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「小便したくなってきた。でも、ここで魔王様をお待ち申し上げなきゃならんのだよなあ。」
師匠がとんでもないことを言い始めた。でも、確かに、魔王城に入ってから随分時間が経った。ご丁寧にお手洗いなんて用意されているわけがないし、普通の人間なら出すものを出したくなっておかしくはない。師匠と旅立って以来、出すときの「にょろにょろにょ、にょろろりら~」という意味不明な歌や「スッキリした!」の叫び声を聞かされ続けている私は、師匠がいつもはその辺で適当に済ませているのを知っているけれど、今日はまだ粗相していない。本当にトイレに行きたいに違いない。
でも、師匠がわざわざ宣言するということは、意味があるはず。だって、トイレ中なんて、無防備にもほどがあるでしょ。「トイレ行きたい」と「これから隙見せます」は同じ意味だ。師匠なら、何か考えがあるに違いない。
「しょうがないから、その辺に引っ掛けるしかないな。あ、丁度いい小石がある。あれを的にしよう。」
えっ、私のこと?違うよね。さっき言ってた、私の親戚候補だよね。おしっこ引っ掛けられたって実際には感覚はないけど、いい気分はしないぞ。私にそんなことしたら、もう絶交だ。
と私がやきもきしていたら、師匠じゃないところから声がした。
「やめなさい!ばっちい!」
「おー、魔王様のご登場か。会いたかったぞ、魔王ちゃん。」
えー。師匠、そんな下品な罠で魔王をおびき寄せたの?で、魔王はまんまとそれに嵌っちゃったの?何だか嫌だな、このラスボス戦…。
「出てきてやったから、満足しただろう。もう、帰りなさい。」
魔王、やる気なし。その気持ちは分かる。あんまり相手にしたい勇者ではない。
「そうはいかないって、ご存じでしょ。タマぁ、頂くぜ。」
師匠は殺る気満々。膀胱も満々だろうから心配だけど…。ホント、この戦い、やだなあ。
やだなあと思っている私に配慮するはずもなく、師匠はいつも以上の気迫で戦闘を開始した。私もいつも以上にハラハラする。だって、お漏らしするかもしれないんだよ?垂れ流しながら戦う勇者って…。そりゃまあ、命の取り合いをしているのだから、最優先なのは身を守り相手を攻撃することであって、その他の事項はお構いなくという時だってあるのかもしれないけれど。でも、ねえ。
あ、そうだ。酔い覚ましみたいに、尿意を消すことができるかも。いや、でも、尿意を消したからって、膀胱が大きくなったり尿が消えてなくなったりするわけじゃないだろうし。無感覚のうちに重力の方向にスーッと流出させるだけだったら、最悪じゃないか。精霊失格だよ。変に消さない方が良さそうだ。
と、私は戦いの行方よりおしっこの行方が気になってしょうがない。だめ精霊だ。ラスボス戦こそ、光のヴェールとか、援護射撃とか、何か役立つことをしなきゃいけないはずなのに。やり方知らない上に、戦局が見えないし師匠強すぎるしで、どう援護したら役立つかも分かんないだけどさ。
ああ、本当に、私ってどこに行っても居場所がない。いてもいなくてもどうでもいい。むしろいない方が良い。そんな存在だな。
と、師匠の尿意一つでまた自己嫌悪。
やってらんないなあ。
何で私、他人の尿意で自己嫌悪しなくちゃなんないわけ?魔王の部屋入る前に、トイレくらい済ませときなさいよ。ラスボス戦って、分かってるじゃん。長期戦になるかもしれないじゃん。それとも、最初っからここで、他人の部屋の真ん中でトイレするつもりだったの?最悪すぎる!勇者じゃないよそんなの。そんなだから、ほら、苦戦してんだよ。魔王の配下がいっぱい出てきたからだって?んなの、いるに決まってるでしょ!どこに、王様一人ぽっちで暗殺者に立ち向かわせる国があると思ってんの。そんなのあるわけないじゃん。ふつう、護衛の方がまず出てくるでしょ。いきなり魔王様がお出ましになったことの方が奇跡なんだよ。もう、この師匠、バカなの?
っていうか、師匠、何で死にそうになりながら戦ってんの。トイレ行きたいんでしょ、行きなよ、我慢してると膀胱炎になるんだってさ。それに、世界中のお友達とまた飲む約束してるじゃん。弟子が成人したら一緒に飲んでみたいって言ってたじゃん。まだ死んじゃだめだよ。死んだって意味ないじゃん。なに頑張っちゃってるわけ?自己犠牲の精神で勇者として振る舞う自分カッコエエって、浸っちゃってるの?カッコ悪!そんなの、師匠のガラじゃないよ。お酒飲んで二日酔いになってるのが師匠の本当の姿だよ。自己陶酔なんて、糞くらえ!
「あー…なんか、もういいかな…」
私がブチぎれた直後、師匠が気の抜けた声を出した。ぽい、とか言って剣も放り投げてる。
「あのさ、お便所貸してくんないかな。さっきから、本気で漏れそうで。」
師匠、もじもじと足踏みを始めた。剣を離した手で、今は股間を押さえてたりするんじゃなかろうか。ホントやだなあ、このラスボス戦。今日、何回この感想を抱いたかなあ。
「えーっと…魔王様、どうなさいますか?」
「案内してあげなさい。」
配下に問われた魔王様、即答。この人、なかなかやるね。
師匠はさっきまで死闘を繰り広げていた相手に案内されて、無事にトイレにたどり着いた。うわ、やべえ、間に合わねえ、とか叫びながらも、何とかギリセーフで用を済ます。やっぱり、膀胱はパンパンだったみたい。
「ふうぅ…」
すごい大仕事をやり遂げたような清々しい雰囲気で、師匠はトイレを後にした。そして、何の危機感もなく、丸腰で、当たり前のようにまた魔王のいる部屋に戻っていく。
「悪い、悪い。助かった。人間としての尊厳が失われるところだった。」
「魔物でも、その状況では尊厳を失う。」
「あ、そかそか。そうだよな。」
何の話をしてるんだろう。さっきまであんな鬼気迫る勢いで剣を振るっていたのに。
「魔王様に直々に出てきてもらって申し訳ないんだけどさ、なんか急にやる気なくなったから、帰るわ。」
師匠、どしたの。と思った途端、魔王がちらりと私に意識を向けてきたのを感じて、私はきゅっと小さく縮こまった。石だから、気持ちの上での話だけど。私の存在に気付いたのかな。何にもしてないけどなあ。私が光の精霊的活躍をしてたなら、魔王にやられて主人公との愛が燃え上がるルートもあるだろうけど、私は師匠の膀胱圧を心配していただけだし。そんな小石を殺っても、魔王の値打ち下がりますよ。
という私のささやきが通じたとは思えないけど、魔王はすぐに私から関心を逸らせた。
「酔いが醒めたのだろう。帰りたいなら帰ると良い。私も無駄な争いは好まない。帰り道は案内させよう。」
さっきからこの魔王、物分かりが良すぎやしないか。いきなり剣で襲い掛かってきた暗殺者がやる気なくなったからと言って、あっさり帰すか、ふつう?私ならお仕置きするよ。でも、魔王は全然そんな気が無いみたいだ。おかげで、師匠ったら図に乗ってしまう。
「折角だからさ、出口まで付いてきてくれよ。私、魔王様とゆっくりお話ししてみたかったんだよね。」
えー。さっきまで殺し合ってたんだよ、あなた方。仲良くお話しする関係じゃないでしょ。いくら何でもこの提案は却下されるのでは、と思ったけど、何とビックリ、魔王様はこの酔いどれ勇者と肩を並べて歩き始めた。まあ、どうやら、師匠の剣は没収され、屈強な配下がすぐ後ろで師匠の挙動に目を光らせてはいるのだけど。それでもふつうは嫌だよねえ。魔王ともなると肝が据わってるなあ。すごいよ。




