⑤苗を育てる、その前に。
三月――風はまだ冷たいが、日差しにほんのり温みが混じりはじめた。
谷あいの集落では、春の第一歩「苗床づくり」の準備が始まる。集会小屋の縁側に、羽田と水野、岡島、そして村年寄の与左が膝を突き合わせて座った。奥では榊原が水糸と竹尺を揃えている。
与左が土器の壺を差し出した。中には乾いた炭が詰まっている。
「苗床には温さが要る。夜が冷え込むうちは種も眠ったままや。これは“あったか壺”。端に埋めりゃ、土が凍らん」
水野が目を細める。
「理にかなってます。今の世でも育苗は“地温”を上げて根を起こす。やり方が違うだけで、考えは同じです」
与左は顎をなでて笑った。
「町場でも土の温め方に気ぃ回すんか。昔は炭がなきゃ牛の糞を乾かして火の出んよう詰めて埋めた。匂いは辛抱やけど、土は喜ぶ」
岡島が手元の紙にすっと書きつける。
「育苗棚は南を向けて、壺は風下の端。覆いは葦簀で日と風を調整――っと」
与左が指先で山の縁をさす。
「棚の位置は、あの笹藪の跡や。昼まで日が差して、午後は山風が通る。草を刈れば土が生き返る」
榊原が測量器を持ち出し、勾配を確かめてうなずいた。
「傾きはゆるい。水は逃げすぎず保たれる。種籾の桶も近くに置ける。動線がいい」
縁側の端から若い者が顔を出す。
「桶の水、流しっぱなしにせんのか」
水野が答える。
「流しっぱなしだと冷える。昼は日向に出して温め、動かして返す。それから播く」
与左が笑い皺を深くした。
「“冷たさ”にも順番がある、っちゅうこっちゃな」
羽田が皆の顔を見回した。
「一緒に育てるなら、一緒に考えよう。今の工夫も、昔の知恵も、どっちも力になる」
その日の午後――
笹藪の根を掘り返すのに男たちが鍬を振り、女たちが草をまとめ、子どもたちは石を拾った。
「昔、ここで菜っ葉を作っとったよ」という婆さまの声が混じる。
岡島がつぶやく。
「苗床には“土の記憶”も要るんだな」
水野がうなずく。
「化学式には出てこないけど……こういう土地の感覚は大事」
村の者は、かつての手を思い出し、外から来た者たちは、この土地の癖に寄り添うやり方を探す。一緒に耕すという新しいかたちが、少しずつ形になっていった。
夜になって――
サキが村はずれの丸太の上でじっと見ていた。子どもたちが「おやすみ」と声をかけて帰っていくと、片耳が一度だけ動き、尾が短く揺れた。
焚き火の残り香とかすかな青草の匂い。春は、もうすぐそこまで来ていた。
春を待つ土(改稿・加筆)
早春――。
田の表土がようやく指に返るようになり、霜柱の癖が薄れてきた頃、苗床づくりの前段として土起こしと肥のすき込みが始まった。冬のあいだに積んで返してきた堆肥――落ち葉と藁、灰、家畜の糞尿を混ぜ、三日目と七日目で裏返した山――が、畑の四隅から少しずつ運び込まれていく。
「今年のは“土の力”が違う気がするな……」
堆肥の山を鍬で崩していた男が、手のひらで握っては開いた。黒い土がほろりとほどけ、掌にべたつかない。
「腐った葉と牛糞なんざ、昔は臭ぇだけの厄介もんだったが……」
横で鍬を振るう岡島がうなずく。
「土の中の“虫”と“火の力”だ。落ち葉と灰は陽を吸って温を溜める。糞が腐ってくると、土に“餌”が入る。小さな生きもんがそれを食って、噛み直して、**団子**にしてくれる。鍬が跳ねなくなるのは、その団子の筋が通るからだ」
岡島は角度板を柄に当て、腰に合う段で固定した。「無理な姿勢で土を殺さない。人の体も“道具のうち”や」
「肥えた土、かぁ……」
村年寄の与左が、小さな畝を指先でなぞってうなる。指先の先で、白い糸のような菌の筋がきらりと走った。
「こりゃまるで、草木が土をつくるって話やのう。山の畑に似とる」
西嶋が笑って、掘り起こした土の塊を高くから落とした。塊は一度だけ割れ、細かな粒が散った。
「その通り。自然に任せりゃ百年かかる。けど、人の手で“山の真似”をすりゃ十年でできる。俺たちは、百年の山仕事を一年に縮めるつもりや」
その言葉に、周りの表情がすこし引き締まる。
堆肥の山から湯気が立つ。若い者が棒を差し込み、抜いた棒の先を鼻に寄せた。
「甘い匂いだ」
水野が頷く。
「いい匂い。甘さが“蒸し”に切り替わる直前が返しどき——冬に決めた基準どおり。今日はまだその手前。薄く広げて、薄く効かせて」
女たちは掻き簾で細かい灰をふるい、子どもは石を拾って籠に落とす。与左が灰の桶を指で叩いた。
「灰は一に薄く、二に散るや。撒きすぎると土が痩せる」
岡島が合図を返す。「はい、薄く広く。黒と灰がまだらになるくらい」
田所は運び役の列を見渡し、段取りを短く飛ばした。
「東の端から縄一丁幅で進む。塊は拳より大きけりゃ割る。水は一輪だけ差して返す。泥になる前で止めるぞ」
横井は小さな棒を地面に立て、昼までの影の伸びを読んだ。
「この陽なら、午後は風が通る。湿りは残る。撒いた後は踏むな」
「……おら、去年まで知らなかった」
先ほどの男がぽつりと続けた。
「この腐ったもんが、稲を育てる土に化けるなんてよ」
西嶋は土を一握り、握っては開き、耳の横で軽く砕いてみせる。
「握って崩れる。それが腹八分の合図や。詰めすぎるな、足りんなら足す。揃えて、数えて、確かめるでええ」
午後、笹藪の跡に運び込まれた堆肥が薄く敷かれる。男が鍬で混ぜ、女が箒で縁を掃き、子どもが石を拾う。
「昔、ここで菜っ葉を作っとったよ」
婆さまの声が混じる。
「土の記憶やな」岡島がつぶやく。
水野も頷いた。
「化学式には出てこないけど、こういう“土地の癖”は効く」
夕刻、東風が少し冷たくなった。田の隅では、あったか壺を埋める穴が掘られていく。与左が壺の位置を示し、榊原が竹尺で間を測った。
「壺は風下の端、間は三間。覆いは葦簀で夜だけ落とす。——夕に入れて、夜に返す。よどませるな」
「はい」水野が桶の水を日向から日陰へ運び替え、温みを逃さないよう布で口を覆う。
日が傾くころ、サキが丸太の上からじっと見ていた。人の列が畦の上をゆっくり移動し、黒と灰が地面にまだらを描いていく。田所がスコップの背で土を押さえ、最後に一度だけ靴でそっと踏む。
「土は腹を太く。——今日のところはここまで」
風が止み、土の湯気が薄くなった。
春は、手の届くところまで来ている。
あとは、播く前の一晩を動かして返し、朝の温みを待つだけだ。
同じ頃――
谷の奥では、男衆が鍬を肩に、斜面から斜面へ仮の水路を通していた。冬のあいだに押さえた取水の肩から、いったん谷筋へ水を落とし、苗床と下段の田へ借りて返すための細い筋だ。
先頭に立つ西嶋が、竹を三本組んだ三脚に水盛りの筒を括りつける。竹筒の口いっぱいに張った水面が、黙って水平を教える。
「……ここや。尺五寸右へ逃がす」
西嶋が静かに言い、鍬の刃で足元の柔い土をひと筋削った。
「緩すぎると溜まる。きつすぎると土が噛まれて崩れる。勾配は“ちょうど”が要る」
若いのが目を丸くする。
「そんな細けぇ加減、どうやって見てるんです」
西嶋は笑って、竹筒を指で叩いた。
「水が教える。見た目に頼ると勘が暴れる。勘は殺さず、道具で暴れんようにするんや」
鍬が入るたび、土が音を変える。ざく、と湿りの音がして、溝の底に光る泥がのぞく。列の後ろから杉本が石籠を担いで上がってきた。
「この先、速すぎる。段を一枚入れる」
杉本は手頃な角の立った石を三つ並べ、重ね目に泥と苔を噛ませて落とし段をつくる。
「上面は上、顔は外。法面は掌で叩いて締める。——ほれ、音が変わるべ」
「こんなの、どこで習うんです」と若いのが問う。
西嶋は鍬を胸の前で止め、谷下を見やった。
「川で稼いだ年のぶんや。橋の基礎も、用水も、原理は同じ。どこで借りて、どこへ返すかや」
言いながら、筒の水面と溝の底を交互に見て、指で指一本ぶん勾配を示す。
「百歩で指一本下げる。今日はその気配や」
列の脇で榊原が竹尺を当て、寸法を口に出して合わせていく。
「段の立ち上がりは拳二つ、底は指二本上げる。吐き口はその先、肩の一段下。——印は朱の札。合図はいつも通り、一打=様子、二打=板前、三打=引け」
年配の男が水面を覗き込み、耳を澄ました。
「昔は“水の走る音”で傾きを読んだもんじゃ。耳と勘でな」
西嶋がうなずく。
「その耳が一番の道具や。道具が勘を裏切らんよう押さえとく。それだけで一年ぶん助かることがある」
溝の筋が尾根の陰に回り込む。土が乾きに変わる手前で、西嶋が鍬を止めた。
「ここで逃げ水を一本、谷下へ通す。腹が張ったら先に逃がす。田は助かる」
杉本が頷き、細い支流を斜めに切り落とす。
「余水吐はここ。肩の土を噛まんよう、口は丸めておく」
若いのがぽつりとつぶやく。
「……“水を張る”やなく、“水を見張る”ってことですか」
西嶋は短く笑った。
「ええ言葉や。水は流すもんやない。育てて返すもんや」
風が斜面を渡り、カケスが遠くで鳴いた。土の匂いに、まだ冬の金気がわずかに残る。
「段、一枚できた。——次へ」
西嶋のひと言で鍬がまた動き出す。前で掘る者、後ろで整える者、脇で石を運ぶ者。音がそろい、溝の線が谷に細い背骨を描いていく。
やがて水が通った。落とし段の縁で音が半音落ち、底の泥がゆっくり沈む。
杉本が掌で法面を撫で、にじむ水を見極める。
「噛まん。——これで段は生きる」
榊原は竹札に朱で印を入れ、杭に結んだ。
「夕に入れて、夜に返す。札は赤一枚で回す。迷ったら“試す”へ倒す」
谷の声が少し静かになった。溝は細いのに、まるで呼吸をしているみたいだ。
西嶋が水盛りの筒を指で弾く。
「……ちょうどや。これで苗床まで水の道が通った」
男たちは鍬の先を土で拭い、肩に担ぎ直す。背中に汗が冷えて、風が少しやさしくなった。
「雨は神の領分や。けど、来た水をどうするかは人の仕事や」
西嶋の声に、うなずきがいくつも重なった。
谷の細い背骨は、もう田の方角を向いていた。
夕暮れが藍に沈み、火の赤が土間に映るころ、広場にはいつの間にか輪ができるようになっていた。作業帰りの手が干し芋や団子や山栗を回し、子どもが藁の切れ端で土に絵を描く。板切れが一本、杭に立てかけられ、端には炭が二本。火の匂いと味噌の湯気が混ざり、息を吐けば白い。
「“考えてから動く”なんて、気持ちわりぃと思ってたがな」
中年の男が芋を割り、湯気に目を細めた。
「やってみりゃ、無駄が減るのは確かだ。腰が痛くなる回数がまず違う」
「おらもだよ」
若いのが笑う。
「去年まで“口ばっかのやつは信用ならねぇ”って思ってた。でも、口を使って考えるのも、仕事のうちだなって」
煮炊きしていた女たちが自然に輪へ寄ってくる。
「この前教えてもらった干し大根、うまくいったよ。あの風の抜ける桟に吊るしたら、塩は少しでよかった」
「切り方の向き、あれが肝だったんだね。繊維に逆らわないってやつ」
話は畑の段取りから保存食、子どもの寝かせ方や山の道の補修へ、川筋のように分かれては合わさる。誰かの意見が否定で止まることはない。笑いがほどけ、言葉が水のように土に染みていく。
輪の少し外、杭に立てかけた板のそばで西嶋が黙って様子を見ていた。炭の先に鼻を黒くした子が近寄り、板の端に小さな丸を書いて逃げる。田所がそれを見て肩を揺らし、炭を手に取った。
「こいつを“宵の板”にすっか。やってみる/貸す/借りるの三つに分ける。書きたいことがあったら、ここへ置いてけ。決める/試す/保留は印でいい」
羽田が隣で薪の灰を払いつつ、火の色を見て口を開く。
「“言葉を出す”ってのは、おもしろい。話すことで、知恵に手綱がつく」
「昔の村はどうだった」
誰かが問う。羽田は少し間を置いて答えた。
「もともと百姓の村には“惣”って形があった。自分たちで掟を決め、年行司を出して、集まって“評定”をした。年貢の割り方も、揉め事の裁きも、まずは村で決める。侍の支配はあっても、全部が上からじゃなかった」
西嶋がゆっくり頷く。
「すると、今やってることは、昔に戻ってるだけかもしれんな」
羽田は首を横に振った。火が頬を赤くする。
「少し違う。昔の惣は“しがらみ”が堅かった。変化は嫌われ、掟破りは命取りになった。今は“言葉で変えていける”。『違う』と言える余地を作るために、試すがある。保留も置ける。合図も決めた。一打=様子、二打=板前、三打=引け。言ってから動く、動いたら返す。そういう作法だ」
田所が板の見出しをざり、と太く書く。
「宵の板、今日の“やってみる”は三つだ。干し大根の桟を一本増やす。苗床のあったか壺は風下へ寄せる。山道の倒木は明け六つの組でどける。——異論は?」
女たちが顔を見合わせ、うなずきがいくつも動く。若いのが指を上げる。
「借りる欄に“鋸を二本”って書いとく。婆さまの家の柵、直したい」
「貸す欄に“葦簀一枚”。苗床に回して」別の声が続く。
羽田が火を見つめたまま言う。
「協業ってのは、ただの力の貸し借りじゃない。“知恵の助け合い”だ。違いを認めたうえで、物を考える。そうなれば、この村はもう、ただの“村”じゃない。小さな国だ」
輪が静まり、焚き火のはぜる音だけが聞こえる。老人がぽつりとつぶやいた。
「国ちゅうもんが戦と掠め取りでできとるなら、ここはちょっと違う国にしてもええのう。借りたもんは返すで、やっていける」
誰かが笑い、笑いはゆっくり広がった。輪の外でサキが片耳を動かし、火の向こうの暗がりを見張っている。おきよが祠から持ってきた塩をひとつまみ、火のそばに落として手を合わせた。
やがて女たちが子を背に立ち上がり、若い者は明朝の段取りを短く合わせる。
「明け六つは苗床、二打で板前集合」「わかった」
炭の先で、田所が板の“返す”に小さく朱を入れた。
思考が集まり、記憶が板に留まり、言葉が他者に渡る。人はただの“働き手”ではなく、仕組みの一部になっていく。
広場の火は低くなり、空は星を増やした。村は変わりつつある。力を合わせる場から、未来を組み上げる場へ。明日のための言葉が、今日のうちにそろっていった。
宵の実り(拡張稿)
霜月の終わり――。
刈り取りは小さな田から順に始まった。朝の霜が消えるのを待って、鎌の列が畦に沿って動き、束ねた稲が逆さに干し架にかかる。干し場の縄は新しく、杉本が前の年より一本多く桟を渡している。乾いた稲を肩に担いで脱穀小屋へ運べば、ざるが並び、唐箕の試し車が唸り、枡が鳴るたび低い音が土間へ落ちていく。粒は白く、腹がふっくらしている。藁の匂いに、日向の乾きと、ほんの少しの青が混じった。
「上の棚、七俵と二斗」
田所が宵の板に朱で数字を入れ、角を袖で拭った。朱は冷えると乗りが悪い。
「去年は三俵半だったな……倍だ」横井が枡を抱え直し、肩で息をつく。掌の豆がひとつ割れて、米粉が白くついた。
婆さまが指先で米粒をひとつつまみ、歯で軽く噛んで笑う。
「粒が立っておるわい。鍋で踊る米は久しぶりじゃ」
水野は手の甲に一握りの籾殻を受け、鼻先を近づけて長く息を吸う。
「蒸しが浅い。寝かせは短く。虫が寄らないよう、干し場は風下に寄せる」
言いながら、籾殻のうち軽いものを指先で払って、色の差を確かめる。淡い黄金が均一に混ざるのが、彼女の合図だ。
杉本が倉口の格子を撫で、榊原が湯浅印の札を吊って口を封じる。
「借りた水は返した。次は返す倉や。混ぜるな、混ぜ物は別札」榊原が短く言う。札の紐は新しい藁で撚り、節目に朱の点が打たれている。
「中の棚は六俵八斗」
岡島が口を縛った俵を転がし、腰に手を当てて笑った。縛り目の高さが揃うと、荷崩れがない。
「鍬が跳ねなくなってから、畦の端まで根が入ってる。角度板、正解だな」
西嶋は頷き、川音の方向へ耳をやる。小さく落ちる水の音が、乾いた木のように澄んでいる。
「水の道も嘘をつかん。落とし段が効いとる。泥が腹を作るまで、よう辛抱した」
小屋の外では、女たちが藁を選り分け、しめ縄と筵の寸法に切りそろえる。子どもが藁をねじって短い綱を作り、失敗した綱は鶏小屋へ回す。田の隅で与左が初穂の小さな束を祠に供え、おきよが塩をひとつまみ、焚き火の白へ落とした。煙はまっすぐ上がり、風の筋が細く見える。
宵の板の欄は、出るたびに黒が白へ、白が朱へと塗り替わる。
やってみる/貸す/借りるの横に、決める/試す/保留の印。
「干し大根は桟を一本増やす」「芋は粉にして返す先は浜の家筋」「米は二割を備え、残りは塩と替える」――炭の線が静かに増えていった。田所は欄外に小さく「夜返し」と書き、備えの俵へ朱の点を付ける。夜の間だけ倉の口を緩め、空気を入れ替えてまた封じる段取りだ。
昼過ぎ、唐箕の回転が軽くなった。横井が風の口を絞り、岡島が受けの筵を二枚に増やす。
「軽い殻が右へ、良い粒はここへ」
枡が満ちるたび、若いのが声を揃える。
「一枡、二枡、三枡――」
田所が数えを拾い、板に落とす。与左が耳だけで追い、間違いを出さない。数字は声と揃うと、滑らない。
夕刻、風向きが北へ回った。干し場の稲束がかすかに鳴り、倉戸の板が冷え、手のひらに刺す。
「音が変わったな」与左がつぶやく。
羽田がうなずいた。
「音と匂いは山に上がる。外の目も、そろそろ来る」
田所が笑い、朱の筆を置く。
「来るなら来い。口上はできてる。『預かりは湯浅印、話は板前、幕の外で』」
その夜、煙の筋はいつもより多かった。各家の竈と、広場の焚き火と、倉の乾きのための小さな火。火は低く、長く。煙は細く、まっすぐ。サキがその筋を見上げ、片耳を一度だけ動かした。
――
収穫の手は夜にも及んだ。小屋の梁から吊るした油皿の火が揺れ、唐箕の影が壁に回る。水野は籾の含み(湿り)を掌で測り、榊原は虫寄せの籠に杉葉を詰め、倉口の内側に掛けた。
「蒸しの手前。寝かせは三夜、風は弱く。——返すは毎夜」
「返すってのは、空気もやな」西嶋が笑って言い、倉の口をひと手幅開ける。「入れすぎると冷える。指一本でええ」
数えの合間に、婆さまが祝い飯を小さな鍋でこしらえた。米は少し、粟を一つまみ。塩をひとつまみ。
「鍋が鳴いたら火を落とすんや」
炊きあがりを待つ間、女たちは話す。
「去年、雨で寝てしまった苗が今年は立った。水が違うと、こうも違うんかねえ」
「灰のふるい方も覚えたで。一に薄く、二に散る。撒きすぎると根が怒るんやと」
笑いに混じって、覚えた手の名が自然と出てくる。落とし段、あったか壺、角度板、宵の板――道具の名は、すでに暮らしの名になっている。
「下の棚、五俵と六斗」
若いのが声を張る。
「藁は牛屋へ半分、残りは縄に回す」杉本が受ける。藁は倉の壁でもある。隙間を埋め、湿りを吸う。
「藁灰は苗床へ。冬のうちに壺の土に混ぜる」水野が続けた。
宵の板に、田所がもうひとつの行を足した。
「塩の口、明け六つに開ける。二打で集合。米は二割備え、一割手土産。塩の替えは幕の外で」
与左が筆先で朱を整え、印を一点、静かに打つ。
「朱は借り、墨は稼ぎ。間違えるなよ」
若いのが「はい」と短く返す。短い返事は、斧の音のように小屋に響いた。
夜更け、唐箕の音が止むと、耳に急に静けさが入る。皆の呼吸が白く、天井の煤に柔らかく消えた。羽田は枡の縁を指でなぞり、枡目の角が摩耗しているのに気づく。
「角が丸い。よく使った印だ」
榊原が頷き、枡の底をふっと叩いた。
「丸い角は、嘘をつかん。今年の分だけ、丸くなる」
外では風が山から降りてきて、干し場の束が一度だけ大きく鳴った。サキが顔を上げ、暗がりに目を細める。遠くで梟が鳴く。誰も立ち上がらない。合図は決めてある。一打=様子、二打=板前、三打=引け。音がなければ、動かない。それがこの村の作法だ。
やがて、祝い飯がほどよく鳴いた。婆さまが火から下ろし、蓋の間から立つ湯気を指さす。
「ほれ、踊っとる」
一椀ずつ回す間、誰も多くは語らない。手の中の重みと、唇に当たる湯の温みと、米が舌の上でほどける感触だけが、確かな言葉のように村を満たした。
宵の板は、火の白に照らされて朱と墨の色が深い。
やってみるの欄に、誰かが小さく書き足した。
「米袋、背負い紐を柔らかく」
岡島がそれを見て、にやりとした。
「人の体も道具のうち、だな」
最後の枡を計り、倉の口を封じると、田所が板の返すの欄へ小さく印を入れた。
「返す先は、まず村の腹や。外へ出す分は、明け六つに決める」
与左が「よし」と小さく言い、杖で土間を一度だけ打つ。これで今夜は終いだ。
村の上に、星が増えた。煙の筋は細くなり、冷えが少し強くなる。
音と匂いは、山に上がる。外の目も、そろそろ来る。
けれど、この夜だけは、数えと札と笑いが倉の壁を厚くした。
粒は白く、腹がふっくらしている。
明日のための朱と墨が、宵のうちにきちんと並んだ。