フィリア2 (2)
暮れなずむ街の中を私は歩いていた。
瞬きをして点り始める街灯。人々の影は周囲の風景に溶け込んでいた。
黄昏時。まるで異世界に踏み込んでしまったようだ。人も物も平面に閉じ込められたような感覚。ひどく奥行きのある絵画。そのように見えた。
……手がやけに痛む。
重い買い物袋が指に食い込み、指先の感覚を奪っていた。いつもの倍は量があるのだ。
もう片方の手に持ち替えてみる。袋を持っていた手のひらが熱かった。うずくように熱を発している。
車が目の前に迫るぎりぎりのところで、何とか大通りを渡りきっていた。
二台の車がすれすれに通るほどの道にさしかかる。
もう一度袋を持ち替えようかと考えた時だった。乱れた足音が背後に聞こえた。
「フィリアさん!」
名を呼ばれたことに驚きながら、振り返る。そこにいたのは顔なじみの本屋の店員だった。
彼は相当慌てて飛び出してきたようだった。細くふさふさしたブラウンの髪が乱れている。手にした厚い本を差し出して、走り寄ってきた。
「この前、注文した『児童教育』の本が今日入って」
彼は息を切らせて言った。
「ああ、ストロークさん。でも……」
私は買い物袋に目を落とした。
ようやく状況に気づいたクレバー・ストロークは、きまり悪そうに本を引っ込めた。改めて私の荷物を見る。
「重そうだ。ちょっと待ってて」
彼は本屋の方へ走り戻った。
入り口に店主が立っていて、こちらを見ていた。恰幅のいい白髭の老人だ。
ストロークは主人の傍をすり抜けて、店の奥に入った。そちらへ向かって老人は何か言っていた。
持ち出したコートに腕を通しながら出てきたストロークが彼と二、三言言葉を交わしている。すると老人は微笑んで、彼の背中を見送った。
ストロークは、私の手から重い買い物袋を取り去った。その片手にはあの『児童教育書』を持ったまま。
「一石二鳥だろう? 家まで運ぼう」
彼の顔にいつもの気さくな笑顔が浮かんだ。人をほっとさせるような表情だ。
「でも……」
私は本屋のほうを見やった。老人がこちらを見ていた。
「母親の代からのお客さんだからって。大事にしなきゃと言っていたよ」
彼は歩き始めるように促した。
私達は肩を並べて歩き出した。私はしびれてしまった手を揉みほぐしながら。
ストロークは人を安心させるような雰囲気を持っていた。それは少年の頃から変わりはなかった。まだアルバイトの店員だった頃から。
笑うと目の端に浮かぶ笑い皺のせいだろうか。それともいかにも優しそうな大きな鳶色の瞳のせいだろうか。
母は彼がお気に入りだった。彼女がクッキーやキャンディを渡すのを何度か見たことがあった。ストロークが遠慮しなければ、部屋にだって上げていただろう。
……とにかく、彼とは気を遣わずに話せた。
昔から知っているというだけではない。好きな本、音楽、映画などの話。たとえ好みが違っても、彼はあの魅力的な微笑を浮かべながら、いつまででも話を聞いてくれるのだ。
私の夢。一生教師を続けたいという希望にも彼は耳を傾けてくれた。
『一生をかけたい仕事をもてるなんて、素晴らしいことだよ』
彼はそう言った。
つまらない世間話さえ、彼が口にすると興味深く感じられたものだ。
彼と私は最近アメリカで起こった銃の乱射事件について、意見を交わし合った。二人が意見を出し終わる前にマンションへとたどり着いた。
私がエレベーターに乗ると、彼は手を伸ばして私の部屋のある三階のボタンを押してくれた。
私は彼から本を受け取った。買い物袋はエレベーターの床に置かれていた。
「ありがとう」
「どういたしまして。また店の方に寄ってくれたらいい」
彼の言葉がようやく最後まで聞き取れた。手を振る彼を残して、エレベーターの扉が閉まり、上へ上がり始める。
やがて三階へ着いた。扉が開いたとたん、子供達の声が聞こえてきた。
私はオースティン夫妻との約束を改めて思い出していた。ジャネットがエレベーターの中に飛び込んでくる。
「ノマ先生!」
彼女は私の手を引いて、エレベーターから出ようとした。
私は慌てて買い物袋を持ち上げた。重さで指が反りそうになるのを押さえて、よたつきながらエレベーターから出た。
廊下にはオースティン夫妻が待っていた。二人はパーティ用の衣服に身を包んでいる。
末っ子のクリスティーナが夫人のコートを握って立っていた。その後ろには長男のウィリアムがいる。
“預かっていただくなんて申し訳ない”
夫妻は口々に言った。それでも気難しいクリスティーナがそっと私に寄り添った時、二人は安心したようだった。
ウィリアムは兄らしく冷静に。ジャネットは子供らしくはしゃぎつつ、両親を見送った。
二人が去って、素早く動いたのはウィリアムだった。買い物袋を持ってくれる。
ジャネットが不服の声を上げた。彼は仕方なく、袋の片端を持たせた。妹のほうが軽くなるように袋を傾けて。
私はクリスティーナの肩を抱くようにして、ドアの鍵を開けて子供達を中に入れた。




