幸福な夢
彼女は不思議な人だった。大人と子供の中間にいるかのような人だった。顔を近づけられて慌てる僕を笑って、次の瞬間には躓いて転ぶ。寿命が僕と違うからだろうか、ちぐはぐな精神が僕を揺さぶる。
卒業式のその日まで、ただ目で追うだけの関係だった。彼女に花束を渡すと、お返しとばかりにチケットを一枚渡された。場所と日付が書かれているだけの、簡素な物だった。街中の噴水のある広場で、コンサートをするらしい。授業が始まる前の朝早くから、誰もいない音楽室でバイオリンの練習をしていたのを知っている。
人とビルとコンクリートが彼女を囲んでいる。コンサートは彼女の所属する楽団の演奏会だ。広場は中央に向かってくぼんでいて、来場者は思い思いの段差に腰を掻けた。舞台背景の代わりに、大きな楽器のケースと、衣装箪笥が横一列に並べられている。調子を合わせる時間が終われば、開演まであと少しだ。
舞台裏に下がった彼女を、ケースと箪笥の隙間に探す。ちらりと一瞬、金髪が見えるけれど、それは彼女の物よりも明るい色だ。さっきトロンボーンを吹いていた人だろう。
頭の上に、何かが触れた。僕はほぼ最後尾席に座っていたので、誰かが後ろを通っても不思議ではない。彼女を探すのに夢中になっていた僕は驚いて、反射的に上を見た。
見下ろすような角度の彼女と目が合った。僕の頬に彼女の薄い金髪が当たる。一瞬、動けずにいると、彼女にキスされた。
「見ててね」
心臓が燃えるようだった。振り返れば、彼女はもう走り去っていた。まとめた後ろ髪が軌跡に線を引いている。演奏が始まるまで、僕はずっと反芻し続けた。
演奏は魔術を含んでいた。小さな精霊を呼び出して、音楽と共に踊ってもらうのだ。それが、一昼夜で出来る事ではない事を僕は知っている。お手玉をしながら、足で将棋をするような芸当だ。
彼女は、目を瞑っていた。自信の表れか練習の成果か、何も視ずに演奏と魔法を両立していた。他の人の年齢は分からないけれど、見た目だけで言えば彼女は楽団の中で一番の若手だ。それでも彼女は他の誰よりも演奏を楽しむ余裕があるように見えた。
魔術には、代償がいる。少しの魔術には少しの代償を。素晴らしい魔術には素晴らしい代償を。演奏が終わると、リーダーらしき人物が演説を始めた。
「この世界は狂っている。常人が我が子を殺し、狂人が他人に手を差し伸べる。人は憎み合い、愛し合っている。音楽を聞かせる場で、精霊を見せている。鋼鉄と炎が、森を焼いている。そして、人々はそれに疑問を持たない」
もしかすると、と思った。強い魔術は詠唱を使う。まだ習ったばかりだが、今のは詠唱ではないだろうか。
「不条理を、矛盾を、思い出せ。サモンズ・デーモン」
とたんに、観客の半分が意識を失ったように見えた。多分、代償を吸われたのだ。僕も何かを吸われた気がしたけれど、体には何ともなかった。空が暗くなり、巨大な穴が開いた。伸びきった指の爪に覆われた、猫の頭がこちらを覗いている。瞳だけが溶けだすように落ちてきて、広場に肉の滝を届かせようとする。
リーダーが指を振って、ビルを指すと、肉が重力の方角を変えて、そちらに落ちていく。それを見てリーダーは口角を上げた。
彼女はどこだ。薄い金髪が見当たらない。僕は立ち上がって、会場から逃げる人の群れに逆らう。進んでも進んでも、彼女は居ない。演奏者の集まりの中に、小さくうずくまる人がいて、少しだけ見る。
彼女だった。焼け焦げたように色が落ち、くすんで輝きを失った髪を、指で撫でている。ああ、僕の代償になってしまった。僕の素晴らしい物になってしまった。