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ランドル1 (2)

 かくして、わたしと彼女との生活が始まった。

 わたしの不安は的中した。彼女がこの部屋の主だった。エリーゼはいなかった。

 そして、わたしの正体を彼女は知らなかった。これは憶測であるが、間違いはないだろう。彼女はわたしにチーズやパンを与えようとしたのだから。

 そして、わたしを「ランディ」と親しみをこめて呼ぶのだ。それはエリーゼが少年だったわたしに付けた愛称だった。

 いったい父はどんなメモを残したのだろう。わたしは首をひねった。

 少ない時間の中で書き残したことが幸いしたには違いないのだが。余る時間の中で書いたものなら、それはわたしを危険にさらすことになっただろう。

 とにかく彼女はわたしに優しく接してくれた。

 陽光を遮るには十分な、布の覆いのついたダンボールの巣箱を与えてくれた。わたしは昼間その中で眠りについた。彼女がそれを邪魔することは決してなかった。

 仕事が休みらしい時でさえ。わたしが目を覚ますのを待っていてくれた。

 彼女はいつも追い詰められた獣のようだった。張り詰めていた。

 夕方、仕事から返ってきた彼女は、見ていてかわいそうなほどだった。

 部屋のドアを閉めて、やっと彼女は開放されるのだ。ふっと息をつき、きっちりと結い上げた髪をすぐさまほどく。

 肩を覆う髪が彼女の頬を縁取る。窓のそばの椅子に座った彼女を、太陽の名残が温かく包むのを何度も見た。淡い光にもかかわらず、ひりひりと痛む目も気にならなかった。

 オレンジに近い赤い光の中で、金色に縁取られながら波打つようなラインを描く髪。そして彼女は、わたしの視線に気づき、振り返るのだ。

 わたしはその瞬間を愛した。部屋に入ってきたときの彼女とはまるで別人だ。古く美しいポートレートのようだった。

 どうして、こんな美しい髪を編みこんでしまうのだろう。わたしは疑問に思い、残念に思った。

 次第に彼女に惹きつけられていくのを感じた。

 柔らかくウエーブした栗色の髪。紅茶の色そっくりな瞳。東洋の血が混じっているのではないかと思うようなきめ細かい白い肌。そして、彼女の笑顔ときたら。

 わたしはそれを見るためにおどけて見せるのだ。

 チーズをおもちゃ代わりに振り回したリ、彼女の腕をよじ登ったり、豊かな髪に鼻先をもぐらせたり。思いつく限りのことをやってみた。

 彼女はそのたび、わたしの頭を指でなでながら、くすくす笑うのだ。

「いたずら好きのランディ」……と。

 それはわたしが小さな体に閉じ込められているということを忘れさせてくれる瞬間だった。

 わたしがヴァンパイアであることも。

 だが、それは一時的な忘却でしかなかった。

 わたしは狩人だった。常に血に飢えた存在だった。

 わたしは彼女が眠りについた夜中、巣箱を抜け出すのだ。ネズミらしく台所の隅に潜り込むのだ。

 そこにはわたしの仲間たちがいた。毛むくじゃらの犠牲者達が。わたしは素早く飛びかかり血を奪うのだった。

 もちろん好みの味などではなかった。わたしが常に欲するのは人間の血だった。

 それでも眠っている彼女を襲うなどできるわけがなかった。彼女の安らかな寝息を聞いていると安らいだ。少女のような寝顔は保護欲をかき立てた。

 わたしは彼女を守りたかった。彼女を苦しめる全てのものから。

 しかし、わたしはネズミでしかなかった。悪夢にうなされ、泣きながら飛び起きる彼女を見ているだけだった。

 彼女にとってわたしはペット……守るべきものなのだ。

 わたしは無力だった。それを思い知らされた。

 ある晩のことだ。わたしは床の上で小さなボールに戯れて遊んでいた。彼女がわたしへとボールを転がし、わたしがそれに飛びつくという形だ。

 音がした。聞きなれない耳障りな音だ。

 わたしは首をめぐらせ、発信源を見やる。それは電話だった。

 彼女の部屋に住み始めてから、初めて耳にした呼び出し音。

 彼女は慌てて受話器をとった。まるでそれが逃げてゆくものかのように。

 呼び出し音が途切れる。

「はい、もしもし……」

 受話器から声が漏れてくる。低い……男の声だ。

「ええ、娘のフィリアです」

 わたしはこの時、初めて彼女の名前を知った。彼女と出会ってから三週間は過ぎた、この時初めて。

 改めてフィリアを見上げる。彼女は微かに震えているようだった。

「でも、そんな……私には……」

 相手はひどく怒鳴り散らしている。

 わたしにも言葉が聞き取れるほどだ。柄の悪い脅しつけるような言葉。

 フィリアの体が凍りついたかのように動かなくなった。男が声高く罵ったのだ。

 そうして電話は切れた。

 フィリアは大仕事のように受話器を戻し、その場に座り込んだ。

 彼女の顔は色を失い、瞳には霞がかかったようだった。

 わたしはすぐさま傍へ駆け寄った。彼女を力づけようとした。笑顔を取り戻させようとした。

 無駄だった。

 わたしの声はネズミの声でしかなかった。

 彼女はわたしを見ようとはしなかった。

 わたしはただ彼女が泣き出すのを見ているしかなかった。床に手をつき、髪が流れるままにしている彼女を……。

 わたしはちっぽけなネズミでしかなかった。

 彼女がその日、わたしを振り返ることはなかった。ベッドの中で激しく泣き続けていた。

 疲れ果て、自然な眠りが彼女を誘うまでそれは終わらなかった。

 まったく情けない気分だった。わたしは元の姿に戻りたかった。

 彼女を慰め、抱きしめることができたなら……。

 わたしは苛立ちを覚えた。

 ハロウィンを迎えるまでこの姿のままなのだ。一ヶ月以上も先のことだ。

 それまでわたしにできることといえば、祈ることだけだった。

“彼女を悲しませることが起きませんように……”

 わたしは空腹に身を任せた。

 ネズミたちにしてみれば、恐怖の一夜だったに違いない。

 その時のわたしは、このマンション全てのネズミを食い尽くす勢いだったのだから。

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