フィリア4 (2)
ランドルの身じろぎする音が聞こえた。地面と靴が擦れ合う音。私は彼へと視線を移した。
唇は結ばれていた。牙の見えない彼は本当に人間らしかった。
「フィリア……」
囁くような声。薄闇のせいで黒く見える瞳が私をとらえていた。
まるで善良な人間のように見えた。その唇の向こうに牙が隠されているなんて、誰が考えつくだろう。実際に目にした私でさえ、信じられないのだから。
一瞬、私は彼の唇を開き、牙を覗きたい衝動に駆られた。
ランドルの足元の女性が呻いた。顎を胸にうずめるようにしている。完全にほどけてしまった金髪が彼女の顔を隠していた。
「あなたは私にこんなことをしようとしたのね」
私は胸を押さえながら言った。掌で心臓の音を感じていた。
彼は傷ついたように唇を歪ませた。
「私は彼女と同じだったんだわ」
湿気を帯びた生温かい風が体にまとわりついた。
ランドルは喉を片手で押さえながら、地面に座り込んでいる女性を見た。そして、首を振る。めまいでも起こしたかのように、彼はきゅっと目をつぶり、眉をひそめた。
「他に何をしろって言うんだ。わたしの正体は話したはずだ」
ゆるぎない自信を感じさせる声。開かれた目が私へと向く。
「だからこそ、君はわたしを受け入れられなかったんだろう。当然だ。君は賢明だったんだ。わたしの方が愚かだったんだよ」
変わらない彼の声。初めて言葉を交わしたときと同じ声。それは私を混乱させた。
私は彼に触れたかった。彼の息遣いが感じられるまで近づきたかった。だが、間には広い空間があり、そこに壁でもあるかのように私たちを隔てていた。
私は心の中で彼の名を呼んだ。何度も呼んだ。彼がその特別な能力で、私の心を見抜いてしまってもいいと思った。なのに、彼はそこに立ち、変わらない位置を保っていた。
ランドルは地面の女性へ近づいた。彼女は手を伸ばして、彼を迎えようとした。唇が微かに動いていた。彼の名を呼んでいるのだろうか。
それでも、彼はその手に触れようとしなかった。首筋に手をやり、血の流れる傷口を押さえる。女性は微笑んで、さらに彼に喋りかけようとした。
手を離したランドルは、彼女にかまわなかった。身を引き、私を見る。いや、私を見ているわけでもなかった。彼の視線は私を通り越していた。私の背後の何かを見つめているようだった。
彼は歩き出した。傍らを通り過ぎていく。まるで私など存在しないかのように。
身動きできなかった。彼を視線で追うことさえできなかった。立ちすくみ、うつむいているだけだった。
足音が後ろに遠ざかっていく。ランドルは私から離れていこうとしていた。彼の後ろ姿が離れていく。私が振り向いたなら、それが見えるはずの話だが。
勇気がなかったのだ。振り返っただけで何かが起きるなどとは信じていないのに、できなかった。私がどれだけ彼をこの目で見たいと思っているところで。
そこには混沌とした恐怖があった。まるで母を亡くした後、毎晩出て行く父を前にしているようだった。父はいつ姿を消しても不思議ではなかったのだ。
だが、私は振り向いた。いや、正確には振り向かせることが起きたのだ。
声。私の名を呼ぶ声。それはランドルのものではない。私を呼んだのはクレバー・ストロークだった。
見ると、ランドルによって押さえ込まれていた。片手で胸を押され、壁に押し付けられているストロークの姿。恐怖で見開かれた目。
ランドルの手を引き離そうと、両手で掴んでいる。
手をついているのは、ただの壁だとでも言わんばかりだ。無表情にランドルは彼を見つめていた。
ストロークの顔が苦痛に歪む。むせぶような悲鳴を耳にして、ランドルは感情を取り戻したようだった。はっと手を離す。ストロークはその場でしゃがみこみ、咳き込んだ。
ランドルは私を見、そして、再び彼を見る。背を丸める彼の腕を掴み、身体を起こした。
あまりにすばやい動きだったので、ストロークの頭が反り返りそうになった。彼の髪がくしゃくしゃになり、目にふりそそいでいた。それでも、彼はそれを払うことができなかった。
ランドルが彼の顔をじっと見つめていたのだ。視線で穴でも開けるつもりのように。ストロークはニ、三言罵るように何かを口走っていた。すると、ランドルは何かをそっと話しかけ、それから彼に向かって微かな笑みを浮かべた。
ストロークは凍りついたようになった。牙を見たわけでもないだろうに。
ランドルは手を退け、彼から離れた。
通りは目の前だった。その姿は道路を照らす街灯の光を通り抜け、そして、闇に消えていった。
私は数秒は動けなかったと思う。ランドルの後を追って走り出したとき、その気配さえも感じられなかったのだから。ストロークの前を抜け、通りの見える路地の入り口で、私は彼が去ってしまったことを知った。
立ち尽くす私に、どれくらい経った頃か、ストロークが声をかけた。
「取り返しがつくなら、彼の元へいくべきだと思うよ」
彼は私の背後でそっと言った。
私は茫然としながら振り返った。彼の口からこんな言葉が出てくるなど、想像がつかなかった。
ストロークはいつもの優しげな微笑を浮かべていた。ポケットをまさぐり、そこから取り出したものを私に差し出す。それはハンカチだった。
このとき初めて、自分の頬に伝わる涙に気づいた。そして、いつの間にか降り出した雨にも。濡れ始めた道路にも気づいた。
私はハンカチを受け取った。
「きっと、彼は僕たちのことを誤解していると思う。早く会って誤解を解くことだよ。でないと、本当に取り返しのつかないことになりかねないだろう」
私は涙をぬぐうこともできなかった。
「誤解だなんて……」
「君は彼を好きなんだろう。彼だって君を想っている。どこに問題があるというんだ。彼は僕に言ったよ。君と幸せになってほしいって。だけどね、君は彼を想っているじゃないか」
「いいえ、ストローク。私は……」
言葉に反して、身体が熱くなっていた。私はハンカチを握りしめた。
ストロークの頭や肩に降り注ぐ細かい雨。闇を背景に、雨は街灯の光に照らし出されていた。
私は彼の顔をまともに見れなくなった。彼は歩み寄り、私の両腕を掴んだ。そして、激しく揺さぶる。
「これで本当にいいのか? これで君は満足なのか?」
いつもの彼に似合わず、声を荒立てていた。それで、私はますます気弱になってしまった。私の視線は、湿って黒い地面をうろうろとさまよった。彼は私から手を離した。
「君に必要なのは彼だ。僕じゃない。僕は彼の身代わりにはなれない」
おさまっていた涙が再び溢れてきた。私は去ってしまったランドルと傍にいながら繋がらないストロークのことを思った。
ストロークは私の孤独を癒す、ランドルの身代わりに過ぎなかったというのだろうか。
ランドルには何も声をかけられなかった私。何度かチャンスはあったのに、それを活かせなかった。たった一言でも良かっただろうし、傍に寄り添うだけでも良かっただろうに。私にはそのどちらもできなかった。
勇気がなかった。勇気。言葉にするとなんと簡単だろう。今までの私の運命を全て左右してきたものだというのに。
私は空を見上げた。涙にかすんだ雨が静かに落ちてくるのが見えた。私はストロークになんて失礼なことをしていたのだろう。彼の優しさにつけこんで、利用したのだ。
私は彼の上着を掴み、引き寄せた。泣きじゃくりながら、何度も詫びた。彼は私を責めはしなかった。それどころか、私の肩を叩きながら慰めの言葉をかけていた。
「君のせいじゃないよ」「彼とこそ幸せになるんだよ」……そんなことを、彼は何度も囁くように言っていた。
雨が次第に激しさを増す暗い通りで、私たちは恋人同士のように抱き合っていた。私は泣きながら。
皮肉なことに、このとき初めて、私は彼との交流を感じていた。