19-6
「…気乗りしませんね。」
折角私が前向きになったのに、司書長があっさり断りやがった。コンチキショウ。
「私は司書です。文字や言葉の専門家と言えましょう。ですから、本を読むように石の言葉を読むことは容易なのですが、あなたの求めるものにはおそらく適合していません。」
「ああ…石テレパシーって、魔物の間で能力差があるんですか。」
「かなりあります。元は魔王という種族に固有の技能だったものを、ある時から、教育によって一般に普及させるようになったのです。お勉強ですから、あなたの世界でもそうでしょうが、得手不得手が生まれます。」
「そうなんですね。じゃあ、やっぱり私は魔王様を待つしかないんだ。やれやれ。どのくらい待てばいいやら。」
「もうじきお越しになりますよ。」
ぽろっと大事なことを司書長が付け加えた。あら、何てことでしょうか。やっと私は石から解放されるんだね。
「粗相のないようにしてくださいね。あと、誘惑しないように。」
「石が生き物をどうやって誘惑するっていうんですか。」
「すぐに石遊びに耽るのですよ、あの子は。…おっと、失礼。今のは聞かなかったことに。」
あの子って。司書長は魔王様より年長ってことか。それはともかく、私の悪魔の囁きによって魔王様が遊んでしまって仕事をサボるとでも言うのだろうか。魔王様、隙あらば雑談したいってことかしらん。まあ、忙しいとね、仕事と全然関係無い人と無駄話して心を休めたくもなるよね。その気持ちは分かるなあ。
あ、いかんいかん。分かっちゃ駄目なんだった。司書長に怒られる。
「何か怒られたんですか?」
と声を掛けられた。この気さくな感じは、渋々イヤイヤ司書長ではない。
「魔王様ですか?」
「はい、魔王です。お待たせして申し訳ありませんでした。」
前から思っていたけれど、この人、魔王なのに腰低いよなあ。そういえば、さっき司書長が「魔王という種族」と言っていたから、この世界では魔王もふつうにいっぱいいる魔物なのかもしれない。
「いえ、そんなことはありませんよ。魔王は私だけです。私が死ぬと、やがて次の魔王が樹から生まれます。0か1ですね、魔王の数は。」
そんな二進法みたいな言い方しなくても良かろうけれど、希少性は分かった。
ああ、そんなことより、おうちに帰らなきゃ。いや、それより前に、試したいことがあるんだった。お忙しい魔王様、たった一人しかいない魔王様が来てくれているうちに、やってもらわないと。ということで、私はこの間考え付いた、視覚のテレパシー伝達について魔王に説明した。
この人も司書長みたくきっぱり断ったらどうしよう、と内心冷や冷やしていたのだが、さすが魔王様、対応は至極寛大であった。
「面白いですね。やってみましょうか。」
何となく、私よりウキウキなさっておられませんかね、この人。しまったなあ。誘惑しちゃったかもしれないぞ。まあ、いいや。もうじき私はこの世界から脱出するのだから、もう司書長に長大なため息をつかれることもない。
ああ、帰るんだったら、最後に司書長にご挨拶するべきかな。いや、要らないか。私を帰らせてくれる魔王が来るというのに、司書長はさっき何もお別れの言葉を言ってくれなかったもんな。一言くらいあっても良いのになあ。
そんなことを考えていたら、私を包んでいる真っ暗闇がもやもやと揺れ始めた。揺れているのが分かるのだから、暗闇以外の何かが出てきているということだ。え、もしかして、見えるようになるの?本当に?ただの思い付きだったんだけど。見たい、見たいな。よし、頑張れ自分。できる、やればできる子なんだ、私は。やるぞやるぞ、やるぞ。
と半ば自己暗示をかける感じで力を入れていたけれど、なかなか視界は明るくならない。でも、真っ暗で何も見えないのとは違う。電気を消して遮光カーテンを引いた真夜中の室内くらいにはぼんやりとものが見える。
たぶんだけど、私になじみのある、本の詰まった書棚が林立という風景ではない。司書長が言っていた通りだ。書棚もあるっぽいけれど、完全にふたを閉められるような棚の方が多い…んじゃないかな。暗過ぎてはっきりしないが。こんなに暗いのは私の意志が薄弱だからだろうか。
「見えますか?」
と魔王に訊かれたので、私はハイと答える。
「すっごく暗いですけど、何かあるのは見えます。」
「ああ、実際に暗いんです。資料が傷まないよう、ここには殆ど明かりを入れていません。私たちは暗くても見えますし、何より司書は本を開かなくても読めますからね。」
「魔王様に見えている通りに私にも見えるわけじゃないんですね。」
「そういうことなんでしょうね。私はここで調べものをするのに苦労はしません。」
「私は下手に動いたらあちこちぶつかって、司書長に怒られそうです。」
不思議ではあるが、そういうものだと思うしかないか。テレパシーでこちらに伝わる間に、私向きに仕様が変換されてしまうのだろう。
うーん。折角見えたけれど、樹の中という感じがまるで分らない。木肌であろう壁や天井はますます暗くて、全然見えないし。これではただの消灯した物置ではないか。ちょっぴり、残念。
「外に行ってみますか?外は明るいですよ。」
「良いんですか?」
「構いませんよ。石はふつう、外にあるものですからね。」
そう言って、魔王は外に向かって移動し始めたみたいだ。暗がりの中のぼんやりとした塊どもが微妙に動いて行く。やはり、魔王にはちゃんと見えているのだろう。そうでもなければ、こんなに雑然としたところをこんなに滑らかには動けない。
「雑然で申し訳ありませんね。」
ムッとしたようなテレパシー。あ、司書長?どこだろう、っていうか、どれだ?何かそこにいそうだけど、棚と区別がつかない。でもまあ、いらっしゃるのならご挨拶を。
「司書長ですか。どうも、長いことお世話になりました。お仕事のお邪魔してすみませんでした。色々教えて頂けて、面白かったです。」
「いえ、さほどのことは。お気をつけてお帰り下さい。向こうであなたが生きているか死んでいるか、分かりませんが。」
嫌ぁなこと言うねえ、この人。わざと嫌がらせか。折角視界を得てワクワクしてテンションが上がっているというのに、一気に駄々下がりである。
「あ、そうだ。司書長のお名前って、何とおっしゃるんですか?樹に付けてもらったんですよね。」
「そんなことを知ってどうなさるのですか?」
「お世話になったんですから、お名前くらい把握して」
「朝な夕な、名前を唱えて感謝の祈りを捧げるとでも?」
そんなことしないけどさあ。本当に、もう。何なのさ。色々丁寧に教えてくれたことには感謝しているけれど、付き合いにくい人ですねえ。人間と同じように、長く生きると魔物も偏屈で頑固で意固地になるのだろうか。
「要らぬことは忘れ、早く元の世界にお帰りなさい。あなたのいるべき場所はここではないのですからね。」
しっしっ、と手を振って追い払われているような気がする。見えないけれど。
「どうぞ、お元気で。」
「司書長も。この世界の礎として、どうぞ末永くご活躍ください。」
私がそう言うと、ふん、と軽く鼻を鳴らして、暗がりの中の塊の一つが揺らめき消えた。もしかして、わざわざお別れに出てきてくれていたのだろうか。…そうかもしれないな。あれで意外と、お気遣いをなさる人だから。
「あなたのことは結構気に入っていたみたいですよ。」
と魔王が言うので、私は驚く。
「え、あれでですか?」
「あれで、です。」
ふふふと魔王が忍び笑いを漏らす。うーん、それでは、気に入られていなかったらどうなっていたやら。今更ながら寒気がする。
「そろそろ、外ですよ。」