14-5
「ピアノさん、一つお願いがあります。」
「何ですか。」
「私が合図をしたら、いっとうやかましいのを一つ、やらかしてくれませんかな。」
「それは良いですけど…。」
「そうしたら、笛吹さん、あなた、できるだけおどろおどろしい雰囲気で出てきてください。」
「分かった。それで、人間たちを驚かすんだな。」
あ、なるほどな。
よしきたホーだ。私は素早く脳内リストをめくった。やかましいやつ。迫力のあるやつ。ワーグナーか?ベートーベンの交響曲の5番とか9番も良いが。いいや、役者不足だ。もっと、もっとうるさくて、純粋な音だけでも圧倒できるようなもの。あるはずだぞ。
これだ。私は思い出して、脳内レコーダーにセットした。
「そろそろ、お願いします。」
琵琶法師からのキューだ。よし、ミュージックスタート。
「いや、その前に、火祭りが始まってるぞ…。」
という笛吹の不吉な独り言は、後回しにする。
この曲の冒頭は穏やかだ。まるで嵐の前の凪のように。でも、心をざわつかせる不穏な旋律から、噴火の前の初期微動が僅かに感じられる。それは徐々に高まり、そうして、やがて、爆発する。私にできる最大音量で、爆音鳴り響かせてやるぞ!喰らえ!
「うわっ」
「ひえっ」
笛吹と琵琶法師が微かに驚きの声を漏らした。
ヨン・レイフスの『ヘクラ』。アイスランドのしょっちゅう噴火する活火山をモチーフに作曲された交響曲だ。常識はずれな打楽器の大編成が繰り出すド迫力の音量、これに圧倒されない奴はいない。音楽の何たるかなんて全然知らなくたって、結構。音が聞こえさえすれば、十分だ。
「今です、笛吹さん、一番怖い顔して出てきてください。」
「おいおい、もう戸が燃えてるぞ…。」
「グダグダ言わない。」
「仕方ないな。おっと、ピアノ石も持って行かなきゃな。うー、やかましい。よし、一気に飛び出すから、戸の前からどいていろよ。」
ドガン、と何かを蹴り飛ばす音がした。笛吹が戸をぶち破ったんだろう。あちあち、とか微かに呟きながらも、笛吹はなるべく威厳を保ってのしりのしりとゆっくり歩きだす。
「…がー、がおーっ!」
どこのへぼ怪獣映画だ。慣れていないのが丸出しである。しかし、私が全力で放つ大音量に驚き慌てふためいている里の人間たちには、割と効果があったらしい。ぎゃあぎゃあと悲鳴が散るのが聞こえる。
「ま、魔王だ。魔王が現れたぞ!」
誰かが叫んだ。誰か…琵琶法師じゃないか、これ。さては、煽ってるな。私には見えないけれど、燃え盛る小屋をバックに、見た目だけはおどろおどろしい笛吹が人間に襲い掛かろうとする構えを見せ、なおかつこの不協和音と爆音が鳴り響いていれば、舞台効果としては抜群だろうな。
「浅ましい人間どもめ、貴様らの屍で大地を築き、貴様らの血で海を成してくれようぞ。」
お、やるじゃん、笛吹。それっぽい台詞。声震えてるけど。それがかえって、ビブラートになっていい感じに聞こえなくはない。
「こ…殺されるー!逃げろー!」
あ、これも琵琶法師だ。恐怖に打ち震える小物感がよく表れている。役者よのう。
琵琶法師の一声を引き金にして、里の人々は我先にと逃げ始めたようだ。恐慌状態の叫び声や悲鳴、乱れた足音が一斉に遠ざかっていく。それほどの時間を待つこともなく、辺りから人々の声は聞こえなくなり、私の奏でる楽曲も終わりを迎え、やがてパチパチと小屋の燃える音だけが響くようになった。
「あー。うまくいった、みたいだな。」
どすん、と笛吹が腰を下ろしたようだ。すたすたと琵琶法師が近付いてくる。殴られた割には、結構元気そうで良かった。
「勢いで魔王の名前を騙ってしまいましたが、不敬だと怒られてしまいますかな?」
「はは、あの人はそんなことで怒りゃしないさ。面白がると思うよ。」
「それなら良かった。」
ふー、と琵琶法師と笛吹がそろって長いため息をついた。二人ともお疲れさま、である。しばらくの間、放心するかのように黙っていた二人だが、ふと気づいたように琵琶法師が私に話しかけた。
「すごい曲でしたねえ。あなた、あんなに大きな音も出せるんですね。」
「自分でも驚いています。」
「だけど、ヒビが入ってしまったぞ。大丈夫か?」
「そうなんですか。自分じゃ、よく分からないです。痛くもかゆくもなくて。」
スピーカーから大きな音を出し過ぎて、負荷がかかったのだろうか。でも、聴覚以外は、相変わらずの無感覚である。
「それならば、最後に3人で演奏して、お別れといたしましょうか。」
と琵琶法師が言った。
「もう小屋も燃えてしまいましたし、あの里には二度と出入りできません。この地を離れるしかありませんからな。」
それもそうだな。琵琶法師がここに留まる理由は、もうどこにもない。寂しいけれど、お別れの時が来たんだろう。とんでもない形のお別れになってしまったな。
「私もこの近くには当分近寄りたくない。実家に帰るとするよ。」
笛吹に実家、あるんだ。魔物の実家と言えば、魔界だろうか。ちょっと行ってみたい。私は石らしいし、持って行ってもらうのも良いかもしれないな。
でも、まずは3人での最後のセッションだ。何の曲にしようかなと考えることもなく、私はある一曲を選んだ。
一息置いてから、脳内のレコードではなく、空想上の自分の指を鍵盤の上に躍らせる。私の自作のピアノ曲だ。だから、著名なピアニストによる演奏の記憶はない。私が自分で弾くしかないのだ。
現代音楽と呼ばれるような、先鋭的過ぎて、一般的な演奏会で敬遠されるタイプの曲調ではない。素朴な、古典的な旋律を輻輳的に重ねていく。人がどう思うかは関係なく、自分が聴きたい、弾きたいと思う曲だ。もしかしたら、有名なあの曲のパクリでしょ、と言われるかもしれない。「あの曲」は人によって違うものを想定するだろうけれど。でも、何だって良いのだ。この3人で一つの曲を奏でる、それが大事なんだ。
ああ、琵琶法師と笛吹の音色が混ざり合ってくる。この人たちと私の曲を一緒に作り上げられるだなんて、本当にこの夢の世界に来て良かった。両手の10本の指が、かつてないくらい軽やかに跳ね回る。指の一本一本が喜んでいるみたいだ。
弾き終えるのが、惜しい。けれど、終わりは必ずやって来る。
とーん、と最後の一音を響かせたところで、私はゆっくりと瞼を上げた。自宅のマンションの、見慣れた景色だ。小屋の燃えカスなんか、どこにもない。夢は完全に醒めていた。
私はぼんやりとピアノの前に座った。蓋を開け、とーん、と一音を鳴らす。耳の奥には、まだあの二人の音色が残っている。
よし、弾こう。誰のためでもない、私自身のために。