②【翌朝】
朝——目覚め/小屋の前にて
羽田が目を開けたとき、天井の葦が薄い朝の光を受けて、細い縞を作っていた。喉は乾いて痛む。体を起こそうとすると、すぐそばで椀の音がした。
「起きたか。無理せんでええ。水、口を湿らすだけでも」
田所が竹筒を差し出す。続けて水野が額に手を当て、脈を取った。
「熱なし。脈も整ってる。起き上がるのはゆっくり」
外から潮と薪の匂いが入り、戸口の向こうで誰かが咳払いした。田所が戸を引くと、三人の村人が立っていた。
「おはようさん。邪魔するで。……いつも水の溝や畑、見てくれてるからな。これ、少しやけど」
先頭の老人が、藁籠を差し出した。中には干した鰯、梅干し、海藻、粗塩の小袋。
「この方は?」と羽田。
田所が紹介する。「村年寄の与左衛門さん。浜の四軒長屋の端や」
与左衛門は歯の隙間から笑いを見せた。「与左でええ。浜の者や。潮の加減は少しは読める」
後ろの若い男が、背の桶を下ろす。「彦次です。川の渡しのそばにおって、昼は舟、夜は畑。……その、釣れた分をおすそ分け」
桶の中にはまだ銀の光を残す小魚が数匹、藁で包んだ味噌がひとかたまり。
最後に、袂に草束を入れた女が一歩出た。「おきよ。宮の手前の家。草はよもぎとどくだみ。傷にあてるぶん、乾かすぶん」
水野が草を受け取り、香りを確かめて頷く。「助かる。煮沸して、包みを作る」
羽田は礼を言い、ひと呼吸置いて尋ねた。「ここは、どこですか」
与左衛門が庭の砂に指で線を引く。南を示し、「湯浅の湾や。東に口が割れとる。向こうは栖原、背は低い尾根、その向こうに**古い道(熊野へ抜ける筋)**が通っとる」
「時のことは?」
与左衛門は少し顔を曇らせた。「将軍様が京で斬られたて噂が回ったのが、去年か一昨年の夏頃や。義輝公ちゅうた。……年号で言や、永禄いうてたか」
田所が補う。「俺らの伝え聞きも同じや。永禄の末あたりに落ちてきた、と見てる」
羽田は短く復唱する。「湯浅湾、栖原、尾根の向こうに熊野道。義輝横死の噂。……承知しました」
おきよが梅干しの包みを差し出す。「よう噛んで、すこしずつ。塩が体に戻る」
彦次が笑って言う。「この人ら、溝の落としのおかげで畑が流れんで助かっとるんよ。うちの親父も図板の前でよう頷いとった」
西嶋が外から顔を出した。「図は嘘つかん。たまに描き手が遊ぶけどな」
与左衛門が肩で笑う。「今朝も遊んどったわい。湾をエイに描きよって。……ほな、また夕方にでも」
三人は軽く頭を下げて去っていった。藁籠の塩が、朝の光で白くきらりと光る。
水野が椀を差し出す。「粥、もう少し食べられる? 塩はひとつまみ」
羽田は頷いた。喉を通る温度、塩の角がほどける感覚。体の地図に、小さな印がひとつずつ増えていくようだった。
「夜、皆で段取りを合わせる。羽田君は質問を持って来てくれたらええ」と西嶋。
羽田は「はい」と答え、心の中で項目を並べ始めた。土地の権利線/危険の兆候/優先順位。
*
焚き火の上で味噌湯が小さく震え、輪になった椀に順に注がれていく。板には、朝に引いた湾と尾根と小川。昼のあいだに増えた小石が、要点の上に静かに座っていた。
ここでは、話は線にして残す。板に載らぬ約束は、明日の仕事にしない——それが“いつものやり方”だ。
田所が椀を置いて、羽田にうなずく。「まず顔、揃えよか。順に腹見せるで」
肩幅の広い体つき、潮に焼けた前腕に綱だこの白い跡が走る。声は低くてよく通る。
「田所誠一。総合物流の現場上がり、フィリピン駐在が長かった。港から内陸、島間フェリーの積み付けと通関を渡り歩いた。ここでは段取り持ち。サウジの商談で羽田と真正面、湾岸のヤード引渡しかフィリピン側フィーダー接続かで徹夜やったな」
背筋の伸びた痩せ型、白髪まじりの短髪に目尻の皺が深い。表情はいつも穏やかで、目尻が先に笑う。
「西嶋与一。ゼネコンの土木畑や。川筋と地の癖を見るのが商売。いまは線引きと“板前”の証人役。紙より現場が好きや」
細身で身のこなしが軽い。髪を布でひとまとめ、指先には布包帯の跡。声は澄んでやや高め、語尾が柔らかい。
「水野さつき。半導体と化学の会社。材料とプロセスが専門。いまは衛生と保存、火薬は“触るまで”。発酵と塩が得意です」
胸板が厚く、煤の名残が前腕に薄く残る。目は静かで揺れない。表情はほとんど動かず、眉だけがわずかに合図する。
「榊原清太。製鉄。炉と精錬、規格の番人や。ここでも基準から外さん役や」
長身で手脚が長い。濡れ色の脛に水はねの跡、手には竹の棒が馴染む。声は明るく、出だしが半拍早い。
「横井大吾。重工系の動力と流体。水車と落差は任せて。水は嘘つかん」
がっしりした手の甲に節が立ち、衣の肩に木屑がひとつ。声は木に触れるみたいに柔らかい。
「杉本修司。木造工務店。木組みと建て方。倉は“逃げ道”から決める主義や」
中肉中背、袖口に古い油じみ。視線は細かいものにすっと焦点が合う。表情は口角が先に上がる、いたずら好きの笑み。
「岡島一真。自動車の生産技術。治具と段取り、体に無理のない角度を出すのが性分。鍬も同じや」
羽田が会釈して口を開く。「羽田隼人。商社、資源畑。現地調整と商流の設計。サウジのあの案件で田所さんと火花——引渡し条件とフィリピン側の動脈の太らせ方、今も覚えています」
火がぱち、と割れ、明かりが輪をなでた。
田所が指を三本立てる。「うちらの大きな目標はずっと三つや。食う・守る・稼ぐ。
食う——水と畑で腹を満たす。
守る——倉と衛生で人と品を守る。
稼ぐ——印と規則で信を売り、道を太らせる。
この順は崩さん。足元が崩れたら稼ぎは砂や」
西嶋が板を指でとん、と叩く。「朝の説明の続きや。大目標の下に小さな柱を刻んどる。止めない水/乾く倉/使い地の線——この一月は、これに人と手間を載せてきた」
横井が報告する。「水——上流で落差の候補が二つ。明日、棒と水糸で当てる。流れを殺さん位置がある」
杉本が続ける。「倉——候補地は三つ。地耐力は二つ合格。湿りを抜く風、煙の逃げ、錆を呼ばん向き、火事の抜けまで通ったのは一つ。明日、縄張りを切る」
西嶋が炭先で板を叩く。「線——浜の持ち、渡し道、祠の禁足、畑の耕作権。白地はまだある。板の前で線を引き、当事者が名乗りを置く。明日は与左(村年寄)と、おきよに立ち会ってもらう」
田所が区切る。「ここまでが進捗。次、修正を三つ。
一つ、乾燥棚は火元から三間→四間、夜は縄で封。
二つ、刃物の戻し場所は一カ所に統一、手洗いは塩湯を徹底。
三つ、湯浅印の刻印は型を一つに、通し符は紐の色で人別を分ける。夜番は二交代から三交代へ増やす」
羽田がうなずき、椀を持ち替えた。「では、こちらから疑問を三つ。
一つ、その“使い地の線”ですが、土地の権利者は誰と見ますか。大名の支配はどこまで及んでいるのか。
二つ、年貢や関銭は誰に、どの名義で納めますか。寺社や座の取り分は? 湯浅印はどこまで盾になりますか。
三つ、もし権利の主張がぶつかった場合、板の線と稼ぎの線——どちらを先に動かしますか」
輪が少し締まる。西嶋が一つ目を受けた。
「権利者は重なっとる。浜は入会で、“持ち”は家筋、祠は宮座、畑は作る手が名乗る。名目では上からの旗がかかるが、日々を動かすのはここでの名乗りや。だからまず板の前で“使う”“触らん”を線にする。外からの旗は、あとで誰の名で話すかまで含めて整える」
榊原が短く添える。「旗は風で変わる。線は暮らしで固定する」
田所が二つ目を引き取る。
「年貢と関銭は、“今は”宮座の帳に沿う。ここで数えて、誰の名義で上に通すかは板の端に書く。湯浅印は“うちが責任を見る荷”の証。通し符は人と荷の照合。朱印の写しは海の道では効き目がある——ただし刻印が揃って初めて通用する。寺社や座の取り分は古い割付を尊重し、新しく稼いだ分で揉めんよう調整する」
横井が三つ目に返す。
「ぶつかったら、まず稼ぎを止めんほうの線から動かす。水と倉は暮らしの背骨や。板の線は“触らん線”を先に太くする。稼ぎの線は道の太さ、後で替えが利く。順は水→倉→線→畑」
杉本が指の腹で板に小窓を描き足す。「倉は“逃げ道”からや。湿り・煙・風、火事の抜け。ここが通らん場所は地面が堅うても落とす」
水野が頷く。「衛生は切り傷二件、消毒済み。乾燥棚の移設は今夜から仕度します。塩湯の桶は二つ増やします」
岡島が笑う。「鍬の角度板、一枚増やした。腰を壊さない角度、明日、体で確かめて」
羽田はゆっくり復唱する。
「——線は明日、板の前で当事者立ち会い。白地は踏まない。年貢と関銭は宮座の帳に沿わせ、名義は板の端に書く。湯浅印と通し符で偽荷と行き違いを弾く。優先は水→倉→線→畑。旗より暮らし、稼ぎは止めない。……了解です」
「合う」と榊原。
「合格」と西嶋が板の下辺に三語を書く。揃える → 数える → 確かめる。
田所が段取りを置く。
午前: 上流の落差実測(横井・西嶋・羽田)——棒/水糸/足跡沈下。
午後: 倉の地踏み(田所・杉本・岡島)——地耐力/動線/風抜き。
別動: 乾燥棚の位置替え・衛生点検(水野・榊原)。
夜番: 前半・西嶋と田所/後半・榊原と水野。
ここで田所が小石を三つ、板の隅に置き直す。
「今夜のつまずきも言っとく。一つ、浜の見張りが入れ替わった。雑賀の若い衆が舟の数を数えとった——数は勘定を荒らす。二つ、渡し場の砂に見慣れん足跡——動線を読まれた気配。三つ、潮目が昼より一刻早い——着け刻がズレる。だから今夜は中立距離、刻印と通し符のない荷は止める。揉めそうやったら引く。引いたら、朝の鍋の前で段取りをやり直す。逃げやない、“傷を負わん選び方”や」
「異議は?」
「異議なし」
「寝言は禁止」「いびきは通し符いる?」——笑いが火の粉に混じる。
味噌湯の椀が空になっていく。葦の影が板の上で揺れた。
羽田は輪を見渡し、炭の先でそっと小さな点を打つ。
——置いていかれていない。火の温度が、それを教えていた。