ランドル4
あの夜のベッドでの出来事。あれはわたしの錯覚だったのだろうか。
伝わるフィリアの体の震え。背中に回された熱い手。これまでになく彼女を近くに感じ、この腕に抱きしめた。あれらは皆幻だったというのか。
彼女の言葉に動揺し困惑したわたしは、思いもかけない形で自分の正体を明かしてしまった。
そして、彼女を傷つけた。最も軽蔑してきた下賎なやり方で。それが、どれほどわたしの心を打ちのめしてしまったか。
わたしに彼女を守ることなどできるはずもない。
昼間も彼女を守り、支えていくことができるのは、わたしではない。父の言ったことは正しかったのだ。
人間に必要なのは人間。彼女の唇からもれたクレバー・ストロークという名前の。
それはいったいどんな男なのだろう。
いや、そんなことを考えてどうする。彼女が幸せであればそれでいい。その男と幸せになれるのであれば、わたしは……。
「ランドル……」
フィリアがわたしの名を呼ぶ。
彼女は目の前に立っていた。満天の星空の下、月に照らされる丘の上で、わたしたちは寄り添っていた。
明るい月の光に、彼女の髪が波打つ海原のように煌く。滑らかな栗色の髪。身にまとったスリップドレスは、わたしたちの正装でも用いられる紅い色だった。
「綺麗ね。本当に綺麗」
彼女は溜め息混じりに呟く。
丘には白百合が一面咲き乱れていた。甘い香りが漂っている。風に吹かれて揺れるたび、その香りは増すようだ。月の光に照らされて、それは幻想的な光景だった。
「ありがとう。連れてきてくれて」
フィリアは微笑んでいる。わたしに向けられた微笑み。
「君に見てもらいたかった。きっと喜んでくれると思ったんだ」
わたしは近くの百合を手折り、捧げた。彼女はそれを大事そうに受け取ると、匂いを嗅いだ。甘い香りが濃くなる。
わたしはその香りに溺れてしまいそうになりながら、そっと彼女を抱き寄せた。艶やかな髪に口づける。
彼女は身じろぎした。手にしていた百合が地面に落ちた。それに気づき、わたしは体を起こした。
「……ランドル」
彼女の唇がわななく。
「お願い。キスならこっちに……」
声さえ震えている。髪を片側に寄せて、彼女は無防備に首筋をさらした。
思わず言葉を失う。
紅い衣から覗く肩や項は月の光を浴びて、輝きを放っているように見えた。そして、しみ一つない彼女の首にはその白さを穢す二つの傷跡があった。何によって傷つけられたものかは、すぐに分かった。
彼女は潤む目でこちらを見つめている。わたしは茫然と立ち尽くすだけだ。
「あなたは私に印を付けてくれた。私はあなたのものよ。ランドル……」
それはわたしが望んだ言葉だっただろうか。恐れた言葉だっただろうか。
風が吹き抜けてゆく。百合の群れがざわざわと揺れている。
「……嘘だ」
わたしは彼女から後退りした。
「これはあなたが……」
「そんなはずはない!」
追いすがる彼女に背を向ける。
「でも、これはあなたがくれたのよ」
彼女はわたしにすがりついた。背中に押し当てられる熱い彼女の体。
わたしは振り返ることもできなかった。震えているのは彼女なのか。それとも……。
「これがあなたの願いだったんでしょう?」
背中で顔を寄せた彼女が囁く。
違う。違う。そんなことは断じてない。わたしは目をつぶった。
「ずっと私にこうしたかったんでしょう?」
「そんなことは……!」
わたしは目を見開き、叫んでいた。
その声に驚いたのか、彼女は身を引いた。わたしから手を離すと、身を翻して丘を駆け下りていった。
ドレスの裾が翻り、白百合がさざめく。足にまとわりつくそれを気にもせず、踊るようにして走り続けていた。背中で広がる栗色の髪。月の光が雫のように髪の上で跳ねている。
その光景に、わたしはのまれていたのかもしれない。追いかけるのが思いのほか遅れてしまった。
丘を下りきったところに彼女は立ち止まっていた。わたしもまた足を止める。
彼女の視線の先に、一人の男の姿があったのだ。見渡す限り白百合の中で、わたしたちに背を向け、月を仰いでいる。
男はゆっくりとこちらへ振り向いた。彼女へ向かって両手を広げる。迷いもせず、フィリアはその胸へ飛び込んでいった。月を背にした二人は一つの影のようだった。男の表情もその影に閉ざされ、まったく分からない。
「お前は……」
わたしは正体を見通そうと目を凝らす。わたしの目はどうかしてしまったのだろうか。暗闇をも見透かす力はどこにいったのだ。
ようやく、その男が笑っているのに気づいた。白い歯をこぼし、わたしを見て笑っている。
『あなたに……』
笑いを含んだ男の声。その声は、幾つもの声が重なっているような不思議なものだった。
『彼女が守れますか? 無力なあなたに……』
「なんだと?」
この男は、何者を前にしてそんな言葉を発しているのか、分かっているのだろうか。無知とは恐ろしいものだ。一人の人間が、夜のヴァンパイアを前にしてそんなことを口にするとは。
わたしは一歩を踏み出した。押さえきれず、あふれ出してくる鬼気に、足元の百合がみるみると萎れていく。
フィリアを抱き寄せたまま、男はまだ笑いをもらしていた。
『自分が何者なのか思い知るといい』
厳かにさえ聞こえる声を耳にしたときだった。
変化が起こった。男の背後の暗闇が変質を始めたのだ。恐ろしいほどの勢いで、闇が溶かされていった。光が夜を押し上げている。そんな感じだった。
体が、細胞が悲鳴を上げ始める。恐ろしい苦痛が襲いかかる。
信じられない速さで陽が昇ろうとしていた。周囲が朝焼けの色に染まる。
わたしは耐え切れずに崩れ、膝を付いた。獣じみた呻き声が漏れる。
こみ上げてくる苦しさに、枯れた百合ごと土に爪を立てた。百合の群れは何の遮りにもならず、光はわたしを包み込んだ。赤く変色した皮膚はじりじりと縮み、焼け始めていた。
フィリアの瞳に映るのは、地獄の業火に焼かれる化け物だ。彼女は男の腕の中で眼前の様子に、ただただ驚いていた。
二人の背後の丘から、太陽が姿を現し始めた。光は強さを増し、黄金色にきらめいていた。その圧倒的な力に、夜の一族であるわたしはひれ伏すしかない。
炎が上がり、苦痛は激しさを極め、わたしはとうとう悲鳴を上げた。凄まじい咆哮が夜明けの空を突き抜けた。
そして――
わたしは目覚めた。息を乱し、冷や汗に濡れながら。
なんというリアルさ。皮膚の焼ける鼻につく匂いもまだ残っているようだ。思わず手をかざし無事を確かめる。
ただの夢だ。わたしはベッドから体を起こした。いつものすっきりとした目覚めではなく、体がずしりと重かった。
辺りを見回し、自分の部屋であることを確認する。
そうだ。何も心配はいらない。ここに陽の光が差し込むなんて、ありえないことだ。
わたしは溜め息をついた。フィリアの元を去ったというのに、こんな夢を見るとは。夢の中で、わたしはまだ彼女を求めていた。彼女を望んでいた。
そして、あの男が現れた。光の中でわたしを嘲笑ったあの男の正体は……。
わたしはかぶりを振った。そんなことはどうでもいいことだ。
そうして、自分に言い聞かせる。あれは夢でしかない。そう、所詮はただの夢なのだと。