り口や。作る前に数を置けば、無駄が先に消える」

榊原がぽつり。

「村の……商いの役所みたいやな。火の口、刃の口、秤の口――口が揃えば、音も揃う」


田所は相場板の端に小さく朱で書き足した。

「三斎ごとに相場改め。朔日締めで棚見、誤差は朱で残、翌三日で整える」

横井が秤の梁を指で弾く。薄い音が小屋に広がり、すぐ静まる。

「音が嘘つかんなら、数字も嘘つかんようにせな」


火のはぜる音が小さく跳ねた。外はまだ底冷えだが、卓の上には秩序の温度が宿りはじめている。

この夜の相談は、村をただの“集落”から、交易と秩序を持つ共同体へ押し出す確かな一歩になった。帳と札、秤と相場。――物は動き、道は残る。その当たり前を、ここから積み上げていく。


永禄も半ばを過ぎると、紀伊は海と山とが重なり合う“寄木細工”のような支配に覆われていた。表向きの看板は紀伊守護・畠山氏。だがその権威は薄く、実のところは守護代の湯川氏、湯浅・日高の在地土豪、寺社勢力、惣村の寄り合いが、川筋ごと、谷ごとに権限を分け合っている。山の尾根には社と坊が座し、麓には庄屋が立ち、浜では名主が網の口を束ねる。どこも「誰かの地」でありながら、どこも「誰のものでもない」——そんな揺らぎが日常だった。


北では紀ノ川が要である。川は京・堺の風を運び、和歌浦・加太・由良の湊は潮と銭の匂いで満ちる。堺の商人は紙と鉄、酒と塩を載せ、山間の村は炭と木地、干し物を背負って下る。せきでは関銭が、寺内では座の掟が働く。道が一本開けば利が動き、関札が一枚変われば流れが詰まる。その継ぎ目に、雑賀と根来が座していた。


根来寺は学侶・行人・僧兵が共に暮らす“寺内都市”で、蔵には紙墨と米塩、納所には畠と山林。経蔵の横に兵器庫があり、法と兵が同じ屋根を分け合う。雑賀衆は入江と湿地に根を張る自治の連合で、堺との縁で鉄砲と黒薬に早くから手を染め、郷ごとに評定を持つ。彼らは「守らせず、縛らせず」を旨として、銭と道を掌の上で転がした。高野は山の上から年行事と雑納を通じて“見ている”。守護家は名を残し、湯川は手を伸ばし、寺社は掟で縛り、惣村は寄り合いで凌ぐ。多重の網が重なり、ほつれ目で時々、血が滲む。


そんな折、どこかの村が独自に地を測り、名寄なよせを整えた——そんな風聞がひとたび立てば、解釈は二つに割れる。ひとつは、「暮らしを守るための地図」。もうひとつは、「年貢を取り立てる布石」あるいは「旗色替えの予告」。測量杭は、見る者によっては矛にも秤にも見える。地籍を書けば、帳面のぬしは誰か、と問いが立つ。朱の印が落ちれば、その朱の出所はどこか、と詮索が始まる。


なぜか。名寄と検地は似て非なるからだ。村の名寄は「誰がどの畝を耕し、どの水を使い、どの道で運ぶか」を暮らしの言葉で記す。外の検地は「一石いくら、反別いかほど」を年貢の言葉で括る。前者は助け合いの手綱になり、後者は徴発と動員の台帳になる。どちらも必要だが、どちらも目立つ。だからこそ、線を引く手つきと、印の色と、読み手を誰にするかが命取りになる。


紀伊では、情報は狼煙よりも早く風聞で走る。山伏は祭礼の口寄せと共に他国の話を運び、行商は荷と一緒に市の値と噂を配る。関所の番太は煤けた掲示の脇で耳を澄まし、寺内の文僧は紙の端に小さく書き留める。「あの谷で新しく倉が建った」「干し場の白が増えた」「倉口の音が重い」——そうした些細な変化の寄せ集めが、やがて「誰の勢力が伸びているか」を測る物差しになる。


羽田たちは、その目の細かさを承知していた。板の上に線を引くことが、倉の口を閉じることと同じくらいの意味を持つ時代である。ゆえに、彼らが議題に据えたのは単純で重い問い——やるべきか、やらざるべきか。もしやるなら、どう見せるか。誰の前で、どの言葉で、どの順番で。祠の禁足から先に囲い、宮座の帳で名乗りを取り、白地は白地のまま印を残す——そうした“見せ方”は、地図を武器ではなく暮らしに留めるための作法だった。


一方で、何もしないこともまた危うい。名を曖昧にし、水の道を曖昧にし、倉の出入りを曖昧にすれば、争いは境ではなく腹に出る。背丈を合わせぬ畝は風で倒れ、順番を決めない水は声で争い、数えない倉は信を失う。乱世の只中で「曖昧」はしばしば利に化け、時に火にも化けた。だから、羽田たちは線を太くしつつ、それを誰のための線か言葉で添えねばならなかった。


永禄の空の下、紀伊は静かに軋んでいる。畠山の名、湯川の手、根来の掟、雑賀の評定、そして惣村の寄り合い。いずれも完全ではないが、いずれも消えない。そんな地の上で、ひとつの村が自分で数え、自分で確かめ、自分で返す道を選ぶとき、その足音は遠くまで響く。測るという行為は、ただの作業ではない。秩序への宣言であり、同時に周囲への問いかけでもあるのだ。——われらは、何者のもとで、何を守るのか。


だからこそ、羽田たちは急がない。倉の口をまず整え、水の落差をまず定め、祠と宮座に最初の印を置く。名乗りは与左の杖の音とともに。外の目には、暮らしを守る名寄として映るように。検地ではなく、共の地図として。やるべきか・やらざるべきか——その問いに、答えはひとつではない。だが、やり方を誤れば答えが他人に決められる。それだけは、避けねばならなかった。



夕刻、湿った冷気が板戸の隙間から入り、囲炉裏の火が低く唸った。集会場の土間には筵が敷かれ、粗い木机の上には、作りかけの地図と墨の匂いの強い簡易帳面、小さな秤と朱の緒で綴じた紙束が置かれている。羽田、西嶋、杉本、水野、榊原、横井、岡島──外から来た一行に、村長の西村、長老の与平、若手の百姓が数人。背を丸めて座る者、腕を組んで黙る者、それぞれの息が白い。


羽田が最初に口を開いた。声は低いが、言葉に芯がある。

「検地──いや、“村の地図”を作るべきだと考えている。人と土地、道具と収穫の流れが追えなければ、交易所も農法の見直しも宙に浮く。帳面の線が細いままでは、どこで滞り、どこで痩せているのかが見えない」


横井が頷き、土の付いた手で秤の皿を軽く揺らした。

「土木でも同じや。『どこに誰が住む』が曖昧なまま道を付けると、道具が行方不明になり、工期がずれる。流れを読めん川工事ほど怖いもんはない。……ただ、やるにしても、この時代は“見え方”が厄介や」


若い百姓が身を乗り出す。

「見え方、て?」


榊原が口を開いた。煤の付いた指先で帳面の端をとんと叩く。

「この国で“検地”の二字は、領主の手入れや改易の前触れとして恐れられとる。雑賀や根来は独立のために外の検地を撥ねつけてきた歴史がある。こっちが暮らしのために線を引いても、『誰の命で始めた』と問われた時点で、疑いの色が乗る」


杉本が渋い顔で継いだ。

「それに最近、湯川の勢いが戻っとる。『あの村は湯川方についた』と噂が回れば、根来や雑賀との信が毀れる。倉の音が重くなった分だけ、目も耳も寄ってくる」


水野は紙束を繰り、指で二、三箇所に栞を入れる。

「私たちの工夫や作物が外へ伝わるのはいい。でも“制度を整える”作業は、周りからは“力の蓄え”に見える。帳面は、読む者次第で矛にも秤にも変わる」


囲炉裏がぱちりと弾け、しばしの沈黙が落ちた。羽田は数呼吸おいて、息を整えてから言う。

「だから、“名ばかりの検地”はしない。“内々の資材と人足の調査”として始める。目的は三つ──水利の調整、耕作効率の確認、交易所の出入り管理。年貢や役の再配分には使わない。外から問われたら、口上は一本だ」

羽田は紙片に短く書き付け、読み上げる。

「『交易所と工事の帳面づくりの一環で、人手と耕地の効率を見ておる。誰の命でもなく、わしらが村を回すためにやっておる』」


西嶋が重く頷き、地図を指でなぞる。

「うちらの“自治”は、殴り合いやなく、帳面と地図で築くもんや。祠の禁足を先に囲い、宮座の帳で名乗りを取り、白地は白地のまま印を残す。見せ方まで含めて、内から整えんと外は納得せん」


与平が目を細め、囲炉裏越しに羽田を見た。

「なるほどのう……『この村は侍でも寺でも商い衆でもない。じゃが、物は動かし、取引はできる』──そう見せる。そう見せ続けるために、帳面を開く、と」


村長の西村が静かに口を添える。

「開くといっても、全部を広げるは要らん。『倉の出入り』『水の割付』『人足の割振り』だけ、相手に応じて見せる紙を変えればよい。根来には水の理、雑賀には道の理。目につくのは“秤の公平”だ」


若い百姓が不安げに訊く。

「名はどうします? 名を書けば、誰かの“取り立て帳面”に見えやしませんか」


水野がすぐに返す。

「名は“屋号と人数”だけで足りる。田の広さは“畝当たりの手間と収量”で把握する。数える目的を“暮らしの回り”に限るの。帳面の言葉を、年貢ではなく暮らしの言葉にする」


榊原が短く笑った。

「字の形も工夫しよう。検地の様式に寄せすぎると誤解を招く。鍛冶場でも型を少し変えるだけで別物に見える。帳面も同じや」


岡島が手を挙げる。

「書く手はどう回す? 読める者はまだ少ない。現場の頭に“記す役”を付け、二人一組で相互に見合う。“書いた者の名”“見た者の名”を欄に残す。間違いはその場で直す。これで責め合いの種を減らせる」


横井が補う。

「地図は“畦と道と水”だけ描く。持ち主は書かん。境は地物で示し、名寄は別紙。地図は現場の道具、帳面は倉の道具。混ぜると色が濁る」


羽田は頷き、筆を取って机の隅に小さく箇条を立てた。

「その晩の取り決めは、五つにまとめよう」


一、名寄は暮らし言葉で書く。年貢語は使わない。

二、地図は水・道・畦のみ。名は別紙。

三、帳面は二人一組の見合い書き。見る者の名を残す。

四、外へは段階的に見せる紙を分ける。倉・水・人足、相手に応じて。

五、口上は一本。『交易所と工事の帳面づくりの一環』。誰の命にもあらず。


西嶋が最後を締める。

「それから“境目”の作法も決めとこ。祠の囲いは最初に、浜と渡しは色札で。白地は白地の印だけ。線を太くするほど、言葉は柔らかく」


与平がゆっくりと頷き、杖の先で土間を三度、ことりと鳴らした。

「ほなら、年寄り衆の名で“村中触れ”を出そう。『暮らしのために数える。争いのためではない』。字の読めん者にも届くよう、口で回す」


囲炉裏の火が少し高くなり、薄い湯気が立った。若い百姓たちの顔色から、わずかな緊張が抜けていく。西村が席を立ち、最後に言う。

「明日から、畦端あぜばなと渡しの板前に帳面の枠を置く。最初の書き手は榊原と横井。水野と岡島が見合い。杉本は“見せる地図”の板を拵える。……やることは多いが、これがうちらの“矛”であり“秤”や」


羽田は短く「頼む」とだけ答えた。外はもう暗く、戸を開ければ、山の匂いと冷たい風。数えること、確かめること、そして返すこと。乱世のただ中で、村は殴り合いではなく、帳面と言葉と地図で身を守る道を選んだ。火の粉がひとつ舞い上がり、静かに消えた。明日の最初の線は、祠の囲いから始まる。



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