19-3
「いーやいやいや、待ってくださいよ。」
「仕事がありますので、いつまでも雑談をしているわけにはまいりません。」
「私、放っておかれたらただ暇なだけじゃないですか。本も読めないし。ここには本がいっぱいあるっていうのに。悲しすぎますよ。もう少しくらい相手をしてください。」
正直言って、目が見えていたって異世界の本なんかが私に読めるとは期待していないけれど、読めないなら読めないなりに物体としての本を楽しむこともできるのだ。でも、それだって感覚があってこそ。くうう、悔しい。石になるくらいならせめて紙魚になりたかった。
「紙魚は困りますね。」
「あ、すみません。」
「…あなたのご不満は微かに分からないでもありません。書物を愛する気持ちは私にもあります。」
そうだろうなあ。生得的な司書なんだもの。後付けの私よりずっと、本には馴染んでいるに違いない。
「さりとて、いつまでもお相手することはできません。石であるあなた方は、一般的に、なかなか成仏なさいませんからな。」
成仏って言ったか、この人。私に分かりやすい表現、ということだよね、きっと。石としての生を全うすると元の世界に変えれるって話だったし、そのことだよね。ほんのり不安にさせてくれるなあ。図書館の書庫で転んで頭を打った嘱託職員が血まみれで死亡、とか嫌だよ。そんな地下書庫、怖くて入れなくなるじゃないか。怪談生まれちゃうよ。
「この資料室の近辺では、かつて多数の者が死にました。怖いですか?」
唐突に司書長がそんな恐ろしいことを言いやがる。私は小さいころから、お化けに幽霊、超常現象が怖いタイプである。サダコとか、本気で無理。
「怖いのであれば、別の場所にあなたを移動させるくらいのことはして差し上げましょう。」
ああ、小石だから、拾ってポイっとどこかにやってくれるというわけか。親切な。いや、この人はうるさい私から離れたいだけなのかもしれないけれど。司書長の真意はともかく、怖くないと言ったら嘘になる。うーん。少し悩んだが、答えはすぐに出た。
「いえ、どんな形であれ、本に囲まれていたいので、ここにいさせてください。」
私の答えを聞くと、司書長は気のせいか気のせいでないかの境界ギリギリの揺らぎのような笑い声を一瞬立てた。待てよ、咳払いかもしれない。いや、笑ったよね?
「良いでしょう。では好きなだけいてください。ただ、静かにしてくださいよ。ここにある資料は本当に繊細で、貴重なものが多いのです。驚いて取り落としでもしたら、取り返しが尽きません。」
はい、と私は殊勝に返事をした。でも、司書長が行っちゃう前に一つ、どうしても気になる。
「あの、この辺でいっぱい死者が出たというのは…そのう、最近ですか。殺人事件とかですか。怨恨があるんでしょうか。」
「やはり、怖いのではありませんか。何なら、穏やかな古書店にでもお連れしますよ。」
「ああ、いや、そんな、お忙しい司書長のお手を煩わせなくても良いんですが。念のために、確認を。」
確認して、連続婦女暴行殺人事件と無差別大量殺人事件とストーカー殺人事件が立て続けに起きて被害者は見る者を凍り付かせるような苦悶と悲憤を顔に張り付かせて亡くなっていた、とかいう話だったらどうしたら良いのかは分からない。でも、知らないままは一番怖いじゃないか。自分の恐怖心を最も覿面に煽るのは、自分の想像力だ。
司書長は3度目のルーズソックス的ため息を吐き出すと、やれやれという感じで答えてくれた。
「戦があったのです。魔物と、人間の。どちらもこの付近で沢山死にました。」
「ああ、古戦場ということですか。」
それなら、まだそんなに怖くないかも。歴史になっているなら、私からは少し遠い。落ち武者の亡霊とか平将門の首の話を聞いても、その手のものなら多少距離を置いて考えられる。
「我々は寿命が長いので、つい先日のように感じますがね。人間にとっては古い話でしょうな。」
「司書長は、その戦争を経験されたんですか?」
「私は始原の魔物の誕生からほどなくして生を受けました。魔物の歴史はほぼ一通り、経験しております。」
「始原の魔物?アダムとイブみたいなものがいたんですか。」
「アダムとイブ…ああ、あなたの世界における宗教上、原初のつがいでしたかな。」
その表現はどこかから叩かれる気がするが、まあ、間違いではない。しかし、この人本当によくこちらの世界のことを知っているなあ。
「始原の魔物は樹から生まれました。現在でも、我々司書を含め、一部の特殊な魔物はその樹から生まれ、雌雄の別を持ちませんし子も成しません。アダムとイブになぞらえるのは、不適切でしょうな。」
「へえ…一部、ということは」
「ええ、殆どの魔物は樹から生まれず、自ら有性生殖を行います。人間その他の生物と同様に、雌雄があります。」
「でも、司書長には男女はない、と?」
「ありません。それもまた、人間からすると気味が悪く、亡き者にしたくなる理由の一つなのでしょうが。」
どっかの国の最近の元首様なら、そうかもしれない。私は、そういう生き物の想像は難しいけれど、否定はしたくないと思う。まあ、両性具有とか両刀使いとか、ファンタジーの世界ではアリだしね。性別によらず誰かと誰かを絡ませるには、そういう設定も使えるのだ。
…あ、すみません。司書長をそういう妄想に使うつもりはありません。と、思念が漏れた時のために謝っておく。
「その樹の根元なのですよ、ここは。何しろ、魔物を生みだすのですから、人間にも狙われましてな。激戦地でした。樹は枯れませんでしたが、一部が焼けてウロとなり、そこを利用してこの資料室が作られています。ですから、あなたが恐れるお化けとか幽霊とか、あるとすればここにも出るのでしょうね。」
「で、出るんですか。司書長はご覧になったことが?」
「さて、どうでしょうな。」
司書長はそう言ってとぼけて、答えてくれない。それって…。いや、うん、そうだな。魔物にとっては悪霊も地縛霊も仲間みたいなものかもしれないし。出たとしても、片手を上げて口笛吹いて、陽気に「アロー、小さなリンゴちゃん!」なんて声をかける程度の存在なのだろう。
ううむ…怖いけれど、まあ、正体は分かった。戦争で亡くなった人たちなんだね、出るとしたら。
「では、今度こそ失礼させていただきますよ。」
「ああ、はい…」
「ご安心ください。資料室の中にはおりますから。」
あら、お優しい。つれないようでいて、何だかんだで色々丁寧に教えてくれたし、お心遣いもして下さるし、善き人。私みたいな石は他にもいるらしいけれど、私は司書長の職場に転生できて大当たりだったような気がする。多少邪険にされても、大人しく我慢いたしましょう。
「ああ、そうだ。」
びっくりした。まだいたんだ。はい、はい。何でしょうか。
「先ほど申し上げた、魔物と人間の違いですが。」
「ああ、はい。」
「人間は自らの意志で人間を殺しますが、一つの例外を除いて、我々魔物は意図的に魔物を殺すことができません。それが一番の違いでしょうね。」
「人間より平和的な生き物なんですね、魔物は。」
「そう望まれて産み出されたのでしょう。私はそう考えています。」
「でも、例外があるんですね。それって、何ですか?死刑とか?」
「さて…その話をすると、嫌がられますのでな。そろそろ、本当に仕事に戻ります。」
今度は本気でさよならしたらしい。それきり、司書長からのテレパシーは聞こえなくなった。