④地形を見る目
掲示板が立って一晩。板前に残した前回の計測と三日見の記録を携え、翌朝――
まだ朝靄の残る谷の奥、木々に囲まれた窪地に、西嶋と杉本、榊原、それに数人の村人が集まっていた。谷は左右が低い尾根で締まり、足元は踏むとじわり水が上がる。
西嶋は三本の竹を結んだ三脚に横棒を渡し、前に使った水盛りの竹筒を括りつけた。筒の水面が、そのまま水平を教える。
「白い布、杭の先に。——板の白札の測点と揃えるで」
布が風に小さく鳴る。西嶋は竹筒をのぞき、声を飛ばした。
「もう少し上げろ……止まれ。——ここから二尺、落ちとる」
「また測っとるんか」「肩を当てたのと何が違うんや」と村人がひそひそやる。
西嶋が振り返る。
この前は取水の肩を拾った。きょうは谷を通しで見る。借り口と返し口の段取りをつける
鍬の柄で足元の湿りを指した。
「見て回って、いちばん柔いのがここ。両脇は自然の肩で締まっとる。ここを低い堤にすれば、谷全体が小さい水がめになる」
杉本が前へ出て、掌で土を叩きながら言った。
「造りはこうや。まず真ん中に芯土を通す。両側から胴込めして、法面は掌で叩いて締める。石は角の立ったやつを選べ。上面は上、顔は外に向ける。底樋はここ、栗で枠を組んで板樋を通す。重ね目には粘土を噛ませる。余水吐はあの肩に浅く切る。腹が張っても先に逃げる口があれば、堤は切れねえ」
「でもよ、そんなんで水、止まるのか」と一人が不安を吐く。
杉本は拾った締まり石を指で弾き、乾いた音を聞かせた。
「完璧には止めねえ。けど、すぐには漏れねえ。溜まれば泥が沈む。その泥が目を詰める。時間が締めてくれる。脇には逃げ水を一本、谷下へ通しとく。雨で腹が張ったら、先にそっちで受ける」
「……道具と理屈で、土の見え方が変わるんやな」誰かがぽつりと言う。
西嶋は地面に棒で図を描いた。谷の断面、堤の形、底樋の筋、余水吐の口、逃げ水の矢印。
「昔の田も、こうやって水を引いとったはずや。ただ真似だけやと続かん。なぜそうするかを形にして板に残す。人が代わっても、田は残る」
榊原が短くうなずいた。
「寸法は拳二つを基準に切る。底樋の口は指二本上げとく。合図はいつも通り——一打=様子、二打=板前、三打=引け。迷ったら試すへ倒す」
西嶋が水盛りの竹筒をそっと叩く。水面がきらりと揺れた。
「音が半音で落ち着いとる。前の肩当てと筋が合う。——ここで決める」
肩がいくつも軽くなる。田所は「栗の運びは俺が押さえる」と笑い、岡島は「杭の治具こっちで作る」と頷き、横井は「吐きの口、流れ付け確認する」と棒を肩に担いだ。祠の方角では、おきよが草の輪をひとつ結び、禁足の印を新しく置いている。
「借りた水は返す。止めないで使う。それが約束や」
西嶋の言葉に「おう」が重なった。靄がほどけ、白い布の印が陽を拾う。測量杭の列は、谷の未来をまっすぐに指していた。
鉄と木の知恵
作業場には木屑と鉄の匂いが満ち、炭の赤が静かに息をしていた。岡島と横井は言葉少なに手を動かす。台には鍬と鋤の試しが幾本も並び、刃の角度と柄の長さが一本ごとに違っている。奥では榊原が小さな帳面と木札、丸い刻印を脇に置き、砥石と鑢で刃先を撫でては目を細めていた。
「刃は……五度、寝かせる」
岡島が接合の肩を覗き込み、薄く当て金を叩いた。
「土に入る角が浅いと弾かれる。ここなら、入る流れが素直になる」
「柄は二寸、伸ばす」
横井が白墨で印を引く。
「背の高いのでも、腰を折らずに振れるように」
赤に焙られた鋼は藁色に変わる。横井が火箸で縁を締め、榊原が横から色を見た。
「その色で止める。硬さはここ。——焼き戻し、油に半呼吸遅らせて落とす」
横井がうなずき、油面が静かに揺れた。
榊原は砥石に軽く当て、爪で触れ、鑢を引いて音を聞く。
「刃角は三十五の手前。腰は四十を超えない。柄は肘から拳一つ半。——基準を外すな」
言い終えると、柄尻の木札に「水・畦」の朱を入れ、金床の上で小さく刻印を打った。小さな湯浅の印が、柄の根にひとつ浮かぶ。
焼き戻し、研ぎ、組み付け。町場の工房ほどの道具はないが、回数で精度を積む。
「……これで三十を越えたな」
「まだ先がある」
岡島が刃を拭い、角度板の刻みを指先で確かめた。
若い村人が一本を手に取り、ためらいがちに地面を打った。乾いた音がして、土がきれいに割れた。二度、三度。刃は跳ね返らず、腕も震えない。
「……なんだこれ。土が“割れる”。腕が痛くねえ」
周りの視線が集まる。男は刃の腹を恐る恐る撫でた。
「鉄に……魔法でもかけたのか」
岡島は笑い、木槌を腰へ下ろした。
「魔法なんて無いよ。形を変えて、壊して、また叩いて……少しずつ“手に合う”ところに寄せてるだけだ」
横井が肩をすくめた。
「鍬が軽くなったわけじゃねえ。力の通り道が素直になった。人が道具を変えたんじゃない。“人と道具の関係”を変えたんだ」
榊原は男に木札を渡した。
「これは作業札。刃を土で鈍らせたら、砥石で十手、油で一呼吸。刻印の番号はここ。——返す場所は板前。貸し借りは札で数える」
男は無言で頷き、札の朱を見てから柄を握り直した。その手つきは、借り物に触れる手ではなく、これから一緒に作っていく者の手だった。
外では棒が一打鳴り、谷から風がひと筋通った。鉄と木の仕事は、少しずつ村の力へと変わりはじめていた。
宵の火が落ちかけ、鉄と木の音がまだ掌に残っている刻。
板の前に輪ができ、田所が短く言った。
「道具が揃いはじめた。ほな“口”を置こか。火の口、刃の口、印の口――ばらけさせんための**頭**や」
宵の板には「鍛冶・木工・干し場・土木・畑」と五つの欄。湯気の残る味噌椀の横に白石と黒石が載っている。
「鍛冶の頭は誰にする?」
横から西嶋が言葉を添える。「刃の角度と刻印の型、基準を崩さん者がええ」
輪が自然と榊原の背に寄った。鉄粉のついた指先で、彼は一度だけ額を撫でる。
「火は、気分で焚くと嘘をつく。刃も印も“同じ”を積まな土台にならん。……もし預からせてもろたら、**基準**は俺が守る」
田所が「ほな、石で決めよか」と皿を差し出す。
白が賛、黒が見送り。石は音を立てずに落ち、皿の底で静かに集まった。白が多い。与左が杖で地を一度鳴らす。
「鍛冶の頭、榊原でいく」
榊原は深く礼をした。「火と刃の口入れ、型と秤は俺が見る。印は湯浅印の横に**鍛**一字。違うたら、容赦せん」
杉本が笑って肩を叩く。「倉口は俺が合わせる。干し場の重さは相場板に写す」
横井が頷いた。「土の道は俺。落とし段と水門の開け閉めは合図で動かす」
田所が朱で板の端に小さく書き足した。
「役付:鍛冶=榊原/木工=杉本/土木=横井/干し場=水野/畑=岡島。――座は一年、替えは宵の板で」
火の赤が弱まり、鈴のような夜風が庇を抜けた。役が立ち、道具の音に秩序が宿った。
山の縁にて――一匹の影(田所版)
鍬の試打が済むと、収穫物と水路を守るための見回りに人手を回した。畦は立ち、条は通い、あとは冬越えの備えだ。
羽田、西嶋、田所の三人が、村はずれの山の縁を歩く。目当ては獣の通り道と、越冬の巣の気配。
「崖の縁、土の返しが新しい。蹄が重なっとる」西嶋が草を払って跡をなぞる。
「罠は散らすぞ。一カ所に固めると、まとめて読まれる」田所が縄を肩に回し、笑う。「合図はいつも通り、一打=様子、二打=板前、三打=引け。急げば転ぶ」
冷えた風が抜け、頬がきゅっと縮む。羽田が足を止めた。
「……気配がある」
西嶋が顎で指す。斜面の向こう、岩陰に影がひとつ。野犬だった。片耳が裂け、毛並みは荒れているが、脚は立ち、目は澄んでいる。焚き火の残り香を辿ってきたのか、じっとこちらを見る。
「港の犬より目が澄んどるな」田所が低く言って、口角だけ動かす。「腹は減っとる顔や」
羽田は腰を落とし、目を合わせずに干し肉を取り出して地面に置く。背を向けて立ち上がった。
西嶋が小声で念を押す。「近づかんでええ。通りを塞がんのが礼儀や」
田所は半歩だけ横に出て、影に向かってぼそりと独り言めかす。
「おい、耳の兄弟。通行税はいらん。ただし畦は崩すな。こっちは夜は返すのが掟や。——腹が減っとるなら、そこに置いた分で手打ちや」
野犬は瞬きもせず、鼻先だけがわずかに動いた。
「どれくらい見る?」羽田が問う。
「三夜」西嶋が応える。「山は通りで覚える。無理に囲えば、田へ返って荒れる」
その夜、野犬は焚き火から十五歩のところに座った。手は出さない。近づきもしない。ただ火を見る。羽田が小枝をくべると、田所が焚き火越しにぽつり。
「お前、見張りは得意そうやな。夜番ひとり分、干し肉一枚で雇えんか」
返事はない。影は火の揺れに合わせて耳を一度だけ動かした。
西嶋は風上を見て、畦を渡るように杭を一本打つ。
「逃げは先に作る。人も獣も同じや」
田所が縄の端を結び直し、軽く引く。
「道は貸したら返す。山とも取引や」
羽田は影から目を外さずに言った。
「見て考えてる。どちら側につくか」
風が草を鳴らし、火が低く揺れた。野生と人が交わるには、まだ幾夜かかる。けれど、待つ段取りを知っている者たちの火は、簡単には消えなかった。
山影の狩り
薄曇りの朝――
村の裏山の麓。落ち葉を踏みしめながら、西嶋と田所、それに若い村人たちが獣道に沿って罠を散らしていた。縄の輪は浅く、口は細く、通りを塞がない。
羽田の視線がふいに森の奥で止まる。
「来てるな」
木の陰から現れたのは、あの野犬――片耳の裂けた一匹。もう逃げる素振りはない。だが誰にも触れさせず、餌も受け取らない。
若い者がつぶやく。
「また来た……」
羽田は首を横に振る。
「違う。あいつは“犬”じゃない。——山を知ってる“猟師”だ」
野犬が鼻を鳴らし、尾根のほうへ顔を向ける。そして、無言でこちらを見る。合図はそれだけだった。
「匂いを拾ったな」西嶋が低く言い、指で短く合図する。「風下を回る。声は出すな」
羽田は槍を取り、田所は縄と棒を肩に回す。若い二人が左右に散る。野犬の導くまま、尾根を斜めに登った。斜面の裏、倒木の陰に、黒い塊が潜んでいる。
「……いた」
土の返しが新しく、鼻息が浅く荒い。大きなイノシシだ。
田所が口角だけ上げて、影に向かってぼそり。
「おい、耳の兄弟。手柄は折半だ。畦は壊すな——それで手打ち」
野犬がふっと消え、次の瞬間には背の林で位置を変えていた。声も出さず、足音も見せず、背後から脇腹へ噛みつく。
「今だ」
西嶋が短く放ち、羽田が脇へ槍を入れる。若い者が横から脚を払った。田所は倒木を梃子にして体を当て、逃げの筋を塞ぐ。
一瞬、土と落葉が舞い、牙が鈍く光った。次の呼吸には、獲物は土に沈んでいた。
「……やるな」羽田が息を整え、視線だけで礼を送る。
野犬はもう距離を取っていた。満足したように獲物を一瞥し、山へ返ろうとする。
田所が焚き木の束を解きながら言う。
「火を起こす。あいつが戻れる場所を作っとく」
西嶋が頷く。
「戦じゃない。狩りや。獲ったら分ける」
その晩、焚き火のそばに骨の残りと干し肉が置かれた。火は低く、煙は風下へ逃がす。
明け方の光が差すころ、野犬はまた静かに現れ、十五歩のところに身を落とした。目は閉じず、警戒も解かない。
羽田が小枝を一本、火へ渡す。
「まだ腹は決めちゃいない。」
田所が火越しにぼそり。
「夜番ひとり分、干し肉一枚。悪くない取り引きやろ」
返事はない。片耳だけが、火の揺れに合わせて一度動いた。
風が草を鳴らし、火が小さく息をつく。
その姿は、もう「敵」ではなかった。
冬の入り口。北風が山の木々を鳴らす頃――
片耳の裂けた野犬は、もはや「野のもの」だけではなくなっていた。夜の見回りのように村はずれを歩き、雪の気配が濃い林道の先では、獣の足跡に低く唸りを上げる。子が泣けば茂みから顔を出し、女たちが薪を背に山を下りるときは、尾を下げてその後ろを歩いた。
かつては「山のもの」として怖れられた影。それがいまは、誰もがその姿を探し、吠え声を合図のように耳を澄ますようになっていた。
それでも、正式に「飼う」ことはしない。ここでは犬は境に生き、山と里とのあわいを歩くものとされてきた。紀伊の山間では、狼や山犬を神の使いとする気持ちも根強く、むやみに手なずければ祟りを招くとも言い伝える。だが、人と獣のあいだに、言葉のない信が生まれることを、誰も否定はしなかった。
ある晩のこと――
雪がちらつく夕刻、焚き火の輪に、あの一匹がひとりで現れた。何かを告げるように、人の輪の外に立つ。羽田が目を細め、西嶋が手を止めた。
おきよが祠の塩をひとつまみ、火のほうへそっと落とす。
そして、村年寄の与左が無言で腰を上げ、干し肉を前に置いた。
「……この者は里の側に降りた。山の精やない。もう祟りはせん」
羽田が静かに問う。
「名をつけて、呼んでいいですか」
周りがわずかにざわつく。名は力だ。呼び名は境を動かす。
与左は小さく笑ってうなずいた。
「なら、その耳の裂け目を“印”にせい。呼び名としてやれ」
その場で決まった名は「サキ」。裂けを指す音であり、いつかの「咲き」を連れてくる響きでもあった。
サキは何も応えない。ただ干し肉をひと口くわえ、焚き火のそばに静かに身を伏せた。人の話し声と子の笑いに囲まれながら――はじめて、眠るように目を閉じた。
それが、彼が「仲間」になった夜だった。