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フィリア4 (1)

 ランドルの薔薇。その最後の一輪が花びらを落とした。

 薔薇を失うと同時に、彼との繋がりも全て消え去ってしまったかのように思えた。それは、父を失って以来の喪失感だった。私自身があの頃の時分に戻ったようだ。

 特に仕事が終わる夕暮れ時は、私を不安にさせた。独りで過ごさなければならない、あの部屋へ帰るのが嫌だった。通りを歩いていても、家族連れや肩を寄せ合っているカップルが否が応でも目に付いた。

 私はかつての自分を慰めてくれた本に頼った。ストロークはよいアドバイザーだった。

 彼の勧めで幾冊もの本を手にした。それは彼の店であったり、図書館であったりした。本のインクの匂いがどれほど私を癒してくれたか。

 そして、クレバー・ストローク。その穏やかな物腰や言葉が落ち着きを与えてくれた。彼への返事はまだしてはいなかったが、その態度は変わらなかった。せかすこともなく、待っていてくれた。その時の私は彼に甘えていたのだろう。それを思い知った。

 そう、あれは今にも雨が降り出しそうな雲の厚い夜だった。かなり夜も更けていて、人通りもまばらになっていた。

 私はストロークにマンションへ送ってもらう途中だった。彼は面白い新刊書があるからと、しきりに私に勧めていた。

 足音さえよく響いていた。彼の柔らかく細い声も簡単に聞き取れたくらいだった。

 見えるのは黒い道路とそこに停められた車。道路の両脇の建物とそこから漏れる光。それくらいなものだった。

 突然、女性の高い笑い声が聞こえてきた。響くヒールの音。五軒ほど先の角から、笑い声の主が飛び出してきた。街灯が作り出す光の輪の中で、彼女は歩をゆるめ、後ろを振り返った。

 再び笑い声がその唇からもれる。

 光がスポットライトのように降り注いでいる。二十歳そこそこの女性で、ミニのワンピースを着ていた。アップにした金髪がほつれ、肩に落ちかかっている。

 別の重たい足音が響く。女性は再び走り出した。何度も後ろを振り返りながら。

 その彼女を追う足音は男性のものだった。

女性とは違うゆっくりとした足取りで、光の中に入る。

 黒髪の長身の男性。彼はいったん立ち止まり、まぶしげに手をかざして、女性のほうを見やった。

 私はその姿に見覚えがあった。まさか、こんなところで……。呆然と立ち尽くす私を見て、ストロークも立ち止まる。

 再び歩き出した男性の姿は光の下から外れてしまった。

「ごめんなさい、先に帰っていて」

 私はそう言って歩き出す。振り返ることも忘れていたし、返事も待たなかった。

 姿を消した男性を追いかけて、足を早めて、そしてついには走り出した。道路を横切り、建物の陰に隠れてしまった彼を追って。

 何が起こったのか分からずに、茫然とするストロークを置き去りにした。

 もうランドルと思しき姿は見えなかった。それでも、辛うじて足音だけは聞こえていた。

 冷ややかな風が音を立てて、十字の交差点を吹き去っていく。建物の間の路地が深い闇を作っていた。

 頼りになるのは耳だけだ。

 私は動悸打つ胸を押さえながら、立ち止まった。足音が途絶えたのだ。しばらく聞き耳を立ててみるが、再び音がすることはなかった。

 ゆっくりと歩き出し、路地を覗いていった。街灯の届かない暗闇に何度目を凝らしただろう。彼を本当に見失ってしまったのではないか。そんな恐れをいだき始めた頃だった。

 覗き込んだ暗い路地。あるのは闇だけだ。私は身を引き、歩き出そうとした。

 その時だった。何かの音を聞きつけた。音、いや、声だ。微かに聞こえる呻き声。それも女性の。

 私は目を細めて、路地の奥を見極めようとした。人の気配。見えるのは、やはり闇だけ。その暗さに私は戸惑った。だが、それも数秒だった。

 路地に足を踏み入れる。

 次第に目が慣れてきて、両脇の煉瓦の壁がぼんやりと見えてきた。奥は行き止まりになっているらしい。淡い光が壁の上部だけをぼんやりと照らしだしている。

 何かが奥でわずかだが動いた。私ははっと立ち止まった。

 慣れてきた目にぼんやりとした輪郭が映る。奥の壁にもたれるようにして、男女が抱き合っていた。

 女性のほっそりとした腕は相手の背中をしっかりと抱きしめていた。男性の顔ははだけて見える彼女の左肩にうずまっている。女性の喘ぎ声。私はただならぬ思いを抱き始めていた。

「ランドル……」

 私はそっと呟いた。独り言といってもいいくらいの声だった。

 それでも、彼はそれを聞き取ったらしかった。顔を上げ、こちらを見る。女性の肌を伝わる血が見えた。

 彼は威嚇するかのように、牙をむき出しにした。血で赤く染まった牙。瞳が一瞬、銀色をおびて光った。

 彼は女性を振り払うようにして、押しやった。けだるげな彼女は地面にへたり込んだ。

 ぼんやりとランドルを見上げている。恍惚の残り香が見える表情。

「こんなこと……」

 私の目は彼女に釘付けになった。ランドルではなく、彼女に。

 薄いコートははだけ、ワンピースのボタンが外れている。首筋には牙の痕。その白い肌を汚す血の筋。そして、彼女の表情ときたら。今しがた彼の愛を受けたといわんばかりだった。

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