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ランドル1 (3)

 ハロウィンから数えてちょうど一ヶ月前の夜、父ナイトが訪れた。

 それは突然の訪問だったが、驚きはしなかった。ナイトの性格を知るものなら分かるだろう。彼には予定などないのも同じなのだ。

 彼は外から窓ガラスをコツコツと叩いていた。わたしは駆け寄り、それをやめさせなければならなかった。

 寝入ったばかりのフィリアを起こしかねない。ナイトは外の壁に貼り付くように立っていた。

『親父……』

 わたしは囁いた。

 黒い上着に身を包み、トパーズ色の瞳をしたナイトは、さながら黒猫のようだった。彼は窓に顔を寄せて言った。

「迎えに来たんだ、ランドル」

 わたしは後ろを振り返った。シーツのすれる音がしたのだ。フィリアは寝返りをうっただけだった。

「エリーゼには後から連絡を取ればいい。行こう」

 わたしは後退り、首を振った。

『エリーゼはここにはいない。いるのはフィリアという娘だけだ。だけど、今ここを出るつもりはない』

 わたしは初めて口にする“フィリア”の名前の響きを味わった。

 不思議な感覚だった。彼女がひどく身近に感じられた。

 ナイトの瞳が見開かれた。琥珀色の瞳が色を濃くした。彼は眩暈でも起こしたように、ゆっくりとまばたきをした。

「まさか……お前、彼女に惚れたんじゃないだろうな」

 その言葉の衝撃。わたしはわたしなりに彼女に対する気持ちを考えていた。だが、言葉にすると、ここまで違うとは。それはまるで罪のようにわたしを押し潰そうとしていた。

「友人になるのはいい。だが、惚れるなんて。行こう、ランドル。ここから出るんだ。手遅れになる前に……」

 それは受け入れられないことだった。わたしは頑として首を振った。

『ハロウィンが来るまではここにいる。彼女にとってわたしはペットなんだ。急にいなくなれば、悲しみもするだろう』

「早いか遅いかの差じゃないか!」

 ナイトは食い下がった。押し殺した声だったが、その口調は激しかった。彼が声を荒立てることなど、久しくなかったことだった。だが、わたしも折れなかった。

『ハロウィンが来るまでは……』

 わたしは繰り返した。

 彼は窓を突き破らんばかりに顔を近づけ、わたしを睨みつけた。

 わたしは瞬きもせず、彼を見返した。

 やがて彼は顔を引いた。後ろから差す月光が彼の表情をより苦渋に満ちたものに見せた。

 先に視線をそらしたのはナイトのほうだった。彼はフッと息をついた。肩をすくめ、驚いたことに微笑みをもらした。そして、自分を納得させるようにうなずいた。

「ハロウィンが来るまでだぞ」

 彼は念を押した。わたしはしっかりと首を縦に振った。それで彼は満足したようだった。

 壁をつくようにして手を離す。ナイトの体は一瞬宙に浮いているように見えた。それから自然な落下が始まる。

 軽い着地の足音が聞こえてきた。

 ナイトは去っていった。そして、わたしは残っていた。

 ホールを思わせるチェストの端まで行き、フィリアを見る。彼女の髪がシーツに流れているのが見えた。薄闇の中で色濃く輝いているのが。

 わたしはそうして、ガーゴイルの銅像のように、しばらく彼女を眺めていた。ナイトの言葉を反芻しながら……。


 わたしは今さらのようにフィリアへの思いをかみしめていた。

 彼女との関係は、わたしがネズミであって初めて成立することも思い出していた。人間とヴァンパイアがどうして愛し合えるだろう。人間にとってみれば、我々は狩人なのだ。いくら命を奪わなくても、わたしたちは人を傷つけずして生きてはいけないのだ。どんな人間がそれを許せるだろう。

 わたしはネズミのままであっても彼女のそばにいたいと思った。たとえ無力であっても、彼女に触れられるならば。束の間でも彼女に笑顔をもたらせるならば……と。

 わたしはなるべく彼女との時間を持とうと考えた。

 彼女と共にいられる時間は夜だけ。それも彼女が仕事から帰ってきてから眠りにつくまでの短い間だ。

 どれだけ誘っても彼女は決まった時間に眠りにつくのだ。

「また明日ね、ランディ」……と。

 その日はどんどん近づいてくる。だんだん時間が加速していくようだ。ネズミの声では状況を説明できるわけもなく、わたしは一人焦るばかりだった。

 ハロウィンまで時がない。それを過ぎてしまえば二度と彼女に会うことはできないのだと……。


 そして、それはやって来た。

 夕日が建物の陰に隠れ、空に青みがかかると始まりだった。

 体が急激に熱くなった。ひどく眩暈がして、心臓が早鐘のように鳴っている。

 あまりの苦しさに耐え切れず、床に倒れ伏した。冷たさを感じたのは一瞬だった。周囲の風景がぐるぐる回り始め、吐き気が襲った。

 四肢が引っ張られる感覚がする。関節が、骨がきしむ。

 続いて強烈な痛み。長い間ネズミの姿でいた後遺症だ。あまりの痛みに意識が遠のいた。

 どのくらい気を失ってだろう。

 気がつくと変身は終わっていた。頭を動かすとシャラシャラと髪が鳴った。投げ出してある手は見覚えのあるものだった。体の節々が痛み、重かった。硬く冷たい床が気持ちよかった。

 わたしはしばらく横になったままだった。

 やがて、なにかくぐもった音が聞こえてきた。モーター音だ。それがエレベーターのものだと気づいた時、わたしは飛び起きた。

 日はすっかり暮れていた。路には街灯が点り、家々の窓からも光がこぼれていた。

 足音が聞こえる。幾度となく聞いた足音だ。

 鍵を開ける音がして、彼女が部屋へ入ってくるのと、わたしが窓から外へ出たのは同時だった。

 姿が見えぬように壁に身を寄せる。

 この位置からではわたし自身にも彼女の姿は見えなかった。けれどもその行動は手にとるように分かった。彼女の気配が部屋を横切ってゆくのを感じた。

 どう表現すればいいだろう。おそらくはサーモグラフィーを通して見るような感覚だ。

 彼女はいつもどおり編みこんだ髪を手でほぐしながら、こちらへ近づいてきた。わたしから壁を隔てて一メートルも離れてはいまい。

 彼女を今の自分の目で見てみたい。そんな欲求がわたしの中で生まれた。いつも見上げていた彼女を見下ろしてみたい……と。もっともそれが実現されることはなかった。

 フィリアは呼んでいた。窓の傍のチェストに置かれた巣箱。その中にいるはずのネズミの名を呼んでいた。

 今までこんなことはなかったのだ。“ランディ”が巣箱の中にいないなんてことは……。

 彼女は動揺し、不安に思っていた。声のトーンが徐々に変わっていくのだ。それは今まで耳にしたことのないものだった。そして、その結末は想像できた。

 じっとしてはいられなかった。これ以上彼女の声を耳にし、彼女を感じているなんてことはできなかった。

「ランディ……」

 部屋の中を探し回る足音。声が次第に震え始め、力を無くしていった。彼女は泣き出していた。わたしの名を呼び続けていた。

 わたしは心を閉じた。耳を見えぬ手でふさいだ。

“今わたしが出て行ったところで何にもならない。これ以上彼女に関わるわけにはいかないんだ”

 そう自分に言い聞かせた。

 それからわたしは最善の策をとった。その場から去ったのだ。ナイトがしたのと同じように。

 わたしはあえて後ろを振り返らずにいた。彼女のことを考えずにいた。それでもわたしの足取りは重かった。それが変身のせいだけではないことは分かっていた。

 風がやけに冷たく感じられる。体の内側まで入り込んでくるようだ。周りの風景も人間にもまるで親しみもつながりも感じられなかった。全てがかつてと違って見えた。

 それは一過性のものだとは分かっていたのだが……。

 わたしは先を急ぐ旅人のように、顔を上げずに街を歩き続けた。



 これで良かったのだ

 これこそ一番の方法だったのだ

 わたしは本当にそれを信じているのだろうか

 いや、信じられればと思う

 そうすれば、どれだけ楽になれるだろう

 胸をかきむしらんばかりの日々

 思い出すのはフィリアと過ごした時間

 わたしは間違いを犯したのではないだろうか

 彼女を一人置き去りにしたことになるのではないだろうか

 彼女とつながりをもつ存在をどうして確かめなかったのだろう

 ナイトは諭した

 『それは思い出でしかないんだ、ランドル。彼女にとっても全く同じことなんだぞ』

 至極当然なことだ。父の言いたいことは良く分かっていた

 昔のわたしだって同じことを言うだろう

 友人がその悩みを抱えていたなら、わたしだって言うに違いない

 だが……

 わたしは気がつくと、彼女の姿を思い描いているのだ

 “忘れろ!”

 それはいいことに思えた。可能ならばの話だが

 現実のわたしはフィリアのマンションを意識的に避け続けていた

 それは忘れるというには、ほど遠いやり方だった。

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