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③村の案内と、思い出されるアフリカの記憶

焚き火の腰が落ち、灰の下で赤が静かに呼吸している。東が白み、葦の先に露が光った。板の上では、昨夜の線に朝の影が重なる。


田所が短く言った。

「明け六つ、朝の版いくで。……羽田、回してみるか?」


羽田はうなずいた。

「きょうは水を先に決めます。白が決める、木片が試す、黒が保留。置いたらすぐ段取りに落とします」


そのとき、砂をことりと叩く音が三度。寄り合いの作法どおり、杖で地を鳴らしてから、低い声が落ちる。

「御免」

与左が朝の匂いを連れて輪へ入り、板の端に立った。羽田は下辺に「揃える」「数える」「確かめる」の横へ小さく「返す」と朱を添え、顔を上げる。

「きょうの名義は板の端に朱で記し、与左さんにご確認を。異議は?」

与左が「ない」と短く答えた。


三人は露をはじく葦を分け、川音の芯へ入った。川には、流れが締まって筋が立つ肩がある。そこを探すのが手始めだ。音で速さを聞き、足で底の沈みを量り、小枝を落として回りの癖を見る。音が澄みすぎれば速すぎ、濁れば力が抜ける。沈みが柔らかすぎると岸を噛む。渦が強すぎれば水が暴れる。


横井が棒で底を探り、西嶋が肩の線を目で追い、羽田は対岸へ水糸を渡す。糸のわずかな勾配が、目に見えない高低差を浮かび上がらせた。

「音が軽い。右が勝っとるな」西嶋が言う。

羽田は靴底で沈みを測り、足の下で生まれる小さな回りの強さを確かめた。ここで欲しいのは、水の勢いは殺さずに拳ひとつ弱の頭だけをつくる場所だ。臼や唐箕やふいごを回すのに、その半歩ぶんで足りる。落ちる水は空気を抱き込み、匂いを押し出し、濁りを沈める。大きく塞がないから背水は広がらず、脇には自然な逃げ筋と魚の通りも残る。


横井が小枝を一片、流れに置く。枝は肩で一瞬ためらい、ゆっくり身を返して滑り落ちた。

「ここや」


二本の杭が打たれ、糸が張り替わる。横井は竹尺を水面に立て、泡の切れ目を読む。

「拳ひとつ弱」

「足しすぎん」西嶋が川底から舌石を拾い、舌の先へ浅く据える。羽田が角を合わせ、二つ三つ置くだけにとどめた。水はそこで舌を出し、すぐに飲み込む。音が半音だけ落ちる。羽田は葉を一枚流し、回りの筋が穏やかに変わったのを確かめる。岸を一歩踏んでも泥の匂いは立たない。

「岸、噛まん」西嶋が頷く。

「これで“試す”へ」羽田が木片を板の「水」に置いた。


日が高くなる前に、三人は下流へ歩いた。肩から二町ほど下ったところで、田の用水口に人影が見えた。四、五人が畦に集まり、こちらを待っていた。


「上で石を置いたと聞いた」年嵩の男が言った。

「水が細ると、うちの田が持たん」


西嶋が穏やかにうなずく。

「塞いではおらん。頭を拳ひとつ弱、借りるだけや。夕に洗って夜は返す。昼間の筋は見せる」


羽田は瓢から水をすくい、用水口の縁に垂らした。沈みの速さを目で追い、葉を落として渦を見せる。

「ここで細ったら、すぐ戻します。棒の二打で板前に集まる。きょうは“試す”。札は赤を足して『夕入れ・夜返し』、時間は申の刻にもう一度合わせる。見張りは交代で一人、用水の口に立つ。合図は聞こえる」


若い女が、濡れた裾を絞りながら言った。

「魚が上がれなくなるのはこわい」

横井が肩口で微笑む。

「舌は浅い。魚の筋は残してある。枝を落としてみるか」

小枝は肩の脇を抜け、早瀬から緩みへと滑った。年嵩の男が腕を組み、短くうなずく。

「見させてもろた。申の刻に、もう一度ここで見る」


昼前、風が変わった。西から熱が混じり、光が硬くなる。舌の際に濁りが一筋、薄く立った。横井が棒で底を触れ、指を上げる。

「砂が走る」

「足しすぎか」西嶋が舌の石をひとつ、半身ぶん戻した。音がわずかに軽くなり、濁りが消える。

「半音戻す」羽田が言い、水糸のたわみを直す。印の小枝を新しく差した。


日が頂を越すころ、下流の田の水面が少し低く見えた。見張りの若者が走ってきて、息を弾ませながら言う。

「口が浅うなっとるようです」

三人はすぐに下った。用水口の苔が乾きかけの色をしていた。羽田は足で畦を踏み、沈みを確かめる。

「風で戻されてる。肩の上で舌をかすめるだけに」

西嶋が二打、棒を鳴らす。与左と田所が板前から走ってきた。田所が短く問う。

「戻すか」

「半分だけ」横井が答え、舌石を指でずらす。羽田が葉を落とし、苔の色を見やる。水面が指一節ぶん戻った。若者が肩の力を抜く。

「持ち直した」


午後、潮が上がりはじめた。川口の匂いに塩が混じる。西嶋が舌の位置から一間上を指した。

「ここより下は、満ちで味が変わる。夕の洗いは上の肩の水だけでやる」

「塩が上がる筋は避ける」羽田が板の札文句を口に整え、与左に視線を送る。

与左が杖で土を三度叩いた。

「板の端に書く。夕入れ・夜返し。塩の刻は避ける」


申の刻、朝に約した用水口へ戻る。年嵩の男と若い女、それに二人が畦に並ぶ。羽田は瓢の水で縁を濡らし、葉を三枚流した。葉は朝と同じ筋で滑り、渦も暴れない。

「どう見る」西嶋が問う。

男は腕を解き、肩で息をついた。

「きょうのぶんは足りる。夜に返すなら、明日も試してええ」


そのとき、上手の斜面で小さく崩れる音がした。葦の根が抜け、砂が舌へ寄る。横井が駆け、束ねた葦を二把沈める。西嶋が小束杭を打って溝の走りを殺す。砂の筋が止まり、音が元の半音へ戻る。

「このくらいの手当てで済むなら、長う持つ」横井が汗を拭いた。


日が傾き、光が柔らかくなる。夕風は塩をわずかに含み、川の息がふっと深くなる。羽田は水糸を外し、舌の上と脇に置いた印の小石を撫でて覚えた。

「夜は返す。風が変われば、三打で引く」

下流の面々がうなずく。若い女がほっと息を漏らした。

「魚も通っとる。ありがと」


暮れ六つ前、板前に火が灯る。棒の音が二度鳴り、人が寄る。羽田は「水」の欄の木片を上げ、白石へ指をかけたが、いったん止めた。西嶋を見、横井を見、与左へ目で問う。与左がうなずく。

「きょうの“試す”は、見えた」

羽田は白石を静かに滑らせた。

「水は決定。夕入れ・夜返し、塩の刻は避ける。舌は浅く、魚の筋を残す。下流の見張り一名、申の刻に合図を合わせる。濁りが立ったら半音戻す」


田所が短く言う。

「異議」

畦で会った男が、一歩だけ前に出た。

「三日見たい。白石はこのままでよいが、札に『三日見』を足してくれ」

羽田は笑ってうなずいた。

「了解。三日見。——“稼ぎは止めず、水は返す”。その間、板の端に色を置く。良ければ白を残す。悪ければ木片へ戻す」


与左が朱で「三日見」と記し、杖をことりと鳴らした。火の腰が落ち、夜の匂いが川から上がってくる。点は一日の光で結ばれ、線は面へ向かう前に、静かに息を整えていた。




夜は合図なく過ぎ、舌は息を保った。——三日見の初日、明け六つ過ぎ。

羽田隼人はまだ鈍く重たい体を引きずるようにして、村の外れにある畑地を歩いていた。

案内役は、西嶋与一と水野さつき。

ふたりに挟まれるようにして、整備中の細い畦道を進んでいく。

「今のこの村にとって、いちばんの課題は食い扶持だ」

西嶋が、手前の畑を指しながら言う。

「水源は確保したが、土の力が弱い。雨が降るとすぐ流れてしまう」

畑の奥では、榊原清太と村人たちが木製の鍬を手に、力強く田を耕している。

傍らでは岡島一真が修理した土ふるいを使い、粘土と砂を分けていた。

羽田がふと呟く。

「このあたり……海が近い分、塩も入ってるんじゃないか?」

西嶋が目を細め、静かにうなずいた。

「……察しが早いな。そう、土の下層に塩分が残っている箇所があってな。芽が出ても途中で萎れることがある」

水野も口を開く。

「だから、畑は高畝にして排水性を上げてるの。炭を混ぜて土壌改良もしてるけど……まだ限界がある」

羽田は立ち止まり、しゃがみこんで、掌で土をすくった。

ぬるりとした粘り気。

鼻を寄せると、発酵の香りに微かにアンモニアの匂いが混じっていた。

その瞬間――

脳裏にひとりの男の顔がよみがえる。

(……あのとき、モザンビークで農業支援してた清田が言ってたな。

“痩せた土地でも、家畜の糞と灰、発酵した落ち葉を混ぜて2〜3週間寝かせれば、肥えた腐葉土に化ける”って……)

過酷な乾季の村。赤土の大地に、たしかに“命の土”がよみがえった光景が、記憶の奥で脈を打つ。

「なあ、水野さん。家畜って、いまどのくらいいる?」

「ニワトリが数羽。あとは村人がヤギを時々貸してくれる。糞も一緒にもらってるわ」

羽田はふっと頷く。

あのとき自分は、現地の村に家畜小屋を作り変え、堆肥ボックスを設置したのだった。

“死んだ土”に、わずかに残った命を増幅させる、根気のいる技だった。

「……炭と落ち葉、それにヤギの糞と米ぬかがあれば……。少しだけ、発酵促進型の混合肥料を仕込めるかもしれない」

「混合肥料?」

水野が目を丸くする。

「うん。中東じゃなく、アフリカでの話だ。

昔、うちの会社が支援してた村があってな。そこの同僚が、腐葉土づくりを任されてた。

発酵中に温度が上がって、悪い菌が死んで、良い菌だけが残るって言ってたな」

水野の瞳がきらりと光る。

「……それ、いけるかも。

私、窒素とカリウムのバランスばかり見てたけど、有機層を“寝かせる時間”までは計算してなかった。

やれる。こっちでも堆肥、ちゃんと作れる」

西嶋がしばらく無言で頷き、静かに言う。

「なるほどな……。羽田、お前まだ本調子じゃないかもしれんが、こういう知見は貴重だ。

今は“食える”ことが何よりの価値だ」

羽田はゆっくりと立ち上がり、畑の先に広がる未開墾の地を見渡した。

陽の光を浴びて、湿った大地がわずかに湯気を立てている。

その向こう、海辺の水平線に、雑賀の小舟がぽつんと影を落としていた。

「……生活の確保が先。外とつながるのは、そのあとだな」

誰にともなく、あるいは自分に言い聞かせるように、羽田が呟く。

その言葉に、水野がほっとしたように笑った。

「よかった。羽田さん、最初からビジネスの話し始めるかと思った」

「こんな土の上で、契約書なんか書けるかよ」

三人が笑ったとき、朝の風が畑を吹き抜けていった。

あの日、遠いアフリカの村で見た“発芽の奇跡”が――

いま、この土地でも静かに芽吹こうとしていた。


【芽吹きの予兆】


それから数日――

村の奥まった一角。かつて焼畑に使われ、そのまま放置されていた窪地に、羽田隼人は両手を腰に当てながら立っていた。

炭、落ち葉、藁、そしてヤギの糞に米ぬか。

積み上げられたその山は、かつての農書にもない“混合型堆肥”の試みだった。

「ここに“混ぜて重ねて、寝かせて、寝かせて、また寝かせる”。それだけだ。匂いがきつくなったら、上から土を薄くかければいい」

羽田の声に応じて、榊原清太と岡島一真が、手にした鍬で堆肥の材料を無言でかき混ぜる。

「……こんなもんで、本当に土が良くなるのか?」

岡島が眉をひそめた。

「なる。少なくとも、アフリカの乾いた農村では結果が出ていた。人の手で作る肥料ってやつだ」

羽田の即答に、榊原がふっと笑う。

「……中東じゃもっとスマートにやってるのかと思ってたが、これはまるで田舎の婆さんの知恵だな」

「結局な。ローテクが最強なんだよ。電気も機械もなしで回せる」

現代の発酵管理はセンサーや空調を使うが、ここでは土と火と手の感覚だけが頼り。

羽田は膝をつき、自ら素手で堆肥の山をかき混ぜ始める。

「温度は手のひら、匂いは鼻で判断する。手間はかかるが、慣れれば分かるようになる」

周囲には、物珍しげに村の若者たちが集まり始めていた。

「これ……触っても大丈夫なのか?」

「時間が経てば発酵で温かくなる。素手でも平気だが、肌が弱けりゃかぶれることもある。手拭いで口を覆え。……水野さん、石灰は?」

水野さつきが壺を手に現れる。

「昨日焼いた貝殻、ちゃんと粉にしておいた。湿らせたら熱も出てきたわよ」

「よし、混ぜてくれ。酸度調整にもなる」

当時の農村では、草木灰や糞尿を撒く“刈敷き”や“下肥”が主流であり、長期間かけて発酵させる方法は一部の寺社農法や武家領地でのみ行われていた。

だが、この堆肥は数週間で使える。水分と炭素、窒素のバランスを取ることで、土の再生が加速される。

そんな中、村人のひとりがぽつりと漏らす。

「……これが“商人の技術”ってやつか?」

羽田は笑わなかった。

真剣なまなざしで空を見上げて、少し間を置いてから答える。

「違う。これは“生き延びるための段取り”だ。まず、食えるようにならなきゃ……商いなんて夢のまた夢だ」

農村では、収穫のたびに神に感謝を捧げ、初穂を神前に供える“初穂祭”が営まれていた。

だが羽田は、信仰ではなく、論理と循環の再構築でこの地の命をつなごうとしていた。

その言葉に、西嶋与一が少し離れたところで黙って頷いた。

静かに、しかし確かに。

この窪地で――“次の時代の芽”が、発酵を始めていた。



三日見の札は白に替わり、夕入れ・夜返しはそのまま続いた。舌は浅く、音は半音で保たれた。川の匂いから鉄っぽさが抜け、用水口の苔の線がいつも同じ高さで落ち着く。田の溝に気泡が立ち、薄い銀色の筋を小魚がさっと上がっていく。止めない水が、土の腹にゆっくり息を送っていた。


季節がめぐり、風が少しだけぬるくなった頃――

堆肥を混ぜ込んだ畑に、緑の命が息づきはじめていた。高畝の肩で水は一度だけ光り、夜には静かに逃げる。朝の田にはもう、腐れの匂いがない。


青く伸びる苗たち。

かつて黄ばんで寝ていた田に、まっすぐ立つ稲の姿が、陽光のなかできらめく。


「見てくださいよ、羽田さん……。葉が、ちゃんと立ってます」

杉本修司がしゃがみ込み、泥の手で苗をそっとなぞった。普段は寡黙な男が思わず声を漏らす。

「……前は雨のたびに根が腐って寝てたのに。信じられねえ」


羽田は静かに笑みを浮かべ、隣を見る。水野さつきが膝をつき、指先で根の張りを確かめていた。

「……深く、まっすぐ伸びてる。水が軽くなったぶん、根が息できてる。これは成功でいいと思う」


少し離れて、西嶋与一が腕を組んだ。

「最初の田、よう“根づいた”。でも気は抜かん。あと二十日は水と日照を細かく見る。気温がぶれると虫がつく」


皆がうなずく。水面は薄く澄み、風が通るたびに光が細かく崩れる。下流の男は癖で苔の線を確かめに来るが、今は見るたびに笑って帰る。三日見の合図は外れ、板の端には白石だけが残った。


収穫にはまだ早い――それでも、この小さな畑の手応えが、村の“命”の可能性を開いたと、誰もが感じていた。海の近い田は、塩と流亡に振られて三、四俵に届かない年もある。だが今年は、田一枚で七俵を越す見立てが立った。老人たちでさえ、口をつぐんで頷くしかない。


──そして、初の収穫の日。

広場には、脱穀したばかりの白い米がざるに盛られ、干し野菜の束とふかした芋の山が、誇らしげに並ぶ。水は最後まで匂いを持たず、米のとぎ汁もすぐ澄んだ。夕べの口は閉じ、夜にはきれいに返してある。


「……初穂の清めは?」

誰かが言いかけると、水野がさりげなく応じた。

「これが、この村の“新しい神事”ってことで」


火を囲んで、羽田は静かに腰を下ろす。湯気の立つ飯椀を両手で包み、口へ運ぶ。

ほろり、と米が舌の上でほどけた。炊きたての湯気の奥に、どこか懐かしい香りがある。家族で囲んだ食卓の記憶や、遠い村で分け合った一杯の主食が、淡く重なってくる。けれど、それだけではない。

この味には、“先”がある。まだ知らぬ未来の味が、確かにここに芽を出している。


羽田は何も言わず、二口目を運んだ。火の向こうで、水野が芋を割って子どもたちに分け、西嶋が笑いながら飯を頬張る。かつて米は貢租の象徴で、年貢の年は口を噤んで“七分作”とごまかすのが常だった。だがこの米は、誰にも持っていかれない。ここで、自分たちの手で、命のためだけに育てた米だ。


夕風が通り、水面の光が一度だけ揺れた。

止めない水、返す水。

一杯の熱と重みが、静かに村を変えはじめていた。

ひとつの始まりが、そこにあった。




小雨の名残が土間にしみ、藁がほのかに温い匂いを立てていた。掘っ立て小屋の壁際には長机、粗い地図とスケッチが広げられ、端に置いた石が紙の角を押さえている。三日見の札が白で固まってから三日、用水の音は相変わらず半音で息を保っていた。


西嶋与一が手製の巻尺を握り、静かに言う。

「田んぼだけやない。水路の位置も、苗の仕込みも、全部変わるぞ。……本当にやれるんか」


田所誠一が口の端で笑う。

「やるしかねえ。今のままじゃ来年も飯が足りねえ。苗づくりからひっくり返す」


水野さつきは籾殻袋から粒を取り、掌で転がした。

「この辺り、直播きが多い。種をそのまま田に撒くやり方。発芽がばらつくし、雑草に負ける。土が痩せた所は、収穫まで持たない」


「だから苗代だ」羽田隼人がうなずく。

「育ててから移す。水の管理がしやすい」


西嶋の眉がわずかに寄る。

「人手が足りんのに、手間ばっか増えんか」


羽田は小さく折ったノートを開いた。手描きの棚の線、寸法の走り、矢印。

「チャドの南、乾季の村でやった。高床の苗代で雨の前に苗を用意して、水の来る順番を人が決める。少ない手で大きく効かせるには、段取りを組み替えるしかなかった」


水野が地図に指を置く。

「“省力化”って言葉より、こっちは手戻りを出さない工程。やることを減らすんじゃなく、迷いを減らす」


田所が別の紙を引き寄せる。葦簀を載せた枠組み、浅い箱のような苗代、畦の上を走る五本の筋。

「床を上げた苗代と、五条植え。条の間は手のひら一枚。苗代の水は指二本で保つ。夕の水で湿らせ、夜は返す。うまく回れば一〜二割増し、筋と草取りが揃えば倍も見える。……問題は、村の腹をどう決めさせるかや」


西嶋がため息をひとつ。

「“今までと違う”が一番の敵やからな」


羽田は笑って肩をすくめた。

「どこも同じだった。けど、一枚だけ当てた田が出ると、隣が真似る。人は結果に素直だ」


短い沈黙。雨の粒が屋根を二度叩き、遠くで棒が一打鳴った。


水野が一歩出る。

「見せましょう。ここから畦一本ぶんの未来を作る」


田所が指を折っていく。

「段取り、置く。——実証区は川寄りの田一枚の上段。苗代は祠の影の端、風の口を避ける。材は丸太四本と葦簀二枚、縄三把。土は杉本に頼んで細かくふるう。今日の夕で苗代を湿らせて、明朝に播く。水番は赤札を一枚足して『夕入れ・夜返し』固定。葉が三枚揃ったら条へ移植や」


横井の名が地図の端に朱で入る。西嶋が巻尺を伸ばし、畦の筋に五本の線を引いた。

「五条はここからここ。条の隙間は掌一枚。水は肩から細い筋だけ落とす。濁りが立ったら半音戻す。魚の筋は残す」


水野が籾を見つめる。

「混ぜ物は低く広く。三日目と七日目で返す。匂いが甘さ→蒸しに変わったら返す合図。魚は薄く、海藻は一度洗う。手に残るぬめりが薄くなったら薄く撒く」


西嶋が小屋の戸口に目をやった。外は小雨。

「説得はどうする」


田所がニヤリとした。

「朝の見回りに、いつもの顔ぶれをわざと通す。畦の上に札と目盛りを置いときゃ、口より先に目が覚える。**『三日見』**も板に残してある。背中押すには十分や」


羽田が紙を束ね、最後に一枚の隅へ小さく書き添える。

「合図はいつも通り。一打=様子、二打=板前、三打=引け。迷ったら試すへ倒す。——稼ぎは止めず、水は返す。土は腹を太く」


風が少しぬるくなった。小屋を出ると、用水の音は半音のままで、苔の線がきれいに揃っている。誰かが静かに笑った。未来は、畦の幅で始まる。まず一本。次の一本は、その隣だ。



三日見の札が白で固まり、実証区の段取りを板に置いた翌朝――

朝の空気はまだ肌寒く、掘っ立て小屋の土間に湿り気が残っていた。西嶋与一が地面に広げた地図の上で指を走らせる。


「ここを浅く掘って、細い溝を張り巡らせる。**逃げ水(排水路)**や。余分な水が抜ければ、山あいでも根腐れしにくくなる」


囲炉裏を囲む面々の視線が地図に集まる。湯浅の村長、組頭たちも顔をそろえている。

羽田隼人が言葉を継いだ。


「考え方は止めない水と同じです。雨でただ溜めるんじゃなく、一度流して、必要な分だけ引き戻す。『夕入れ・夜返し』でよどみを作らない。水が動けば、根が息をします」


村長のひとりが首を傾げた。

「田には水があるのが当たり前やろ。逃がしたら、痩せはせんか」


羽田は穏やかにうなずき、囲炉裏の縁の茶碗に丸石をぽとりと落とす。

「器をずっと満たしっぱなしにすると、土に毒がたまることがあります。よどみは命取りです。動かして返すほうが作柄は安定します」


西嶋が補う。

「田は五条植えにして風を通し、苗は高床の苗代で育ててから移す。梅雨に溜まっても逃げを先に用意しとけば、崩れん」


田所がスケッチを手前へ引き寄せる。

「実証区は下の棚田の上段。逃げ水を入れて、脇に小さい調整池(ため池)も掘る。『夕入れ・夜返し』『三日見』は札で回す。迷ったら試すへ倒す。背中はこっちで押す」


水野さつきが籾殻袋から粒を掌に取り、軽く転がした。

「種籾の保存と苗の立ちは、うちで見る。混ぜ物は低く広く、三日目と七日目で返す。水を動かすぶん、根がよく息をする。草一本、虫一匹、無駄にしない」


村長たちの顔つきが静かに変わっていく。

「……して、わしらがやるのは?」


羽田が口元に笑みを浮かべる。

「一緒にやってください。今までのやり方は残したまま、一枚だけ試す。うまくいけば広げる。違ったら、責任はこっちが取る」


囲炉裏がぱちりと弾けた。短い沈黙ののち、ひとりが深く息を吐く。

「半分も分からんが……地面と水は嘘をつかん。信じて、動こう」


西嶋と羽田がうなずき合う。

「よし。まずは下の棚田から。逃げ水を通して、調整池をいっしょに掘る。棒の合図はいつも通り、一打=様子、二打=板前、三打=引け。濁りが立ったら半音戻す」


小屋の中に、静かな決意が流れた。湯浅の田は、古い手と新しい工夫が交わる実験の一枚になろうとしていた。





それから数日後――

実証区の畦に白い筋がそろい、調整池の土羽が乾きはじめた朝。広場に手作りの木板が立った。竹で組んだ枠にくくりつけられ、炭筆でこう記されている。


《来年の米づくり:みんなでやること》

・苗を育てる「苗床なえどこ」を新しく作る

・水をためる「溜池ためいけ」を谷の奥に掘る

・田んぼにまっすぐ植える「棒と縄」を作る

・昔よりよく切れるくわすきを作る


下には素朴な図が続く。曲がりくねった畝と整然と並んだ稲の違い。谷筋に小さな堰をかけ、池が息をする断面。斜面に杭を打って逃げ水を通す矢印。板の端には小さな朱で「夕入れ・夜返し(赤札)/三日見」と添えてある。


人が立ち止まり、輪が厚くなる。

「……まっすぐ植える? そんなもんに意味があるのか」

「池を掘るって、水神さまの流れを止めるのか」

「川をいじって祟りがあった村もあったって、婆さまが……」


空気がわずかに強張る。祠の前では、おきよが草の結界を新しく結び直していた。


羽田が静かに板の前へ出る。

「これは、命令じゃない」

声は落ち着いて、曇りがない。

「けどな。来年、腹いっぱいに飯を食う者を増やすには、これが要る。——この一年で、何をすれば米が育つかを学んだ。だから来年は、もっとよく育つやり方に挑戦する」


ざわめきが細くなる。羽田は続けた。

「池は止めない。夕に入れて、夜に返す。祠の禁足は動かさない。池口には注連を張って、初穂は宮へ。水は動かしながら借りて、返す。五条で風を通す。苗は高い床で育ててから移す。——そうすれば、作柄は安定する」


輪の後ろで、子らが図を指してはしゃぎ、男衆は腕を組んだまま板を見つめる。


「……俺、鍬を作るの、手伝いたいです」

若い男が一人、手を挙げて前に出た。

「去年のやつより楽に耕せたら、うちの婆さまも助かる。畑の土、重いんですよ」


羽田が軽くうなずく。隣で年配の男が声を上げた。

「苗床の場所なら心当たりがある。昔、薬草をやっとった跡がある」

「石積みで水止め……旅の衆がやっとるのを見た。やってみようか」

「山の上から水を引く古い道が残っとるかもしれん」


古い記憶、旅人の噂、祖父母の口伝が、波紋のように広がって集まりはじめる。西嶋が全体を見渡し、深くうなずいた。

「よし。みんなの知恵と手でいこう。まずは苗床の整地と、溜池の地固めからや。杭はここ、縄はここ。逃げ水の口は一段下げる。棒の合図はいつも通り——一打が様子、二打が板前、三打が引け」


田所が板の余白に小さく段取りを書き足す。

「鍬は岡島、条の棒と縄は横井、石積みは杉本。水札は赤一枚。迷ったら“試す”へ倒す」


水野は籾殻袋を抱えて前へ出た。

「種籾はここで預かる。寝かせる山は低く広く、三日目と七日目で返す。匂いが甘さから蒸しに変わったら合図。薄く撒いて、薄く効かせる」


誰も逆らわなかった。不安はまだ胸に残る。けれど、それと同じくらい——いや、それを上回る希望の芽が、確かに芽吹いていた。空は冬の明け方みたいに白み、祠の前の草の輪が風にひとつ揺れた。

神仏とともに生きてきたこの土地の人々が、いま、自分の手で明日を耕そうとしている。


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