表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/21

①見覚えのある顔

――紀伊・湯浅湾近郊、小さな棚田のあぜ道にて


初夏の陽が西へ傾く。畦の泥がぬるりと指に絡み、風が塩の匂いを連れてくる。

田所誠一は、段差をまたいだところで足を止めた。


「……おい、誰か倒れてるぞ!」


斜面の草むらに、仰向けでぐったりと横たわる人影。

泥にまみれた黒い革靴、濡れたスーツの背。――場違いにもほどがある。


田所は草をかき分け、顔をのぞき込む。息は浅いが、胸は上下している。

どこかで見たはずの輪郭――思い出は指の間の泥みたいに、つかもうとすると逃げた。


「水野さん、脈は?」


傍らにしゃがみ込んだ水野さつきが、手首に指を当てる。

焦げた油と土の匂いが、濡れた衣の下から微かに立つ。


「浅いけど安定してる。今すぐは起きないかも。体温が落ちないようにだけ、気をつけて」


田所は深く息を吐き、うなずいた。


「俺が背負う。水野さん、先に道の様子を見て」


「うん。足元、滑るから気をつけて」


体を支え起こし、背に負う。ずしりと重さが沈む。

田所の身体は、順序だけを考えて動いた。水――確保。火――あと。安全――最優先。


「行こう。山側の仮小屋だ。横にできる」


ふたりは細い山道へ足を進めた。



小屋の中――夜。

焚き火が落ち着き、濡れ衣が軒でしずかに滴る。


田所は濡れた上着の内ポケットに指を入れた。硬い革の感触。名刺入れ。

紙は水を吸って重く、角がほつれている。一枚、慎重に引き抜いた。


三菱商事

中東・アフリカ資源本部 第二課

羽田 隼人


「……ああ、やっぱり」


喉の奥で言葉が漏れる。


「カタールのLNGの席……通訳の陰で、全体を見渡していた目だ」


輪郭が急に像になる。あの時の、無表情の視線。


「……羽田さん、か」


焚き火の音が板壁を渡る。外は潮風が鳴っている。


寝返り。薄く目が開いた。


「……水、飲めるか」


田所は竹筒を差し出す。男は咳き込みながらも受け取り、口元を湿らせた。


「……名前は?」


「……羽田。羽田、隼人。三菱商事……だったはずだ」


「名刺、出てきた。田所だ。覚えてるかは別として、フィリピンの現場で一回だけ一緒だった」


視線が合う。安堵かどうか、田所には断じない。ただ、焦点が戻ったのは確かだ。


「ここがどこかは、まだはっきりしない。けど、今は安全だ。今日は考えるのをやめよう。眠れ」


水野が湿した布を額にあてる。


「熱も脈も安定。寝れば、頭も落ち着くはず」


羽田の瞼が静かに降りる。


焚き火の火が、息を整えるように小さくはぜた。

外で、風が葦を鳴らした。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ