フィリア1 (2)
角を三つ曲がっただけで、ホテルは完全に見えなくなった。
私とランドルは肩を並べて歩いていた。
ここは大きな通りだったが、時間が遅いためか車の通りは少なくなっていた。店もほとんどが扉を閉ざしている。目に付くのは、ライティングされた看板とぼんやりとした光を放つショーウィンドーくらいなもの。
ウィンドーの中ではマネキンが無表情に立っていた。一人でなら足早になってしまうだろう、夜の静けさに包まれた街。
「無事に見つかってよかった。随分夜もふけているしね」
恐れなど無縁のランドルの声。
彼はちらりと空を見上げた。それは私を落ち着かない気分にさせた。なぜかは分からないのだが。
「あなたのおかげです。私一人じゃとても……。ありがとうございます」
「礼には及ばない」
彼は私を見た。まったく自然な仕草だった。
今や私は彼を昔から知っているような懐かしささえ感じていた。出会ったときは、近づきがたいとさえ思ったことが信じられなかった。
キルティンのおかげだろうか。いや、それだけではない気がする。
私は立ち止まった。ランドルの背中を目にして、彼が去っていくことを知った。そして、おそらくもう二度と会うことはないことも。
彼は後ろで立ちすくむ私に気づき、振り返った。
初めて会った人に対して、ばかばかしい思いだと思う。それでも私は彼を引きとどめたかった。
「あの……お茶でも。付きあわせてしまったお詫びにもならないだろうけれど」
言い終わってから、はっとした。夜は本当に更けていた。店など開いている時間ではない。
「私の家が近くなんです。お茶でも飲んでいってください」
私は慌てて言葉を継いだ。
ランドルの浮かべていた微笑が消えた。彼は身じろぎした。私を見つめている。
続く沈黙が私に冷静さを取り戻させた。こんなことは正気の沙汰ではなかった。こんな夜中に初対面の男性を部屋に招くなど。彼はどう受け止めただろう。
それでも彼とこのまま別れたくないという気持ちは強かった。自分でも驚くほど強い思いが……。
「ご馳走になろうか」
しばらくして彼はにこやかに言った。タイミングを計っていったとさえ思えるほどだった。
私はほっと息をついた。彼の言葉から他の意図は感じられなかった。
私たちは共にマンションに向かった。少なくなった車の通り、まばらな人たちを背にして。
客人が私の部屋を訪れるのは随分と久しぶりのことだった。
もっとも、その時の私はそんなことなど思いつきもしなかったけれど。
彼をリビングのソファへ案内する。
コートを脱ごうと彼に背を向けた私は視線を感じた。素早く振り返ると、彼はちょうどソファに腰を沈めるところだった。
気のせいだったのか。私の感じすぎだろうか。私はいぶかしみながら、キッチンへ向かった。
両開きのガラス窓の戸棚から、一対のカップとソーサーを取り出す。埃っぽいような気がしたので、布巾で丁寧に拭いた。あまりにも一生懸命磨いたので、一瞬隣の部屋にいるランドルの存在を忘れるかと思うほどだった。
テーブルにきちんと揃え、下の棚からケトルを取り出す。
紅茶の缶とコーヒーの袋を目の前にして、私は考え込んだ。どちらがいいか聞くのを忘れていた。基本的な過ちに少し慌てながらランドルのいる部屋に戻った。
彼は自然にソファに座っていた。窓のほうを見ている。私はその視線をたどった。
窓枠に揃えて置かれたチェスト。その上の箱。彼はそれを見ていた。以前、飼っていたネズミの巣箱だった箱だ。
部屋の前に置き去られていたネズミ。
入れられていたバスケットには、私の母に預かってほしいとの手紙が添えられていた。
黒い毛のかわいらしい“ランディ”という名のネズミ。
私が出かけている時にいなくなってしまった。
それでも、その箱を捨てきれないでいた。ある日、その箱を覗き込んだなら、ランディが戻ってきていそうな気がするから。
あのくりくりとした目。絶えずひくひくと動かしていた鼻。かろうじて指先の分かる小さな手。呼びかけると駆け寄ってきた、あの小さな子。
何故今になって思い出すのだろう。私は思い出したくなどなかった。部屋の隅々まで探して、ランディがいなくなったことを知る自分。悲しみと戸惑いの中で涙にくれる自分の姿など忘れ去ってしまいたかった。
私はランディさえ失ってしまったのだ。ランディさえも。
私ははっとした。ランドルがこちらを見ていた。
「……ごめんなさい。何がいいのか分からなくて」
慌ててのつまりながらの言葉。
彼はかすかに首を振りながら立ち上がった。“全く構わないよ ”と彼の瞳は言っていた。
「だけど……」
立ち尽くしている私のほうへ歩み寄ってくる。私をじっと見つめたまま。
猫のようにしなやかだが緩慢にさえ見える彼の動き。起きたまま夢でも見ているようだ。まるでオブラートに包まれたような感覚。時はいつものように流れているのだろうか。
あと一歩で体が触れ合いそうなところで、彼は立ち止まった。ゆっくりとその手が持ち上がり、私の頬を縁取るような仕種をした。しなやかな長い指が私の耳に触れそうになる。
私は身動きさえできなかった。
「フィリア……」
初めて彼が私の名を呼んだ。味わうようにゆっくりと。細波のような優しい囁き。
「どうして髪をほどかないんだ」
私は何も考えられなかった。どうすることもできなかった。
彼の手がスティックを抜き取り、解きほぐされた髪が肩に落ちてきた時さえも。これが現実に起きていることなのか自信がなかった。
私は彼の瞳を見ていた。青い瞳がますます深さを増してゆく。まるで海のように。海を潜ってゆくかのように。深海の色。夜の海の色。心細さはない。恐怖もない。まるで海に抱かれているような気分だった。
私を取り巻く海。力を抜いても溺れることはない。熱くもなく冷たくもない優しい水を感じた気がした。
やがて温かさ。背中に回された腕の感触。気がつくと私は彼に抱き寄せられていた。それが自然なことのように思えていた。彼を本当に身近な存在に感じた。
彼のセーターに私の頬が触れる……。
そう思われた時だった。変化が起こったのは。彼の体に緊張が走り、凍りついたようになった。色の濃い瞳は見開かれ、全ての光を飲み込もうとしているようだった。
「ナイト……」
呷きとも溜め息ともとれるような声。
私はその言葉に覚えがあった。メモ。メモにあった名前だ。ランディのバスケットに入っていたメモ。珍しい名前だったので記憶に残っていたのだ。その人物と彼がどんな関係にあるのか。考えはそこまで及ばなかった。
ランドルは窓の外を見やり、そして振り返って私を見た。
瞳に穏やかな光が点る。以前の彼に戻っていた。そして、魔法も力を取り戻していた。
ランドルは何か言った。
「もう遅いから」或いは「時間も時間だし」、「もう行かなければ」……。後になって何度も彼の言葉を思い出そうとしたが、無駄だった。遠い思い出をたぐるようなものだ。
その時の私は、ただうなずいて、彼の背中を見送ったように思う。まったく……それさえも定かではないのだ。
この感覚は、私が眠りにつくまで続いた。そのため、私が取り残されることはなかった。翌朝、目覚めた私には全てが夢に思われたくらいだった。




