そして伝説へ…的な
よく晴れた夏の朝だった。その日も暑くなりそうだった。本当に暑くなったかどうか、私は覚えていない。
その日、私は誰かに死を望まれた。私の知らない誰かだ。その誰かは、私だけじゃなくて、その辺に生きている人間は全部死ねば良い、死ぬべきだ、死ねと思っていた。だから、すぐには死ななかった生き残りもその後速やかに死ぬように、毒を植え付け、生活の全てを根こそぎ破壊した。
遺恨がある相手ならまだしも、遠くの土地の見知らぬ人たちを根絶やしにしたがるような生き物は、きっと人間ではない。鬼か悪魔だ。血も涙もなく、冷たい肌をした、私たちとは全く違う生き物。人間であって良いはずがないのだ。
知らない誰かの呪いのような殺意を逃れ、辛うじて生き延びた私はそう考えていた。やがて、植え付けられた毒が私の体を蝕むようになって、それは確信に変わった。私は悪魔に殺されるんだ。
それなのに、その知らない誰かは人間だった。その人は弱って歩けない私に温かな手を差し伸べて支えようとし、抵抗した私の爪が引っ掻いた跡からは赤い血が滲んだ。私が洗面器いっぱいに真っ黒な血をゲエゲエと吐くと、その薄い色の眼から涙がこぼれた。
そんなことって、あるだろうか。そんな慈悲があるなら、何故あの悪意を止めなかったのだ。この温かな手をした人も、裏にはあの悪意を抱えているのか。
あれが人間という生き物の本性なんだろうか。普段は、ちょっとした満腹感とか、ささやかな優越感とか、そういったものに覆い隠されているだけで、命令とかお金とか、そういうものがほんの少し背中を押しさえすればあの本性がむき出しになるのかもしれない。もしそうなら、死を望まれ死を迎えようとしている私もまた、ほんの少し生まれた場所や時間が違っていさえすれば、あちら側に立って笑いながらこちら側の人を殺したのだろう。
人間があんな純粋な悪意を持てるのなら、人間なんてこの世に要らない。
体中がだるい。苦しい。私は死ぬ。私は人間に殺されるんだ。
そう思った直後、突然、身体がスーッと楽になった。というか、何の感覚もない。その前が苦しすぎたので、無感覚が快感にさえ感じられる。
あれ、私は死んだのかな。死んだなら、何でこんな考え事をしてるんだろう。それとも、本当に死ぬちょっと前には、まず色んな感覚が全部ダメになって、何も感じられなくなるのだろうか。じゃあ、もうそろそろ、この考え事も終わるのかな。そう思ったけれど、私の独り言はちっとも終わる気配を見せなかった。
それどころか、遠くから音が聞こえ始めた。何の音だか、分からない。お祭り?何となく、たくさんの人がさざめき合っているような、そんな感じ。その音は少しずつはっきり聞こえるようになってきたけれど、人の声だという事しか分からない。内容はちんぷんかんぷんだ。日本語じゃないのかもしれない。
ああ、そうか、と私は理解した。あの人たちの声なんだ。あの人たちの言葉は私には理解できない。何故か分からないけれど、私はあの、悪魔よりも悪魔らしく、人間の死滅を望んだ人間たちの土地に連れてこられたのだろう。自分たちの撒いた毒の成果を調べるために、私たちのような生き残りを実験材料にしているという噂も聞いたことがあるし。
当たり前だけど、あの人間たちはこんなに沢山いるんだな。何でこんなにいるんだろう。あんな悪意のある生き物が地上を席巻していたら、この世界なんてあっという間に滅びちゃうんじゃないだろうか。
この世に鬼や悪魔が本当にいるのなら、そして、その鬼や悪魔が人間を退治してくれるのなら、この世はもっと良くなるだろうに。
人間は心の中を悪意で一杯にして、効率よく他者を殺すための武器を次々と作り上げる。だから、もしかしたら鬼や悪魔でも人間には苦戦するかもしれない。でもきっと、鬼や悪魔なら何とかなる。だって、元が強いんだから。人間なんて、ひん剥いちゃえば裸のサルに過ぎない。本来なら弱っちいはずなんだ。
分かった。
魔物。この世に必要なのは、優しい魔物だ。縁もゆかりもない人を根こそぎ殺したり、ひたむきに他人の死を願ったり、そんな恐ろしいことはしない、心の優しい魔物。人間の悪意を叩き潰し、消し去ってくれるような、真に強い存在。
ああ、そうだ。人間の作り出した毒に侵され人間の悪意に呪われたこの身体から魔物を生み出そう。もうこの身体は人間とは呼べない。上から下から血を流し、気味の悪い斑点に覆われ、話すことも見ることもままならない。魔物の母胎となるにはうってつけじゃないか。
人間が滅びるか、人間が悪意を手放すその日まで、私は魔物を産み続けよう。