9-1
疲れた。温泉行きたい。行かないと、死んじゃう。
ずーっと終電帰り、土日出勤、睡眠時間は1日平均3時間。食事はコンビニ飯とカップ麺だ。辛うじて、野菜ジュースとバナナで身体に良さげ成分を補給しているが、おそらく焼け石に水にすらなっていない。
温泉行きたい。
眠いのに、疲れてるのに、眠れない。シャワーじゃだめなんだろうな。温泉みたいにゆっくりお湯に浸かって、汗が引くのをゆったりと待って、それから布団に入ればきっと熟睡だ。でも、疲れすぎて風呂を沸かす気力がない。正確に言うなら、風呂を維持管理する気力がない。沸かすのは指一本でスイッチ押すだけだからできるけど、その前後の諸々を考えると、無理。
温泉行きたい。死んじゃう。
ああ、身体が重い。動かせない。金縛りだろうか。まだ夜かな。朝だとやばい。起きなきゃ。遅刻する。
温泉行きたい。ずっと夜のまま、朝なんて来なきゃいい。
「くうぅ…むはあああ…っ…」
あれ。まるで、おっさんが温泉に入ったときのような声が聞こえた。
ああ、そうだった。私は温泉に来たんだ。どれ、私もどぼんと。あち、あち、あち、くう。この、最初のいらっしゃいませな熱をぐっとこらえて、こらえて、だんだんほどけてきて…
「くはぁああ…」
あー…これ、これ。はー…。もう、何も考えられん。全部、湯に溶けて、すぐ湯気と一緒に消えちゃう。
「たまりませんなあ。」
これはさっきのおっさんかな。目が疲れすぎてて何も見たくないから、私はしっかり両眼を閉じている。だから、おっさんの姿も見えない。真っ暗。これはこれで、風情のある温泉ではないか。
「いい湯ですなあ。」
私は礼儀として挨拶を返した。というか、本音が漏れただけかもしれん。私好みの、かなり熱めの湯だ。多分、かなり酸性も強く、硫黄分も豊富だ。ほら、そんな匂いがぷんと鼻腔を突く…いや、突きそうで突かない。匂いは薄めなのかな。でも、皮膚の表面がピリピリして、熱と酸に抗っている。これがまた、たまらないんだよなあ。
「怪我にも良さそうなお湯ですね。」
「ええ、私は傷ができると、すぐにここへ癒しに来ますよ。てきめんに効きます。」
何となく、いかつそうなおっさんのイメージ。見えてないけど。土方とか、危険な業務に就いているのかな。できたてほやほやの傷があったら、この湯はさぞ染みるだろうなあ。私の健康な肌だって刺激を感じるくらいなんだから。でも、きっとすぐ治るぞ。
いいなあ。身体を動かす仕事。その方がいいかも。パソコンと電話がお友達、というか、地獄の鬼みたいに私を捕まえて離さない仕事は、うんざりだ。土方なら、家が建つとか道路が直るとか、仕事の終わりってものが目で見えるのも羨ましい。
ああ、トラック運転手とかも良いなあ。長時間労働でキツイってのは、どうせ今と同じだし。それなら、仕事中は一人になれて、全国各地に行けて、もしかしたらこうやって立ち寄り湯なんかにも行ける方がやる気出そう。
「失礼ですが、お仕事は何をされてるんですか?」
気が付いたら、私はおっさんに尋ねてしまっていた。これもまた、湯のなせるマジック。
「要人の警護をしております。命の危険を伴いますので、時にこうして、湯を使って傷を癒すわけです。」
「はあー…」
私は何とも答えられずに、長く息を吐いた。想像と全然違った。SPとかか。しかも、ガチじゃないか。日本の首相のSPくらいじゃ、そうそう命の危険にはさらされない。どこかの危険な紛争地帯にお勤めなんだろうか。そんな遠くから、よくぞこの温泉に来たものだ。
「温泉が職場に近いので助かりますよ。」
「えっ、近いんですか。」
「私の職場はすぐそこ、魔王城ですよ。家は城下町の方にあるんですがね。最近城に泊りも多いもので、恋人に愛想をつかされそうなんですよ、ハハハ。」
ハハハって、笑うところじゃないだろう。恋人、大事にしなさいよ。
いやいや、いやいや。ツッコミどころを間違えた。恋人も当然重要事項だが、魔王城って、なに。そういう、エンタメ施設か?でも、エンタメ施設で命の危険を伴ってしょっちゅう怪我をするような警護業務なんて、無いだろう。あったらそれは労災だし、それより何よりもっと安全管理の体制を整えなきゃ訴えられるぞ。何なら私から労基に言ったるで。おっさん、大丈夫かな。
「でも、まあ、魔王様は聡明な方ですし、同僚にも恵まれていますし、良い職場ですよ。」
「いやあ、だけど、恋人とピンチになるくらいお忙しいんでしょう?」
「そうですなあ、ここ最近は勇者が多くて残業続きです。でも、繁忙期でなければ基本定時ですよ。」
何だその、勇者が多くて繁忙期で残業って。勇者ってのは、税務監査とかそういうのの隠語か。でも、おっさんが故意に何かを隠蔽して業界用語を使っている印象はない。魔王城というエンタメ施設の勇者だから、お客様ってことだろうか。来場者が多きゃ、忙しいのは道理だが。
謎だなあ、このおっさん。