フィリア2 (3)
子供達の食欲は驚くべきもので、私の三日分にも相当する食料を一回で食べ上げてしまった。
ウィリアムは黙々と食べながらもお代わりを要求したし、ジャネットも明るく皿にスープをつぎに往復した。クリスティーナでさえ、口の周りを汚しながらも一生懸命、口に食べ物を運んでいた。
台所で何個もの鍋や皿を洗っている間、自然と心が和んできた。そういえば、料理を人に作ってあげたのは何年ぶりのことだろう。唯一得意といえる料理。私とは母は共に台所に立ち、腕をふるった。
『いい奥さんになれるわ』
彼女はよくこう言ったものだ。
父も手を叩いて絶賛してくれた。大げさに手を広げて『こんな美味い料理は生まれて初めてだ』などと大きな声で言ったものだった。
今となっては、セピア色に赤茶けた写真のような印象だ。懐かしくてほろ苦さを持った、現在に一切影響することのない……。
水の流れが耳に戻り、私は自分がぼんやりしていたことに気づいた。慌てて水を止め、再び鍋を擦り始める。
その時、玄関でノックが聞こえた。誰だろう。私はタオルで手を拭き、玄関ヘ向かった。
ソファに座った子供達が興味深げに私のほうを見ている。
クリスティーナは小鹿のような大きな瞳を向けていた。ウィリアムは宿題の載ったテーブルから顔を上げて。ジャネットはテレビから目をそらしてまで。
私はゆっくりと扉を開けた。
そこにいたのは、ランドルだった。シャツにジャケットにコートという出で立ちで。手に赤い薔薇の花束を持っている。
ジャネットが歓声を上げた。彼は私の肩越しに子供達を見つけた。
「こんばんは。小さなお客様だね。お邪魔かい?」
私は子供達を振り返った。
ジャネットがソファから飛び降り、こちらへ駆けてくる。彼女は私の傍で立ち止まり、ランドルの顔をじっと見た。嫌な予感がした。だが、遅かった。ジャネットは止める間もなく、聞いていた。
「ノマ先生の恋人なの?」
彼は一瞬、ジャネットの方を凝らすように見ると……、
「そうだね」
微笑んで、悪戯っぽく言った。
再び彼女の口から歓声がもれる。私は混乱していて、否定する言葉さえ思いつかなかったのだが。
彼は私に花束を持たせて部屋の中へ入ってきた。
「やあ、こんばんは」
奥のウィリアムの方へ挨拶する。ウィリアムは軽く会釈した。
そして、ランドルはクリスティーナへと近づいていった。
クリスティーナの緑の瞳は、彼に釘付けになっていた。彼が歩み寄るにつれ、瞳が見開かれていった。その場で後退りするようにソファの背もたれに体を押し付ける。彼女の瞳が、それから体が震え出した。突然凄まじい泣き声が彼女の唇から漏れた。何とかして逃れようとするように爪でソファを引っかいている。
「クリスティーナ!」
ウィリアムが覆い被さるようにして、彼女の名を呼んだ。しかし、彼女は半狂乱になって泣き叫んでいた。
ランドルは愕然と彼女を見つめていた。どうすることもできないまま。
クリスティーナは言葉にならない声を上げていた。兄にしっかりとしがみついた状態で。ウィリアムは彼女の背を軽く叩きながら、あやしていた。それでも彼女は落ち着く様子を見せなかった。
「あの……あの……」
ウィリアムの腕の下から手を伸ばしている。その指の示す先には、ランドルがいた。
彼女の顔を胸にうずめさせたまま、ウィリアムは振り返ってランドルを見た。
ランドルは、はっとしたようだった。彼はクリスティーナに背を向けて、こちらへ戻ってきた。
唖然としているジャネットが彼を目で追う。
彼はドアの横にいた私の腕を掴んだ。花束が音を立てて床に落ちる。
半ば引きずられるようにして、外の廊下へと出た。クリスティーナの泣き声が開いた扉からもれる。彼はそれを後ろ手に閉めた。
私と彼は向かい合っていた。彼は目を伏せている。声をかけようとしたとき、彼は顔を上げて私を見た。夕闇を思わせる瞳が私をしっかりと捕らえる。
「子供達を驚かせてしまったようだ。今日は去るべきなんだろうね」
彼は細く息をつき、ドアをちらりと振り返った。
「君とゆっくり話がしたかった。あのまま別れるのは嫌だったんだ。あんな印象のまま君の記憶に残るなんてね」
私に視線を戻して、彼は言った。
彼の瞳に力があるのは明らかだった。人を幻惑させる力。彼はそれを意識しているのだろうか。私には確信がなかった。
彼が近寄ってくる。私は思わず後退り、壁にぶつかった。
彼は壁に手をつき、私から視線をそらさずに言った。
「また来てもいいかい? 話をしたいんだ、本当に」
私は彼の顔を見続けることができなかった。
彼の瞳を見たなら、以前のようになってしまいそうだった。彼に抱きしめられても自然と思えるような。胸が苦しかった。彼ともう二度と会いたくないように感じた。これ以上彼と会ったなら……。
だが、私は拒否することができなかった。襟元に折り込まれたスカーフを見ながら瞬きもできずにいた。
彼は私に触れないまま、離れた。
私は壁に張り付いたように動けなかった。足音が離れていくことを知りながら。
彼の乗ったエレベーターが下り始めたとき、私の呪縛は解けた。私はエレベーターを振り返ることもしないで、ドアを開き、部屋に入っていた。
部屋の中は静かだった。クリスティーナはすでに泣き止んでいた。それどころか、疲れ果て、ソファの上で眠り込んでいた。彼女に手をしっかりと握られたウィリアムが、苦笑を浮かべて私を見た。
ジャネットが寄ってきて、そっと言った。
「先生の恋人のこと、秘密だよね」
彼らにとっても私にとってもクリスティーナが泣いた理由はどうでもいいことだった。彼女はもともと勘の激しい子供だったのだから。
彼女が何を感じたのか、あるいは何を知っていたのか。私達には永遠に分からないことなのだ。
私は彼女の天使のような寝顔を見ながら思った。先ほどのような不機嫌さが、彼女に再び訪れることがないようにと。
私のためにも。そして、彼女自身のためにも。




