19-7
そう魔王が言った直後、視界に光が溢れた。うわ、眩しい。目がくらむ。目ん玉は無いのに。そんなところまで忠実に私仕様にしなくても良いのだけれど。テレパシーなんだから。なかなか不自由なテレパシーである。
明るさに慣れてくると、目の前いっぱいに巨大な樹が聳え立っているのが見えた。巨大とは言っても、ファンタジーの世界のような、樹の上に町を作るとか、雲を突き抜けどこまでもとか、そんな規模ではない。現実的に、大きい。見たことはないけど、屋久杉とかレッドウッドならこのサイズ感なのかもしれない。ただ、針葉樹ではなくて広葉樹の形だ。私の知る樹で言えば、クスノキに似ている。どっしりとした幹から広く横に枝を張り、そこにはしずくを摘まんでちょっぴり伸ばしたような形の葉が茂っている。
風が通る度、木漏れ日が柔らかく揺らめく。梢がゆったりと揺れ、葉がざわめいている様子が見えて、聴覚の無い私にも葉擦れの音が聴こえるような気がする。
こんな光景にお目に掛かれるとは。異世界感があるかと言われたら、ただの巨樹なので微妙なところだが、そんな些末なことは忘れて良い。辺りを全て温かく包み込むような安らかさを感じる。資料室の中が何にも見えなかったのは残念だけど、その残念を補って余りある。ただ、ただ、圧倒される。私はしばし物も言えずに見惚れてしまった。
「これが真名の樹ですか。」
「はい。こちらの、途中で途切れている焼け焦げた部分が、先ほどの資料室です。」
魔王が視界をそちらに向けたのだろう、緑が生い茂る樹と連理の樹のように密接して、根元にもっと太い幹が見えた。元気な幹の直径の4、5倍はありそうだ。それが2階建てくらいの高さで途切れて、その先は枝も葉っぱも何もない。確かに黒っぽくて、上に伸びている側と比べると生気が無い。これだけの損傷を受けてなお、この樹はここまで蘇ったのか。すさまじい生命力だ。
「この樹も石だった、という説があります。当然ながら魔物が世に現れる前のことですから、何の証拠も無いのですが。」
「へえ…。」
もしそれが事実なら、その人は樹になりたかったのだろうか。それとも、命を生み出す母になりたかったのかな。
「魔物はどこになってるんですか?」
私は気になって、じっと目を凝らして枝を見つめた。魔王の視界だから自由は効かないのだけれど、見える範囲ではいわくありげな実がぶら下がっていたりはしない気がする。
「今は…いませんね。」
あらガッカリ。魔物が生まれるところ、見てみたかったな。
「リンゴみたいにぽこぽこ沢山実るんじゃないんですね。」
「昔はもっと元気だったそうですが、焼けた後に、再生が不完全なままで魔王を生んだので、それ以降ほぼ休眠状態です。樹にとって、魔王の産生は特に消耗が激しいようで。」
「えーと、その焼けた後の魔王というのが、あなた?」
「そうです。だから、長生きしろと司書長に言われます。私が死ぬと、樹が次の魔王を生もうとして、また大きな負担が生じますから。」
ああ、この魔王は戦後生まれってことなのね。そりゃ、司書長から見たら「あの子」なわけだ。っていうか、樹のために長生きしろと言うのか、あの人は。もそっと、魔王様ご本人のことを尊重した物言いはできないんかね、まったくもう。まあ、あの人なりのひねくれた激励だろうけれどね。魔王様から素直な表現方法を学んだ方が良いと思う。
それにしても、この樹が仮に石だったとして、魔物を生み出す強い意志があったとして、そうであってもやはり際限なくその望みを実現することはできないんだな。石の意志も万能ではないらしい。当たり前だけど。何にだって材料と労力が要る。そしてそれは有限だ。でも、魔物の材料って何だろうなあ。そう言えば、樹は例外的に魔物を殺せるのかもしれないんだっけ。材料が足りなくなると、古い魔物を殺して回収するってことだろうか。司書長、樹のそばにいて危なくない?
そんなことを考えながら、この立派で美しい樹を眺めていたら、不意に視界が暗転した。
「すみません、視界のテレパシーは消耗が激しくて。」
と魔王が言った。テキストデータより動画データの方が遥かに重いみたいなものか。こちらの意志も、実現する容量に限界の壁があると見える。
「ご負担をおかけしてすみません。でも、おかげで素晴らしい景色を見られました。もう休んでくださって大丈夫です。」
私がそう言うと、魔王は本当にしんどそうに息をついて、どこか木の根元にでも腰を下ろしたみたいだった。
「少し休んだら、あなたを元の世界にお返ししますね。」
「なんか、すみません。そんなに大変だったなんて。」
「いえ、私も初めてなので、力の使い方の効率が悪いのでしょう。改善の余地がありそうです。しばらく研究してみます。」
前向きだなあ。もうこれ以上の負担はかけられないけれど、魔王様のお姿も拝し奉ってみたかったものだ。もっとも、この人の視界を借りている以上、姿見でもなければ不可能だけれど。
「私の見た目は人間と同じですよ。」
「そうなんですか。」
「変えようと思えば変えられますけどね。怖い魔王だぞガオーという感じに。」
「変えたことあるんですか?」
「私はありません。先代の魔王は必要に迫られて頑張ったようですが。」
先代というと、樹が燃えちゃう前の魔王か。その人が亡くなってから、今の魔王が生まれたんだよね。魔王は割と寿命が短いのかな。そりゃ、超高齢の司書長からしたら、長生きせえよと言いたくもなるだろうね。納得。
「全ての魔王は殺されることで代替わりしています。」
納得したところで、魔王から恐ろしい事実がもたらされた。そんなこと、ペロッと言わないでください。寿命とか事故じゃないんかい。全て、殺されているんかい。
「人間は魔王を殺せば魔物が滅びると勘違いしていますから。私もよく命を狙われます。」
「うわあ、それは大変ですねえ…。」
「魔物に殺された魔王もいます。」
「え、クーデターですか。」
「当時いた石はデバッグと呼んだようです。」
デバッグって。いけ好かない魔王はバグ扱いですか。現役が死んだら次世代が生まれるというし、取り替え可能な部品のような認識なのかもしれないけれど。扱いがひどいなあ。ちょいとその石ころさんの言葉遣いにはお灸を据えたいね。
「あれ、でも、魔物には魔物を殺せないんじゃないですか?」
「魔王は例外です。殺されますし…殺せます。」
あ、司書長が言っていた唯一の例外。樹じゃないんだ。それは失礼しました。何となく魔王のテレパシーが気鬱な感じなので、心の中で謝っておく。この人にも、私の思考が漏れ出したのが聞こえているっぽい。大事な樹にあらぬ疑いを掛けられたと知れば、そりゃ嫌な気分になりますよね。ごめんなさい。
「でも、デバッグ、いや、反乱って起きるんですね。魔物同士は争わないんだと思ってました。平和な存在であることを望まれたんだろうって、司書長もおっしゃってましたし。」
「魔物でも喧嘩はしますよ。」
「喧嘩ってレベルじゃないでしょう。何で反乱なんて起こされたんですか。」
「有能な魔王だったようです。魔物の勢力は史上最大でした。」
「それなのに、なんでまた。」
「さあ…変な魔王だったとは聞いていますが、詳細は私も知らないんです。」
魔王は首を傾げたようだ。現魔王からは遠い、古い話なのだろう。司書長だったら知っているんだろうな。というか、あの人は実際に目で見てきたわけか。歴史はあらかた経験したと言っていたのだから。案外、クーデターの首魁かもしれないぞ。司書長、お前もか。みたいな。
勢力最大という史実から察するに、その魔王は血の気も多くガンガン攻めるタイプだったんだろう。ふつうの魔物では付いて行けなくなったのかもしれないな。何にせよ、魔物も、平和のためなら平和的でない手段を用いるらしい。どこの世界でも、無くなることのない矛盾。
そんなことを考えていたら、魔王がふうとため息をついてぼやいた。
「私も気を付けないといけないんですよ。よく皆に怒られますから。」
「そうなんですか。あなたなら大丈夫そうだけどなあ。」
私は本音でそう答える。少なくとも、この魔王は血の気が多くはなさそうだ。どちらかと言えば、平和ぼけタイプでしょう。皆に怒られるっていうのも、他愛もない愚痴とかじゃないのか。
大体だね、人間にしろ魔物にしろ、王様とか大統領とかを簡単に殺し過ぎじゃあるまいか。そんなことしたって世の中良くならないし、それは平和ではないぞ。
そんなことを考えていたら、魔王様はまたお笑いになる。まあ、機嫌が直って、良かったとしましょう。
「司書長から聞いたのですが、あなたの世界の物語を教えて下さるそうですね。」
「ああ、はい、それくらいならお安い御用ですよ。休んでいる間、何かお聞かせしましょうか。どんなのが良いですか?」
私が問うと、魔王は少しの間黙って考えてから答えた。
「説教臭くないのが良いです。」
「説教臭い…」
「司書長が昔よくそういう話をしたんですよ。最後に必ず教訓が付くんです。嘘はいけません、とか。まじめにコツコツ働きましょう、とか。」
ああ、ありそう。あの人は純粋なエンターテイメントには無縁そうだ。それなら、イソップはやめておきましょう。
あまり長すぎても、よろしくないよね。サボりがちな魔王を誘惑するなと、司書長から釘を刺されているし。それならば、まずは非常にライトなところから行きましょうか。
「ネコって、ご存じですか?」
「この世界にもいますよ。」
「じゃあ、ネコのお話をしますね。」
私はとある有名なネコの絵本を頭に思い浮かべた。ああ、そうか。視覚テレパシーで、私が発信側になれるなら、この絵もお届けできるのか。できたら良かったな。
そんなことを考えながら、絵本を読み聞かせるように、私は物語り始めた。個人的にも何度も読んでいるし、図書館の読み聞かせ会でも幾度か聞いているから、頭にほぼ全部の文章が残っている。細かいところは違うだろうけれど、概ね原本通りに話すことができる。絵本だから、そんなに文章量も多くないしね。
私が語る間、魔王は一言もテレパシーを発しなかった。ものすごく静かに聞いている。子ども相手だと、反応があるんだけどな。何しろこちらはテレパシー以外何の感覚も無いので、頷きとか表情の変化が分からない。音の出る相槌が無いと聞いてもらえているのかどうか不安になる。それでも、まあ、この人ならちゃんと聞いてくれているんでしょうとの信頼の下、私はゆっくりと語り続けた。
「…ませんでした。」
最後の一文を読み上げ終えて、私はそっと魔王の様子を窺った。反応が無い。まだ続きがあると思っているのかな。ご清聴ありがとうございました、とか締めくくった方が良かったかしらん。
その後も、待てど暮らせど、魔王様からご感想を賜れない。どうしましょうかしら。
「魔王様?」
控えめに呼びかけてみたけれど、応答なし。あれ?
…あ、と私は気づいた。この人、眠ってますね。すごく気持ち良さそうな、リラックスしきった感覚が、ほのかにテレパシーで伝わってくる。こういうのもテレパシーに乗るんだね、という気付きは得られたけれど、さて私はどうしたら良いのでしょうか。
この人すごく疲れてるんだろうなあ、と私は眠れる魔王様の傍らで嘆息する。しょっちゅう命を狙われるわ、ちょっと雑談しただけでサボりだと叱られるわ、石ころが無茶ぶりをしてくるわ。それでいてきっと、様付けで呼ばれるくらいなのだから、魔物のトップとしてのお仕事もあるのだろう。怒られるというか、クレームも受けるようだし。魔王というからには、日頃はいわゆる魔王城みたいな所で暮らしているのかな。そこに戻ったら、お仕事山積みというわけか。お気の毒に。たまには休みたいよね。
良いんじゃないかな、少しくらいサボっても。あなたを生み出した大きな樹の根元で、そよ風に吹かれて、木漏れ日にぬくもって。愛すべき平和な魔物たちの王様。
気付かないふりをして、もう少しお話を続けましょうか。私があちらに帰るのはもう少し先でも良いし。
私はまた頭の中から物語を引っ張り出してきて、話し始めた。今度は少し長めのものを。語り終えるころには、魔王も目を覚ますだろう。そうしたら、この世界ともお別れだな。
ああそうだ、最後に、この人の名前を聞いて帰ろう。真名の樹からもらったという、本当の名前。司書長が教えてくれなかったのは歯がゆいけれど、それもおねだりして聞いてみようか。元の世界に帰って、まだ私が生きていて、頭の傷も大したことが無くて、元気に復帰できたら、その名前をそっと口の端に乗せよう。もしかしたら、次元を超えて、私の見る景色がテレパシーで伝わるかもしれない。