フィリア1 (1)
私の名前はフィリア・ノマ。私立小学校の教師を勤めている。
私はロンドンのダウンタウンにある旧いマンションに住んでいた。
ほとんど毎日が学校と家との往復。休みの日も図書館へ通うかせいぜいショッピング。
私が他の人たちから見て、退屈な人間だと映ることはよく分かっている。平凡だが、穏やかな日々。これが変わるなんてことは考えもしなかった。
当の体験者である私が言うのだ。夢想だと思われても仕方のないことだと。
だが、これからお話することは全て真実なのだ。ひとかけらのフィクションも入っていない物語。
信じ、耳を傾けてくれる人だけに語られるべきもの……。
その日、私は、夜のとばりが降りて久しい大通りを歩いていた。
それは予定外のことだった。
仕事を終えた後、図書館で調べ物をしていたのだが、夢中になりすぎて時間が経つのを忘れていたのだ。
いつもはそれほど人通りの多くないこの道も週末を迎えた今日はにぎやかだった。
人々の足音。話し声。車のエンジンに、たまに鳴らされるクラクションの音。
そして光。街灯に車のライト、ショーウィンドーの輝き、看板のネオンサイン。
カップルや親子連れでにぎわっている。皆寒さを知らないかのようだ。人々の森のようなこの街。
私は彼らの間をすり抜け、家へ向かっていた。
噴水のある広場。そこに差しかかったととき、私は引きつけられた。子供の声。泣きながら母親を呼ぶ声だ。
噴水の前をうろうろとしている。赤いフード付きのコートを着た少女。
私はその子のそばへ行き、軽く肩を叩いた。
「ママ……?」
期待に溢れた言葉。
寒さで赤くなった頬を涙で濡らしながら、それでも彼女は微笑みながら振り返った。
しかし、私の顔を見るとその微笑みはすぐさまかき消えた。少女の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
私は彼女の肩を掴んだまま、しゃがんだ。
「パパとママはどうしたの?」
彼女は顔を上げた。金の睫毛に縁取られたアメジストの瞳が再びこちらへ向いた。
「いないの。行っちゃった」
「おうちはどこ?」
「ニューオリンズ……」
「アメリカの?」
少女はうなずいた。
金色の巻き毛が揺れた。
年は五歳ほどであろう。ハーフポニーに大きな赤いリボンをつけていた。大げさすぎるようなそのリボンも人形のようなその子供にはぴったりだった。
「飛行機に乗ってきたの。大きなホテルに泊まって。ご飯を食べにきたの……」
肩を震わせていたものの、彼女は泣きやんでいた。私をすがるような瞳で見ている。
「ホテルの名前、覚えてる?」
「えっと……ブライトン 」
思わず安堵の溜め息をついてしまう。
外国の子供だと知った時には、どうしたものかと考えていたのだが。
少女に聞こえてしまっただろうか。
ブライトンホテルなら知っていた。この辺りでは有名な豪華なホテルだ。位置もだいたい分かっている。
だが、少女の両親は心配しているだろう。先に連絡を入れた方がいい。
そう思った私は、電話ボックスを探した。
あいにく見当たるのは一つだけ。そこには電話中の女性と順番待ちの男性の姿があった。
私は少女を連れてホテルまで行った方が早いと踏んだ。
「ブライトンならこの近くよ。連れて行ってあげるわ」
安心したように少女は頼りきった笑顔を浮かべた。手を私の手のひらに押し付けてくる。子供の大胆さ。彼女はすでに一人泣いていた自分を忘れたかのようだ。
私たちは歩き始めた。人々の流れに逆らうことなく街に溶け込んだ。
ショーウィンドーの中のおもちゃやぬいぐるみ、そしてモニター。周りに溢れる活気ある人々。少女の視線が一つにとどまることはなかった。しきりに話しかけてくる。
家族のこと、ペットのこと、ニューオリンズの家のこと。
まるで私が全てを知っているように彼女は話していくのだ。子供特有の押し迫るような情熱を持って。
それが落ち着くまでどれだけの時間がかかっただろう。正直なところ、分からなかった。
次第に彼女の集中力は薄れ、「まだ?」と繰り返して聞くようになる。足取りが重くなる。
「疲れた」の言葉とあくび。彼女の注意を引きつける物はなくなっていた。
あたりは閑散としていた。人通りもまばらで光といえば街灯と建物の窓からこぼれるものだけ。
とてもブライトンのようなホテルのある場所ではない。何故こんな所へ来てしまったのだろう。知らない街というわけではないのに。
迷子を届けようとする私が迷ってしまったのだ。こんな幼い子供と一緒では笑い話にもならない。
どうするべきだろう。私は立ち止まり、辺りを見回してそれから考え込んだ。
少女はそれで全てを察してしまった。
「あの人に聞いてみようよ」
彼女は促した。その視線の先には一人の男性の姿があった。ざっくりとしたセーターを着た黒髪の……。
先ほど見渡した時には、その存在さえ気づかなかったのだが。おそらくそれは光の届かない、薄暗さのせいだったのだろう。
彼は自然にこちらから視線をそらし、歩き出した。私はそれを見送ろうとした。声をかけてとどめようとは思わなかった。
だが、少女は違った。いつの間にか私の傍から離れていた。
彼の前にいて、行く手を阻んでいた。私に向かって手招きする。
黒髪の男性はまったく驚いていた。私と少女を交互に見ている。
私はおずおずと彼に近づいた。
「あの……ブライトンホテルの場所をお聞きしたいのですが……」
彼の濃いブルーの瞳が私をじっと見つめた。
息が止まるかと思う一瞬だった。眩暈さえ覚えた気がした。彼がすぐさま視線をそらしたために、大事にはいたらなかったのだが。
この時初めて、その整った容貌に気づいた。
「ブライトンなら逆方向だ」
深みのある優しげな声。耳障りだと思う者など一人としていないだろう。
「向こうに塔が見えるだろう。あの辺りだ」
私と少女は彼の指し示す方向を見た。言葉どおり、そこにはライトアップされた時計台が見えた。
その手前の大きな建物。あれがブライトンなのだろう。さほど遠い距離とは思えなかった。
「ありがとうございます」
私は礼を言いながら少女のほうを見た。
彼女はいまだ彼のそばにいた。何かを話しかけている。困惑したような微笑が彼の顔に浮かんでいた。
少女は彼の手を両手で包み込んだ。それで決まりだった。彼はうなずいて、少女の手を引き、こちらへやって来た。
「ブライトンまで案内しようか?」
「早くママとパパに会いたいの」
……そうして、私たちはまるで親子のように少女をはさんで歩き出した。
少女はひっきりなしに彼に話しかけていた。前に私に話したことも含めて、思いついた先から話していくのだ。
子供特有の順序のなさ、まとまりのなさ。彼はそれを楽しんでいるようだった。時にあいづち、質問をおりまぜて聞いていた。
そのうち、私は奇妙なことに気づいた。彼は少女を“キルティン”と呼び、少女は彼を“あなた”と呼んでいるのだ。
「そういえば、お名前聞いていなかったし、言わなかったわね」
「――――― 」
聞き取れなかった。
それはそうだろう。二人が同時に名乗ったのだから。
彼らは顔を見合わせて笑い出した。あまりにおかしそうに笑うので、私もつられて噴き出してしまった。
「ランドル・ウェルボルンだ」
「キルティン・ウェバーよ」
二人はそろって手を差し出した。
「私はフィリア・ノマ」
次々と握手する。
私たちは本当におかしくなってしまって、大きく声を上げて笑った。それはどこかの犬が吠え出すのを誘うほどだった。
ランドルは唇の前に人差し指を押し付けて“静かに”とジェスチャーした。
私は笑いをかみ殺したが、キルティンはどうも上手くいかない様子だった。くすくす笑いがもれている。
このことで、私たちの雰囲気は一気に和やかになった。ホテルへの道は小さな旅にでも感じられたほどだ。
だが、ランドルの的確な指示で、私たちが費やした時間の半分もかからず、すでにホテルが見える距離にたどり着いていた。
疲れに負けて彼の背中におぶわれていたキルティンもそれに気づいた。
彼女は地面に降りると、それまでの自分など忘れて、私たちをどんどん引っ張っていった。とどめていなければ、車の行き交う道を突っ切ろうとする始末だった。
玄関へと続く階段を半ば引きずられるように駆け上がり、ロビーへと入った。
「ママ!」
ロビーのソファに沈み込むようにして座っていた女性が立ち上がった。
キルティンは彼女に駆け寄った。二人は抱き合い、母親は神への感謝の言葉を呟いていた。
「あの人たちが連れてきてくれたの」
少女の小さな指が私たちを指す。それでようやく母親は私たちの存在に気づいた。
娘の手を取り、こちらへやって来る。
彼女は父親がまだ外で娘を探していること、警察に捜索をお願いしたこと、そしてどれだけ心配したかを早口でしゃべった。私たちへの感謝の気持ちを何度も言葉をかえて口にした。
「せめてお名前だけでも……」
彼女は言った。
私は「当たり前のことをしただけですから」と答えなかった。それはランドルも同じだった。
「でも、楽しかったわ」
キルティンが言った。母親にしがみつくように立ち、金の髪を撫でられながら。
彼女たちは私たちを見送ってくれた。ホテルの玄関から私たちが見えなくなるまで。
ことにキルティンはちぎれるかと心配になるほど、手を振っていた。