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薬をたくさん飲んだ。致死量じゃない。私はそういうメンヘラじゃない。ただ、スーッとしていい気持になりたかっただけだから、違う。
気が付いたら、何の感覚も無かった。視覚も聴覚も触覚も、暑い寒いも、痛い痒いも無い。真っ暗な中に、私だけがいて、ずっと考え事をしている。他にすることがない。眠ることもできない。夜眠れないのはいつものことだけれど、それとも違う。自分がベッドに横になっている感覚すらないし、脚がムズムズするとか、目がギンギンに冴えるとか、焦って汗が出てくるとか、そういうのもない。
臨死体験?オーバードーズで救急搬送は、最近よくあるらしい。私が安全圏だと思って飲んだ量だって、私の体調とか今までの積み重ねで危険量になっていた可能性はある。
それを狙っていたわけじゃない。それは確かだ。でも、そうなっても構わないという気持ちはいつも抱いていた。だって、私なんて生きていたって何の意味もないのだから。
まあ、こういう話は、やめよう。面白くもなんともない。他人の愚痴なんて、カラスも突き申さぬ候。
さて、臨死体験といったら、三途の川とお花畑というイメージがある。クリスチャンに三途の川は無いかもしれないけど、私には信仰が無いから、三途の川が妥当な線だ。単なる真っ暗闇ってのは、無いんじゃないか。
あとは、死んだ家族が「こっちに来ちゃダメ」と叫んでいるというのもあるか。私の親はまだ生きている。死んだ祖父母ならいるが、私が生まれる前に死んでいるからお互いに顔も名前も知らない。他の親族にいたっては、隣の他人より遠い存在だ。わざわざ三途の川まで戻ってきて、私に死ぬなとおせっかいを焼こうとするような人間はこの世にもあの世にもいない。だから、その手の輩がいないのはしょうがないな。
うーん。じゃあ、この真っ暗は、何だろう。
私はもともと引きこもりだから、居心地は悪くない。引きこもりレベルの浅い人たちならネット環境が無いことに不満を抱くかもしれないが、私は高次の引きこもりである。SNSは、自分で発信することも無ければ、他人のに反応を送ることもない。オンラインゲームもしない。そう、私は仮想空間ですら他者と接触したくないのだ。正確に言えば、私が遠くから傍観するのは良いけれど、誰かが私に干渉するのは一切御免だ。コメントやらいいねだなんてとんでもない。挨拶すらしたくない、されたくない。だから、ネットとかゲームとか、そういうものが無いなら無いで構わないのだ。
まあ、テレビはあっても良かったなあ。あれはひたすらに映像を垂れ流すだけの装置だ。履歴からおススメ動画を勝手に並べ立てたり、他人による他人への評価数値やコメントを表示したりしない。他人を見ておきながら、生身の他者の存在を意識しなくて済むのがテレビの美徳であろう。CMがうるさければ、何も考えずにザッピングして時間を潰せるのも良い。ネットの広告はどんどん巧妙化していて、一定時間こちらを拘束しておく手段を講じるようになっていたりして、スルーしにくい。鬱陶しい。テレビの方が楽だ。
しかし、無いものは欲してもしょうがない。ここには、何もない。在るのは私だけ。
ぼーっとするのは得意だ。任せてくれ。純粋にボーっとしている時間で時給がもらえるなら、私はイーロン・マスクの収入を超えられるかもしれない。まあ、時給の額次第だが。日本の最低賃金では、不眠不休で何度も転生しながらぼーっとしても追っつかないだろうな。
そんなこんなで、私はひたすらぼーっとした。
他人の存在を全く感知できない、この世界。居心地が良すぎる。眠れないのも、最初はどうかと思ったけれど、夢を見なくて済むから却って便利かもしれない。夢は思考と違って操作できない。要らない情景、要らない人、要らない感情、そんなものばかり出てくる。夢とセットの睡眠なんて無くて良い。
とはいえ、さすがの私も延々と無音っていうのは退屈になってきた。でも、今は人の声を聞きたくないから、歌は嫌だ。特に、日本語の歌は最悪だ。知らない言語の歌と違って歌詞の意味が分かってしまうから、本当に耳障り。何故、作詞者の想いとか感情を私がわざわざ聞いてやらなければならない?そんなの、バーに行ってホストとかホステスに有料で聞いてもらえ。ああ、川のせせらぎとか、鳥のさえずりとか、そういうのを無限に聞きたいな。
そう思っていたら、本当にそんな環境音が聞こえてきた。いいねえ。これは、さほど大きくも速くもない川の流れだな。たまに、魚が跳ねる水面の音とか、種類は分からない鳥の鳴き声も響く。癒される。いや、まあ、癒すほどの傷なんてないんだけど。何も感じないし。
こうなると、私のぼんやりにも拍車がかかる。拍車がかかったぼんやりって何だよ、というツッコミは無しにしていただきたい。ぼんやりにだって、レベルがあるのだ。ぼんやりの最上級はきっと、チベットの山岳地帯で修業を積んだ徳の高い僧侶による瞑想であろう。私はそこまでは達していないが、一般的な日本人の中ではかなりの上位だと思う。
ああ、水かさが増えたかな。洪水?ああ、でも収まった。ゆく川の流れは絶えずしてしかも元の水にあらず。私は水ではないっぽいので、元の位置にありけり。善きかな、善きかな。
いやしかし、水音が聞こえなくなった。何だろう。ゴチゴチと硬いもの同士がぶつかるような音…そして、人の声。場面転換か。ぼーっとするのに最適な環境が失われたのは残念だが、まあ、いいか。私に話しかけたり、私を評価したり、私に意見を押し付けたりしなければ、他人の存在を否定する気はない。むしろ、ラジオドラマを聞いていると思えば、ちょっと刺激になって楽しい。
「これは良いヒスイだね。あそこの川沿いで拾ったんでしょ?」
ヒスイ拾い?糸魚川かな。許可なく拾ってはいけない地域もあるはずだが。
「そうそう。まだ磨いてないけど、買い取ってもらえるかい?」
「大丈夫。加工はうちでやるから。じゃあ、お値段はこんなもんでどうだい。」
「渋いなー。まあ、しょうがないか。」
じゃらんと硬貨らしき金属が鳴った。私の知っている硬貨にしては随分重々しい響きだ。現代日本が舞台じゃないのかもしれないな。それなら、合法も違法もあるまい。他人事ながら、ちょっと安心。
それからの場面は、どうやらヒスイの加工場らしい。磨いたり削ったり、そんな環境音が聞こえる。私はヒスイの加工現場に立ち会ったことが無いので、本当にこれがヒスイの加工音かどうかは分からないが、それっぽくはある。さっきの買い取り手と思しき人の鼻歌なんかも混じって聞こえる。これはこれで乙だ。工房の作業音。ネット動画にそんな環境音があっても良いんじゃないか。
「あー、これは立派だね。指輪とか小物に細工するのはもったいないな。」
「冒険者用の装備ならどうかな。魔石の腕輪とかさ。」
「魔石ぃ?魔力なんかあるの、ヒスイに?」
「知らん。けど、それっぽい色だし。ご利益ありそうじゃない?」
「確かに。」
どうやら、ヒスイは下処理が終わって、次なる加工の段階に入ったらしい。何かの装飾品にされるみたいだ。それは良いのだが、効能も定かでないのに、勝手に魔石とか魔力とか自称して良いのかな。冒険者とか魔石とか出てくることからして、現代日本が舞台ではないのは確かだが、それにしたって後からクレームを言われたら困るんじゃないだろうか。あんたの使い方が悪くてヒスイ本来の力を引き出せなかったんだ、と逆切れじみた言い訳をするのだろうか。ろくでもない商売だな。
だが、そういう誇大広告というか、夢のようなコピーが商品に平然と張られていたのは、昔ならよくある話かもしれない。皇帝陛下に世界一の美女を献上するだとか、あらゆる攻撃を防ぐ魔法バリアだとか、現代レベルの証拠を求められたら白旗上げるしかないだろうが、昔なら訴える人も法的根拠も無い。それに、この舞台では魔力だか魔法だかが存在する設定らしいが、それは一般人には知覚できないもののようだ。魔力あるんじゃない?買う人が判断してよ、うちじゃわからんからさ、という丸投げ商法もまかり通るのだろう。蚤の市みたいでちょっと面白いかもしれない。
なんて、私が理屈っぽくぐだぐだ考えている間に、当のヒスイは魔石の腕輪に仕上がったらしい。ヒスイを環状にしたのではなくて、金属か何かの土台に埋め込んだようだ。立派だからそのままの姿を使ったよ、と装飾品職人は言っていたけれど、くりぬいたり削ったりするのが面倒くさかっただけかもしれない。個人的には、そっちの工房の環境音も楽しかったから、もう少し手間と時間をかけてほしかった。