ランドル2
それは一瞬の感覚だった。
恐ろしいほどの存在感。いや威圧感といったほうがいいだろうか。
それが父である、ナイトのものだということはすぐに分かった。
わたしはフィリアの部屋を出て、一番近くの窓に駆け寄った。
格子窓のくすんだガラス越しに外を見る。廊下は薄暗く、その淡い明かりのせいで外はより暗さを増していた。だが、そんなものは、わたしの目にとって大した障害にはならない。
にもかかわらず、ナイトは街灯が照らし出す光の中に立っていた。
コートのポケットに両手を突っ込んだまま、道を挟んだ歩道にたたずんでいる。
その顔は険しいというよりは、むしろ無表情で能面のようだった。
その異様さ。いつもの父とはまるで別人のようだ。
わたしの視線に気づいたかのように、彼は顔を上げ、まっすぐにこちらを見た。
離れた場所であるというのに、まるで傍で向かい合っているかのようだ。圧倒的な力が流れてくるのを感じた。
自分を奮い立たせながら、わたしはすぐにその場に向かった。エレベーターより近くにあった非常階段を駆け下りる。
下に降りつき、先ほどまで姿を認めた場所を見やった。だが、そこに彼の姿はなかった。ただ、光だけが静かに降り注いでいる。
車が一台通り過ぎていく。それを待ってから、わたしは道を渡った。
ほんの何メーターかの距離だというのに、なんと遠く感じられることだろう。足の運びはもどかしく、まるで何かに絡めとられているかのようだ。
これもナイトの影響だというのだろうか。
思うようにまかせない身体に反し、神経は研ぎ澄まされていた。動くものであれば、すべてを捉えることができるほどだった。
だが、彼を感じることはできなかった。先ほど見たものが幻のように思われた。
それでも、間違えようはなかった。いったい誰にその真似ができるというのだろう。彼はわたしに気づかせるために、あれだけの気配を示し、姿を現したのだ。
ようやくナイトが立っていたであろう場所に着いた。彼を照らし出していた街灯にくくりつけられたものを見つけて愕然とする。
微かな風に吹かれてそよぐそれは、夜に咲く不吉な花のようだった。
見覚えのある赤いベルベットのリボン。
端を引っ張るとやすやすと解け、わたしの手に収まった。その柔らかな表面に指を滑らせる。見直す必要などなかった。
それはあの子供の……わたしとフィリアをつなぎ合わせた、キルティンの髪に付けられていた物だった。
唇をかみしめる。
まさか、ナイトはあの子を傷つけたというのだろうか。
いや、そんなことはありえない話だ。彼が幼子を襲うことなど考えられなかった。大体彼が好むのは若い女性の血だった。
ならば、どうしてこんなものを残していったのか。
リボンを握る手に思いのほか力が入る。それは、わたしの手を汚す血のように見えた。悪い予感を呼び覚ますもの。
ナイトの仕業だ。導き出した答えに総毛立つ。
リボンを結びつけたのはもちろんのこと、彼があの子供を差し向けたのだ。わたしが約束を守るかどうか試してみたということなのだろう。
つまり、彼は全てを見ていて、全てを知っているということだ。そして、それを知らせるためにわざわざ姿を現した……。
わたしは瞬時にさらに神経を尖らせ、辺りを探った。ナイトがまだ近くにいる可能性は十分にあった。何か痕跡がないか周りを見渡す。
石畳の道路を進む車の音が遠くに聞こえて、消えていった。テールランプの明かりももう見えない。
辺りは夜の静けさを取り戻していた。ちらちらと瞬きを繰り返す街灯の音が耳障りに聞こえるほどに。
路にはわたししかいなかった。少なくともナイトはこの周囲からは姿を消していた。
それを確信して、一気に力が抜けるのを感じていた。
彼は会うまでもないと判断したのだろう。事実、それだけでその意図は通じていた。
『自分のしていることを落ち着いて考えろ』
彼の声が聞こえるようだ。
だが、わたしはフィリアに会い、彼女と話し、この手で彼女に触れたのだ。それは事実であり、それこそ、わたしの望んだことだった。それを否定するつもりはない。
ナイトの言いたいことも分かっていた。
そもそも、彼は他の者の恋愛に口をはさむようなタイプではない。少なくとも今まではそうだった。
今回が特別なのだ。相手が人間。それが問題なのだろう。
わたしは歴史としてしか知らないが、昔のわたしたちは人間に対して、ことにヴァンパイアと通じた人間に対して残虐の限りを尽くしたという。
多くの人間、そして間に生まれた混血児の死が見世物でしかなかった時代。
ナイトはその頃のことを多くは語らない。他の年配者も同じだった。
現在も人間とそういったかかわりを持つことはタブーとされた。特に口に出すことではない、暗黙の了解……。
破天荒な行いを好むナイトでさえ、それには一応の従順さを示していた。それは過去いかに恐ろしいことが起きていたかを如実に物語っている。
だが、現在において、それがどれだけの意味を持つのだろう。
人間を擁護する立場をとる強力なヴァンパイア、トレヴィスの影響力が大きいこのイギリスで。過去の惨劇が公然と繰り返されることなど想像もできなかった。
父の思いが理解できないわけではない。それでも、その掟に必ずしも従わなければならないとは、思えなかった。
わたしは正面にあるフィリアのマンションを見上げた。窓のいくつかにはまだ明かりが点っていた。そして、彼女の部屋の窓にも、また……。
彼女は今どうしているのだろうか。
その姿を思い描き、名をそっと呟く。まだ耳にも口にもそう馴染んではいない名前。だが、心の中では何度も繰り返していた……。一度は忘れようとしたが、どうしても忘れられなかった。その笑顔やわたしを呼ぶ声を。
再びそれを目にしたい、耳で味わいたいと思っていた。会うことができれば、叶うことだと信じていた。
だが、わたしの前に現れたフィリアは……。
美しい髪は下ろされることなく、笑顔も浮かぶことはなかった。まるでそれがわたしの夢であったかのように。
かつてのナイトの言葉は本当だった。
「それは思い出でしかない。彼女にとっても同じだ」と。
頭では分かっていた。ネズミの姿のときと今とでは違って当然だとは。
それでも、そのよそよそしさは耐え難いものだった。
遠い彼女へのもどかしさと、そばに感じたいとの思いで半ば強引になっていたのは否めない。
あの時、ナイトの介入がなければ、どうなっていたのだろう。
手の内のリボンを再び見て、わたしは自嘲気味に息をついた。
これで冷静だと言えるのだろうか。今でさえ、彼女の元に戻りたいと願っているというのに。
リボンをそっとポケットにしまう。
それから、街灯の光の下から抜けて歩き出した。今はそうするべきだと分かっていた。
夜の冷え冷えとする空気を胸いっぱいに吸い込む。
体に染み入る冷たさが、このうかれた熱を取り去ってくれることを願って。
静まり返った道を歩きながら、わたしは夜明けまでには遠い、まだ暗い空を見上げた。