①見覚えのある顔
――紀伊・湯浅湾近郊、小さな棚田のあぜ道にて
初夏の陽が西へ傾く。畦の泥がぬるりと指に絡み、風が塩の匂いを連れてくる。
田所誠一は、段差をまたいだところで足を止めた。
「……おい、誰か倒れてるぞ!」
斜面の草むらに、仰向けでぐったりと横たわる人影。
泥にまみれた黒い革靴、濡れたスーツの背。――場違いにもほどがある。
田所は草をかき分け、顔をのぞき込む。息は浅いが、胸は上下している。
どこかで見たはずの輪郭――思い出は指の間の泥みたいに、つかもうとすると逃げた。
「水野さん、脈は?」
傍らにしゃがみ込んだ水野さつきが、手首に指を当てる。
焦げた油と土の匂いが、濡れた衣の下から微かに立つ。
「浅いけど安定してる。今すぐは起きないかも。体温が落ちないようにだけ、気をつけて」
田所は深く息を吐き、うなずいた。
「俺が背負う。水野さん、先に道の様子を見て」
「うん。足元、滑るから気をつけて」
体を支え起こし、背に負う。ずしりと重さが沈む。
田所の身体は、順序だけを考えて動いた。水――確保。火――あと。安全――最優先。
「行こう。山側の仮小屋だ。横にできる」
ふたりは細い山道へ足を進めた。
*
小屋の中――夜。
焚き火が落ち着き、濡れ衣が軒でしずかに滴る。
田所は濡れた上着の内ポケットに指を入れた。硬い革の感触。名刺入れ。
紙は水を吸って重く、角がほつれている。一枚、慎重に引き抜いた。
三菱商事
中東・アフリカ資源本部 第二課
羽田 隼人
「……ああ、やっぱり」
喉の奥で言葉が漏れる。
「カタールのLNGの席……通訳の陰で、全体を見渡していた目だ」
輪郭が急に像になる。あの時の、無表情の視線。
「……羽田さん、か」
焚き火の音が板壁を渡る。外は潮風が鳴っている。
寝返り。薄く目が開いた。
「……水、飲めるか」
田所は竹筒を差し出す。男は咳き込みながらも受け取り、口元を湿らせた。
「……名前は?」
「……羽田。羽田、隼人。三菱商事……だったはずだ」
「名刺、出てきた。田所だ。覚えてるかは別として、フィリピンの現場で一回だけ一緒だった」
視線が合う。安堵かどうか、田所には断じない。ただ、焦点が戻ったのは確かだ。
「ここがどこかは、まだはっきりしない。けど、今は安全だ。今日は考えるのをやめよう。眠れ」
水野が湿した布を額にあてる。
「熱も脈も安定。寝れば、頭も落ち着くはず」
羽田の瞼が静かに降りる。
焚き火の火が、息を整えるように小さくはぜた。
外で、風が葦を鳴らした。