⑥冬の入り、黒羽織。
一月のある朝。空気が張りつめ、霜が残る村はずれの小道で、若い衆が焚き火の跡を見つけた。灰はまだ白く乾いておらず、爪で押すと指の腹に湿りが残る。薪は山桑、割りは細い。火は小さく、足跡は二人分。片方は踵が強く沈み、もう片方は土を払う癖がある。
「……夜に火を焚くなんて、猟か……あるいは、見張りやな」
西嶋が静かに口を開いた。
「見回りに出てた若いのが言うには、二人連れ、黒い羽織、ほとんど口を利かんと山道を歩いてた、ってさ」
羽田は立ったまま腕を組み、わずかに目を細める。
「黒羽織、ねえ……時代劇の記憶だと、雑賀の下働きに、ああいう格好はいた。火薬や鉄砲を扱う手合い」
榊原が顎をさすり、低く呟いた。
「動き出したか。まだ“声”は届いてへんけど、“目”は来たってことや。先に様子を見に来た」
西嶋が足先で灰を崩し、薪の割り口を見る。灰の底に黒の芯が残り、樹皮の匂いが薄く鼻に立った。
「雑賀か根来か、高野か……この辺りに興味が出る匂いは、この冬ずっと出しとる。倉の重い音、干し場の白、焚き煙の筋。誰が先に接触するかの探り合いや」
彼は小枝で地面に簡単な図を描く。焚き火の跡から尾根へ、尾根から渡しへ。足跡は尾根の陰を選び、谷の声が届かない筋を抜けている。
羽田が頷く。
「教科書で見ただけだが、このあたりは昔、畠山とか三好とか……けど今は、どこの領地かはっきりしないんだろ」
西嶋は色あせた地図を広げた。
「見ての通り、守護筋は形だけや。紀伊はいま、雑賀・根来・高野が地付きで回しとる。……守護方もここへ来て動きが出とる」
西嶋は言いつつ、地図を指先で淡い線をなぞった。
「見てみ。うちらの村、こうして見ると、どこにも属してへん。地の利とも言えるし、宙ぶらりんとも言える」
榊原が続ける。
「だから今のうちに、“どう外と関わるか”を決めとく。“誰につくか”やなく、“どう付き合うか”。こっちの作法でやる」
羽田が短く息を吐く。
「……うちは、“選ばれる”村になりたいわけじゃない。“選ぶ側”にならないと、いずれどっかに引きずり込まれる」
田所が宵の板を抱えて駆けつけた。板の端には返すの欄、下には口上の素案が書かれている。
「今日の“返す”は三つ。米は札を切って二割備え、一割は手土産に替える。口上は『預かりは湯浅印、話は板前、幕の外で』で固定。——異論?」
水野がぽつりと重ねる。
「土台も技術も、まだ揺らぐ。けど、“便利そう”“使えそう”と思われたら目はすぐ集まる。まずは受け方と断り方、みんなで決めよう。——断るのも作法」
「合図はいつも通りだ」西嶋が指を折る。
「一打=様子、二打=板前、三打=引け。昼は煙一本=無事、二本=来客、三本=危急。火は低く、煙は細く。見せる先は幕の外、背中は祠の方へ」
榊原が朱で小さく丸を打つ。
「通し符は生成り=倉、藍=浜、紅=渡し。外に渡すのは生成りだけ。印は一打ち、二打ちは内向きの荷」
村年寄の与左が祠の塩をひとつまみ、焚き火の白へ落とした。
「祠の前は白地。寄り合いは幕の外で。刀の柄は紐を掛けてから入ってもらう。——守りごとや」
おきよが名乗り札を揃え、子どもが小走りで縄を持ってくる。幕線の杭を打つ音が、霜の朝に高く響いた。
サキが斜面の上で座り、風上を見張っている。片耳が一度動いた。羽田がちらりと目をやる。
「見張りはひとり分、干し肉一枚。頼むぞ」
野犬は答えず、鼻先だけがわずかに動いた。
西嶋は焚き火跡の向きと灰の厚みを見て、口の端を下げた。
「長居はしてへん。水を沸かした気配もない。気配だけ置いてったんや。こっちがどう動くかを見るために」
田所が板に「誘いに乗らず、場を決める」と書き足す。
「来客は渡しの手前。倉の音は止めず、手は止めるな。人の列は細く通し、数えられん幕は維持。口を出すのは三人だけ。——羽田、西嶋、与左」
羽田がうなずき、口上を小さく読み上げる。
「『湯浅印の札を通してお預かりします。話は板前で、幕の外にて。刀は紐を掛けてください』」
水野が補う。
「物を見せるなら見本だけ。塩と米は混ぜない。湯浅印の別札で切り分ける」
榊原は倉の鍵を手で確かめ、札の紐を締め直した。
「口上の最後は『稼ぎは止めず、線は太く』で締める。押し売りは聞かない合図や」
昼、風が少し緩む。浜の方角に煙の筋が二本、短く立った。
「来客の印」西嶋が言い、棒で二打。板前に人が集まる。幕は張られ、札が掛けられ、祠に背を向けぬ位置に席が設けられた。
田所が人の並びを整える。
「前は三人。後ろは手元。誰も被らん距離や。話の途中で三打が聞こえたら、引けの合図。——無理はしない」
やがて、斜面の上に黒羽織が見えた。二人、影は細く、歩幅は揃う。足音は軽く、石を踏む音が小さい。
「……鉄砲足かもしれん」榊原がつぶやく。
羽田は頷き、声を低くする。
「こちらから名は問わない。名乗りは向こうから。こちらが名乗るのは作法だけ。——『湯浅浜、板前にて』」
黒羽織は幕の外、縄の前で立ち止まった。片方がわずかに頭を下げ、もう片方は袖の内で何かを触る。刀の柄に紐が掛かっているのを、与左が確かめる。
羽田が一歩だけ進み、定めの距離で止まった。
「お預かりは湯浅印の札を通して。話は板前の外で」
声は低く、遠くまで通る。西嶋が横で沈黙を保ち、榊原は倉の方角へ視線だけ送る。田所が背中で列を止め、サキが斜面の上で動かない。
黒羽織のひとりが袖から布を出して見せる。淡い印が、逆光でぼんやり浮いた。
「……印の名は?」与左が短く問う。
答えはない。ただ、布の端を少しだけ上に上げた。名乗りは避け、気配だけ置くやり方だ。
羽田は頷き、言葉を選ぶ。
「米は見本だけ。塩は混ぜない。湯浅印の札で切り、返す先はこの浜。——それでも良ければ、次は明け六つに」
黒羽織は互いに一瞬だけ目を合わせ、短く頭を下げると踵を返した。足音は最後まで揃っている。
風が山道を抜け、焚き火の残り香は薄れたが、確かに、外の気配を連れていた。
それは戦の匂いではない。ただ――利と目と思惑が混じりはじめる、前触れの風だった。
宵の板には、田所の手で小さく追記される。
「外の目=来客。作法は守れ。稼ぎは止めず、線は太く」
朱の点が一つ、深く落ちた。
春まだ浅い霧の朝。
板前の空き地に杭が打たれ、縄が張られている。縄の内が村、外が客。祠の方角に背を向けぬ位置に幕をとり、湯気の立つ木の盆が縄の向こうへそっと差し出された。今日はここを“交渉の場”にする、と昨夜の宵の板で決めてあった。
先に立つのは羽田。半歩うしろに西嶋と与左。
少し離れて、水野・岡島・杉本が見本の包みを抱え、倉の方角には榊原が控える。田所は板を胸に、朱の筆を袖で温めていた。倉の口は重いまま、手は止めない。唐箕の羽根が遠くで小さく鳴る。
霧を割って、二つの影。
ひとりは革具の若者、もうひとりは墨染めの僧衣。縄の手前で足を揃え、刀の柄に紐を掛けて見せる。若者は雑賀、僧は根来寺の下僧と名乗った。どちらも目が落ち着いている。使いにしては目が利きすぎる。
羽田がうなずき、縄の外へ盆を差し出す。
「険しい道を。まずは一息、どうぞ」
若者は無言で受け、僧が軽く会釈する。湯気が霧に混じってほどけた。
若者が先に口を開く。
「近頃、この村の噂が立っておる。鍬や鋤が揃い、米の備えが増え、道まで整い始めたと。……妙な話と思わぬか?」
羽田は間を置かずに返す。
「妙ではありません。手にある技と、この土地の力を合わせただけです。ご覧いただければ、話は早い」
僧が穏やかに続ける。
「では、その“工夫”は、お主らばかりで囲うのか。それとも、分け合う余地があるのか」
羽田が横目で田所を見る。田所が板の“口上”を指で押さえ、羽田は短くうなずいた。
「作法に従ってなら、分け合えます。預かりは湯浅印、話は板前、幕の外で。まずは見本を——」
羽田が手を上げると、杉本が一歩前へ出て、縄の外に倉印の札を付けた小さな箱を置く。
「干し餅、塩麹、大根の薄漬け。長く持つように作ってあります。切り口でご判断を」
岡島は短い鍬と角度板の試作を二本、これも見本の札で差し出す。
「腰を折らずに振れる角度にしました。刃は鈍くはありませんが、乱暴には効きません。扱いが丁寧な相手にしか渡す気はないんで」
若者がじっと刃先を見、僧は干し餅の割れを確かめる。
僧が問う。
「見返りは?」
羽田は答えを短く詰める。
「塩、麻糸、紙。まずはそれだけ。混ぜません。見本で互いに確かめ、次を決める。段は踏みます」
若者が鼻で笑い、少し目を細めた。
「欲に溺れず、筋を通すか。……ならば、こちらも誠で応じよう。“取り引きの目”として、上に伝える」
ここで水野が一歩だけ肩を出し、声を落とす。
「ひとつだけ。雑賀と根来、それぞれの筋から揃って来られた理由を伺えますか」
僧は短く息を吸い、霧の向こうを見た。
「紀伊の北は今、風が渦巻いております。三好が泉州へ手を伸ばし、堺も静かではない。そういう折に、ふいと浮かぶ村があれば、見る者は皆“どちらへ転ぶか”を量りたいのです」
羽田は微笑を崩さない。
「こちらは属しません。属した途端、暮らしが細る。必要なものを必要な場所に、作法で届けるだけです。最初は“保存食と農具の交換”から。明け六つ、もう一度ここで見せ合えるなら」
雑賀の若者がふっと笑った。
「……悪くない。言うだけなら誰でもできるが、口の利き方はわきまえとる。よし、上へ持っていく。名は伏せるが、話は上がる」
僧も静かに頷く。
「血でなく、飯と道具で世をつなぐ。価値がないとは申しますまい」
与左が短く杖で地を一度鳴らす。
「では、通し符は生成り。刀は紐、幕の外。三打が鳴れば引け。それでよいな」
二人は同時にうなずき、湯のみを置いて踵を返した。霧の中へ、足音は最後まで揃っている。
田所が板の“返す”に朱を一点落とし、声に出さず読み上げる。
「見本で確かめ、段を踏む。稼ぎは止めず、線は太く」
倉のほうで唐箕がまたひと息鳴り、川上から朝の風が降りてきた。霧は薄く、幕の縄がかすかに揺れた。
【雑賀・由良庄 某所】
杉板の屋根越しに、淡路からの風が強まった。潮の匂いに火薬の粉がうっすら混じる。
土間の奥、粗い卓を囲むのは雑賀の若衆と中堅――**惣中**の早耳たちだ。寄り合いの鐘は鳴らさない。こういう話は、静かに落とす。
交渉に赴いた使いが、膝をついたまま一礼して顔を上げた。
「……妙な村でした。戦を避ける口ぶりは飾りではない。物も手も“百姓”の枠をはみ出している。鍬も飯も、どこか手入れが過ぎる」
上座の老将が低く唸る。
「手入れが過ぎる、か。ならば備えを持つ者よ。銭勘定と戦支度、どちらも軽んじぬ手の音や」
使いはうなずく。
「軍備の気配は表へ出さず、逆に言えば、見せぬ手もある。……厄介ですが、面白い」
雑賀は惣国の色が濃い。六つ七つの郷が惣中で寄り合い、評定で決めて動く。
鈴木の旗がまとめるが、棟梁筋は一枚岩ではない。土豪は横並び、鉄砲の座と火薬の座、堺との荷の筋――力の柱は複数だ。海と川の道(湊・渡し)もまた兵糧の延長で、屋敷と蔵と職の集団が絡み合ってひとつの「雑賀衆」を作っている。
老将が卓を指で叩く。
「三好は和泉で息をし直し、堺は風向き次第。看板だけの守護では、紀伊の隅々までは押さえきれぬ。……今、別の力を得るなら、あの村は捨て置くな」
「抱え込むか?」誰かが問う。
老将は首を横に振る。
「抱えるな、育てろ。上意で縛れば、すぐ腐る。飯と道具を回して、こっちを見る目を育てる。惣の作法で繋いどけ」
使いが言葉を選ぶ。
「火急の鉄砲を欲しがる気はなし。むしろ『争わず、利を分ける』が徹底。最初は見本の取り換えから、と」
「よかろう。備中鍬を数丁、座から出せ。銭は薄く、名は伏せて。見返りは保存食の出来を見る。塩は混ぜるな、札で切れ」
老将は全員の顔を一巡させて語気を落とす。
「惣中で評定に上げる。が、走らせるのは細く、早く。――風は掴むより、乗るほうが速いぞ」
【根来・塔頭 某院】
根来の一室。畳は新しく、文机の角に薄い漆の光。香が弱く漂う。
報告を受けるのは塔頭を束ねる中位の僧。衣は朱を含み、袖の振りは静かだ。
文官風の男が膝を正し、淡々と述べる。
「言葉の筋は通っております。交渉の礼は幕の外、刃に紐。村の作法が整っておりました。妙に手練れでありながら、己を出しすぎない。商いの理に近い物言いでございます」
僧が目を細める。
「仏法も儒学も学ばぬ里の者が、そこまで道理の順に明るいとな。彼らの学びは、どこから来た」
「存じませぬ。ですが実地の工夫は見事。農の手順、水の扱い、乾物の所作――どれも体系に近い」
根来は**寺内町**そのものだ。学僧(学侶)が講義と文を支え、行人が寺領を歩いて実務と兵を担い、衆徒が寺坊の日常を回す。寺の中に座がいくつもあり、鉄砲鍛冶の座、塗り物の座、紙の座――市と兵の両輪で立つ宗教権門である。
足利義輝亡きあと、畿内は揺れが収まらぬ。三好の家中は割れ、堺は風見、将軍家は空位。根来もまた山門の評定で道を測る最中だ。
僧は文机の札をめくりながら言った。
「和泉・堺の道が曇る折、山間に自立の気配が立った。異物ではあるが、無下にはできぬ」
「は」
「寺としては施行の名でいくらか試しを運べ。備中鍬を数、紙と麻糸を薄く添える。代わりに保存食の出来を見る。品が立つなら、商にも利する」
声をさらに落とす。
「それと――誰があの村の口と手を束ねておるか、確かめよ。あの道理、あの手順。ただの地侍の腕ではなかろう」
「承知」
僧は目を閉じ、障子越しの風の音に耳を澄ませた。
「戦は消えまい。だが、飯で結ぶ筋があるなら、見届ける値打ちはある。根来も雑賀も、槍と経と市で世を渡る。――血ではなく、手順で繋ぐ縁が一つ増えるなら、悪くはない」