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⑦取引と風聞――「物が動く」初めての日

明け方、谷の底に薄い霧がたなびいていた。祠に手を合わせた与左が杖で地を一度鳴らすと、板前の縄が張られ、幕が低く掛けられる。刀の柄には紐、手洗いの塩湯は盆に二つ。合図の棒は杭に立てかけられ、倉口には榊原が無言で立った。村はいつもの段取りどおり、しかし胸の奥にいつもと違う高鳴りを抱えていた。今日は“初めての取引の日”だ。


霧がほどける頃、尾根の道から荷駄の鈴が小さく寄ってきた。武の影は薄い。前に出るのは雑賀の若者と根来の文官風の僧、従者は二、三人ずつ。荷は細く、整っている。縄の手前で足を揃え、柄に紐を掛けて見せ、軽く一礼。村の側からは羽田が一歩、半身で出て、湯気の立つ茶と塩湯をそっと差し出す。言葉は短く、作法は変えない。


交換所は板前の端に据えられていた。粗末な柱と屋根、しかし棚はまっすぐで、足は固い。数日前から羽田と水野、岡島、杉本が手分けして用意した品が、湯浅印の札と見本の紐で静かに括られて並ぶ。刃は布で包まれ、干し物は編み籠で湿りを避け、臼は木口を晒して節の向きを見せる。乱れがないのは、見られることを前提に作ったからだ。


まずは道具。

岡島と横井が試作を絞った鍬と鋤を出す。刃の角度は三段、柄は二寸違いが二種。柄尻に小さな刻みがあり、重心の位置が触れただけでわかる。岡島が低く言う。

「腰を折らずに土へ入る角度です。刃は寝かせ気味。跳ね返りが来ない」

雑賀の若者が土盛りに一打ち入れる。乾いた音が一つ。土が割れて寄り、手に返る力が薄い。若者は表情を変えず、もう一打ち。角度板を差し出す岡島に目だけで礼を送る。


次に木の道具。

杉本が指で縁を撫でて出すのは、木製の篩と小ぶりの搗き臼。桟は細く、組手は痩せていない。

「節の向きで割れが止まる。臼は小さいが、女手でも回る。籾の腰を折らない」

僧は指先で木口を確かめ、目で木目を追う。頷きは小さいが、確かだった。


食い物は水野の番。

籠から干し芋、干飯ほしいい、味噌玉を出す。包みを開けると、干し芋の断面が浅く透ける。

「甘みは蒸し上げで決まります。冬のあいだに“甘さ→蒸し”の合図を決めました。今日はその“蒸し”の手前で止めた品。噛み切りやすく、力仕事の間に向きます。干飯は湯で戻して粥にも、味噌玉は湯だけで味が立ちます。混ぜものはなし。塩は控え、風で守るやり方です」

根来の随行の一人が小刀で干し芋を小さく割り、僧へ渡す。僧は噛み、喉を鳴らしてから紙にさらさらと記す。寺内の座で使う筆致だ。


見本が出そろうと、今度は客の荷。

従者が荷駄をおろし、縄の外に松脂まつやにの塊を布越しに置く。手に取る前に水野が「火が走りやすい」と短く声をかけ、塩湯の盆をそばへ移す。松脂は灯りにも防水にも接着にも利く。次に小さな樽。蓋を開ければ、尾頭の小さな干し魚と塩蔵の小エビ。潮の匂いが霧を切り、サキが一歩だけ鼻を動かす。最後に和紙と墨の束。紙は薄いが腰があり、墨は香が柔らかい。僧が言う。

「根来の蔵から選んだ。紙は書きに、札にも。墨は印打ちにも滲みにくい」


羽田は一つひとつを見本の札で確かめ、榊原と目を合わせる。榊原は札の紐を引き直し、声を落とした。

「紙は藍の通し符、松脂と干物は生成り。倉の札で切る」

田所が宵の板に朱で小さく丸を打つ。決める/試す/保留の横に、「段を踏む」と添える。


やりとりは終始、幕の外。

渡すのは見本だけ。数量は枡ではなく札の枚数で合わせる。札は湯浅印と客の印を合わせ、倉の口で束にする。銭は使わない。ここはそう決めた。最初の一日は、とにかく手順で結ぶのが肝心だ。


風は細く、村の中も外もよく見える。

子どもたちは縄の外で腰を下ろし、指折り数える。婆さまは遠目に手を振り、女たちは干し場の紐を張り直す。背中で支える気配が、静かに張っている。田の方からは、遅れて来た男衆が土のついた掌を洗い、輪の後ろで黙って見守る。


僧が墨を置き、静かに言った。

「信と利をもって道を開く。貴村の技、流れに沿うかどうか、試してみとうございました」

羽田はうなずく。

「こちらも同じです。属しませんが、背を向けもしない。必要なものを、必要なところへ。まずはこのやり方で」

雑賀の若者が刃先の布を丁寧に巻き直し、短く笑った。

「筋は悪くない。口の利き方も、手の動きも。……次も“見本”で会おう。上にそう伝える」


やりとりは長くは引き延ばさない。

二打が鳴り、合図で締める。与左が杖で地を一度鳴らし、僧と若者は同時に一礼。従者が荷を細くまとめ、尾根道へ消える。幕はそのまま、縄は張り替えない。村は手を止めない。唐箕がひとつ息を吐き、倉の戸が重い音を立てた。


人が散っても、風は残る。

干し魚の潮の匂い、松脂の甘い香、墨の柔らかな気配。午後にはもう、隣村の子が「湯浅の板前に白い紙が積まれた」と囁き、浜の渡しでは「倉の印が二色で揺れた」という話が上る。山の道では「黒羽織が刃を抜かずに茶を飲んだ」と言う者さえいる。風聞は風に乗り、細く、速く広がった。


日が傾き、板前に人が戻る。田所が宵の板を膝に、朱で今日の日付を入れた。

「外の目=来客。作法は守れ。見本で確かめ、段を踏む。稼ぎは止めず、線は太く」

榊原が倉の紐を締め、水野は干し場を風下へ寄せる。岡島は刃の角度板を二寸削り、杉本は篩の桟を一本増やす。西嶋は空を見上げ、川音の芯を聞く。羽田は札束を数え、最後に一枚、朱で印を落とした。


その夜、焚き火の輪は少しだけ大きく、話は少しだけ短かった。

物が動いた。潮と墨と松脂の匂いが、初めてこの村の夜に混じった。

風は軽く、しかし確かに向きを変え始めていた。



いち」という風景


この日、羽田の村で交わされた物々交換は、戦国の各地に息づいたいちの縮図だった。

市は月に三度の三斎市、六度の六斎市など“市日”が決められ、寺社の門前、橋のたもと、渡船場、街道の宿場で自然と人が集まる。日の出前には縄が張られ、夜明けとともに解かれる。鐘や太鼓が「始まり」と「終い」を告げ、口銭こうせんや関銭を納める場もあった。惣百姓、地侍、行商、諸職人が入り混じり、物と噂と人足が渦を巻く。


並ぶ品は土地の顔である。

— 農村からは米・麦・大豆、菜・芋、干魚や味噌・**ひしお**といった加工食。

— 山間からは炭・薪・山菜・鹿革・薬草。

— 商人筋は鉄器・紙・布・塩・酒・鍋釜・鋤鍬。

— 僧兵や武士は油・薬・武具・火薬、ときに南蛮の珍品。

— 女たちは紡いだ糸、端切れ、漬物、灰、灯心。子どもは欠け椀を胸に、湯を売る。

市は「楽市・楽座」の風が吹く地では座の特権が薄れ、税や手数料が軽く、**庇護する勢力(雑賀・根来など)**も、徴と保護の両方で富を得た。物が動けば兵糧が動く。兵糧が動けば、戦の背骨が変わる――それを外の者たちは骨身で知っている。


羽田の村がこしらえた交換所は粗末だが、市の作法に耐える仕立てだった。柱は真っすぐ、棚は水平、雨避けののきは短くてもよい。何より段取りが通っている。

— 刀の柄は紐、幕の外で応対。

— まずは見本を出し、札で切る。

— 枡や銭は使わず、宵の板の決めに沿って「決める/試す/保留」を運用する。

— 札は湯浅印と相手の印を合わせ、倉の口で束にする。

市に似ているが、市そのものではない。流れを細く、秩序で縛るための“村なりの市”だ。


人の配置も、市に倣う。

入口には与左が立ち、杖で一度地を鳴らして合図を統べる。田所は板の横で朱筆を温め、榊原は倉の紐を握る。羽田が口を利き、水野が物の効かせ方を説明し、岡島は刃の角度を示す。杉本は木口と組手を見せ、横井は運びと量の手配に目を配る。役が立つ――それが市の最小の条件だ。


客の流儀も、市の風だ。雑賀は惣中の礼に従い、刃を見せずに品を確かめる。根来は寺内の座の目で紙と墨の腰を読む。問いは短く、応えも短い。言葉が多いのは売れない印、ということを誰もが知っている。


市は、音と匂いで立ち上がる。干し魚の潮、松脂の甘い香、研ぎたての金気、乾いた木の鳴き。子どもが指を折って数え、婆さまが遠目に頷く。荷駄の鈴が遠ざかる頃には、もう噂が走る。「湯浅の板前に白い紙が積まれた」「倉の札が二色で揺れた」「黒羽織が刃を抜かずに茶を飲んだ」。風聞は風より早く、山ひとつ跨いでいく。


取引そのものは、つつがなく進んだ。等価を目指すが、未知の品と技が交じる以上、正確な換算はできない。だから互いに**“試し”の姿勢を崩さない。

— こちらは鍬・鋤・篩・搗き臼**、干し芋・干飯・味噌玉を見本に。

— あちらは松脂・干し魚・塩蔵の小エビ、和紙と墨を見本に。

枡ではなく札の枚数で合わせ、次回の量・質の基準を「板」に残す。市でも最初は相対あいたい売買が常。顔と作法こそが担保だ。


交渉の締めくくりに、羽田は根来の使者にささやくように問う。

「差し支えなければ……外では、うちをどう言っている?」

使者は唇の端をわずかに上げ、あえて濁す。

「面白き技を持つ、時世遅れの村――と。いまのところは」

羽田も笑った。遅れているという風聞は、ときに盾になる。早すぎるという風聞は、刃を呼ぶ。市の理屈は、戦の理屈と地続きだ。


別れの礼は短く、二打で締めた。与左が杖で地を一度鳴らし、幕の縄が微かに揺れる。客の背が霧に溶けるまで、村は手を止めない。榊原は倉の紐を締め、水野は干し場を風下に寄せ、岡島は角度板を少し削り、杉本は桟を一本増やす。田所は宵の板に朱で書く。

「見本で確かめ、段を踏む。稼ぎは止めず、線は太く」


こうして“村なりの市”の初日は、静かに幕を下ろした。

けれど市は、その場で終わらない。物が動けば、噂が動き、人が動く。翌朝には浜の渡しで塩の匂いが濃くなり、三日もすれば山の道で松脂の塊が不足する。和紙は板前の端に積まれ、墨は印打ちの台を黒くする。

風は道を覚えた。次に吹くときは、きっともう少し太い。



取引ののち――風が移る


初取引から三日。羽田たちの村から半日ほど山道を下った谷に、小さな百姓村がある。名主の家はあるが、領主の印は遠い。年の実りに応じて米と薪を納め、いざ事あらば隣村と祠にすがる。そんな暮らしに、この春ひとつだけ違いが出た。


湿りに泣いていた田一枚に、芽の立ちの早い苗がそろって並んだ。畝は曲がらず、畦の陰には細い竹管が伏せられている。余分の水が静かに息をして、谷川へ落ちた。年寄りは「今年は神仏が味方したか」と呟いたが、実のところは、浜の交換所で拾われた工夫が、隣の隣へと口伝で渡っただけのことだった。


その風景を、谷の縁から二つの影が見ていた。根来の若僧・了源と、雑賀の斥候上がり・弥吉である。了源は苗の列を目で追い、声を落とした。


「理がある。水を動かし、土を休ませる。偶然の整いではない」


弥吉は膝をつき、土を指でひとつまみ潰して鼻に寄せる。


「鍬の入れ方も違う。跳ねがねえ。筋が通っとる。あの村、ただの寄り合いとちゃうで」


二人は村人のやりとりも聞いた。若い衆が棒縄で畝の端を合わせ、女たちが干し物の棚を風下へ寄せ、子どもが竹管に詰まった泥を小枝でつつく。言葉は短いが、作法が先に立っていた。


「風はこういう端から変わる」と弥吉が言い、了源は小さく頷いた。「ならば確かめ、上に返すべきだろう」


二人は足取りを速め、紀ノ川筋へ戻った。


紀ノ川の報せ――ひとつの卓


取引から十日後、紀ノ川のほとりの塔頭に、雑賀と根来の顔がそろった。僧兵頭の頼玄が文机に手を置き、向かいには棟梁衆の一人・小谷三太夫。机上には控えが三つ。初日の品目、谷筋での見分、村の構えと作法。


頼玄は紙を繰りながら、目の端を細くした。


「鉄火や兵糧を拙速に求めぬ。だが、戦わずして勢いを立てる手順を心得ている。京の町家にも似た、知の構えだ」


三太夫は杯をあおって肩をすくめる。


「田を起こし、物をそろえ、作法で道をつくる。動かん戦や。無理に抱え込むより、共に得する筋で繋ぐほうが早い。こっちも飯は要る」


頼玄が了源の見分を確かめる。


「伏せ溝は竹。落とし段は浅く、背水は作らず。畝は棒縄で直し、干し物は風で守る。言葉にすれば簡単だが、手順の順が良い」


三太夫は弥吉の報告に頷いた。


「刃の返りが薄い。角度が良い。あれは数をこなした手の道具や。銭で競らせるより、品で育てる方が筋が通る」


沈黙がひと呼吸。外から風が入り、墨の匂いが薄く揺れた。


「上意で縛る話ではあるまい」と頼玄。


「せやな。こっちの座と惣中で“道”だけ敷いときゃええ。刃を見せず、見本で会う。次は紙と松脂を少し増やす。向こうの干し物は数を見たい」と三太夫。


頼玄は筆を取り、結びを短く書いた。


「見込みあり。試し続けよ。刀は抜かず、札で結べ」


二人は多くを言わずに立ち、川風の匂いをそれぞれの懐へ戻した。


地図に現れる


こうして羽田たちの村は、刀も鉄砲も抜かず、物と技と作法だけで、地図に現れはじめた。領主の印でも、御教書でもない。実利で押された印だ。


周りの名もない谷には、相変わらず日暮れまで鍬を振るう音がある。だがその端に、見慣れぬ一本の揃った畝、竹の伏せ溝の小さな水音、風下に寄せられた干し棚が、ぽつりぽつりと増えていく。


風は道を覚えた。次に吹くときは、もう少し太い。村はその風に煽られもせず、置き去りにもせず、細い作法でつかまえようとしていた。

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