フィリア2 (1)
昨晩の出来事は現実なのか。ランドルは何者だったのか。
昼間の私には、それを考える余裕などなかった。
私は仕事に専念した。いや専念せざるを得なかった。子供を相手にする教師という仕事は、とても忙しい。ほかの事を考えている時間などないほどに。
子供達の行動は、いつも私の想像を越えていた。伸びやかな感性に大胆な行動力。
そして、私はこの仕事を愛していた。かつて教職についていた母の影響だろうか。
とにかく仕事の間中、私は昨日のことを忘れていた。幾日か経つ頃には思い出そうとすることもなくなった。
私はいつもの通り生徒達の間を歩いた。いつものように彼らに語りかけた。以前の私と全く変わりなく。そうだ、夢は現実を揺るがしはしないものなのだ。
終業のベルが鳴った。生徒達がざわめきだす。
ホワイトボードの前でテキストを閉じた。子供達はすでに帰る準備を始めている。
放課後、誰の家に遊びに行くのか。今日のおやつは何だとか。今日は見るテレビはどれで、何のほうが面白いだとか。色々な話題が飛び交う。
私は大きな声を出して宿題を告げた。教室が一瞬だけ静かになる。
そして、終わりの挨拶をしてテキストをバッグに入れると、子供達は勢いを取り戻し、ざわめきながら私の傍までやってくるのだ。
子供達を導き、校舎の入り口まで向かう。そこには彼らの親達が待っているのだ。
この人はチャールズのお母さんで、この人はアマンダのお父さん……。確かめながら子供を引き渡していく。
私の仕事の中で最も気を遣う、そして最も好きな時間だ。家庭の中が垣間見える一瞬。
親がどれだけ我が子を愛し、子供がどれだけ親を信頼しているのかが見えてくるようだ。
「さよなら、ノマ先生」
「先生、さようなら」
子供達は口々に声をかける。ほっとしながら彼らを見送る。教師になって二年になるが、この気持ちは毎日のものだった。
私は外まで出て、子供達の後ろ姿を見送った。
その時、何かが後ろから私の上着を引っ張った。振り返ると、そこにいたのは赤毛の髪を三つ編みにした少女ジャネットだった。
マンションの一階下に住むオースティン夫妻の子供だ。彼女は隣のクラスの生徒だった。
「また後でね、先生」
背伸びをして、唇の傍に手をかざすと彼女はそっと言った。そばかすの顔が屈託なく笑っている。
「ええ、今晩ね」
私も彼女に笑い返しながら、声を細めて言う。ジャネットは二人の秘密に満足していた。
上着からぱっと手を離すと、先で待つ母親らしい姿の元へ駆けていった。私は彼女が視界から消えるまで見送った。
先ほどとはうって変わって、校舎は静まり返っている。扉を閉めてスタッフルームへ向かった。
灰色の雲の隙間から、オレンジ色の光がベールのように広がっている。窓越しに見えるそれは、暖房のきいた、乾いた空気の中にいるというのに温かそうに見えた。
その風景を最後に一瞥してから部屋に入った。
たくさんのソファが並べられた部屋。その中央に若い教師が三人群がっていた。その中心に、背の高い女性、ルース・ピケットの姿があった。
ルースが何か言っている。教師達はすでにコートを着、鞄を手にしていた。
私は、ぼんやりと彼らの目的を知った。
構わず、部屋を横切り、隅にあるコーヒーメーカーの前に立つ。ルースが気づき、近づいてきた。私は彼女を見守る教師達に驚きの表情が浮かぶのを知っていた。
「フィリア」
ルースのはつらつとした声。
私は彼女を見た。明るい赤のワンピースを身につけ、パーマで波打った黒髪を束ねている。大きな金の輪のピアスがきらきら光っていた。
「今から飲みに行くの。一緒に行かない?」
強引さは全くなかった。彼女が好意で声をかけてくれたことは分かっていた。
いつも必ずといっていいほど誘ってくれるのだ。私が断ることを知っていながら。
「用事があるから……」
たとえ今晩用事がなかったとしても、行くつもりはなかった。仲間内での飲み事ほど、私が苦手なものはなかった。
アルコールは人と人の関係を円滑にするというが、私にはそうは思えなかった。
関係は密になるどころか、一人はじき出された自分を実感するのだ。やけに後味の悪い印象を残して、酔いは去っていくだけだった。
私は口をつぐみがちになり、周りの者達は気まずい思いをすることになる。
だから、無理やり理由を引っ張り出し、途中で退散……最近では辞退するようになっていた。
「そう、残念ね」
ルースは本当に気落ちしたように言った。
「また、今度一緒に行きましょう」
彼女の背後の教師達は興味深そうに私達を見ていた。
ルースは彼らを振り返った。彼女は何か言いたそうだった。
それを知りながら、私は目の前のポットに視線を戻した。プラスチックの取っ手がついた紙コップを取り出して、その中に熱いコーヒーを注ぐ。
それで、ルースは言葉を見つけることもできないままに離れていった。
申し訳ないという気持ちがないわけではない。
何かと気遣ってくれる彼女。それが母への恩義ゆえのことだったとしても。
彼女は母の教え子だった。尊敬する教師として母の名を上げていた。
私はそれをいつも複雑な思いで見つめていた。娘である私よりも、ルースの方が母に似ているような気がしていた。私は母にはなれない。何もかも似つかわしくないように思えていた……。
考えを打ち切ったのは、思い出に浸ろうとする自分に気づいたからだけではない。
皆が部屋を出て行く気配がしたのだ。顔を上げてまで、それを確かめようとはしなかったけれど。
カップを持ち、その温かさに触れようと片手を添える。
スタッフルームは静かになった。そして私は一人だった。