フィリア3 (4)
ランドルの指先がセーターの襟を引っ張る。そのまま顔が私の首筋へ沈んでいく。
唇が肌に触れた。鳥肌の立つような感覚。そして、歯の感触。
私はこのとき、ようやく事態を知った。私がどうなるのか、そして、彼が何をしようとしているのか。
私は悲鳴を上げた。彼の胸を押して離そうとする。
唸り声が私を威嚇した。
皮膚の圧迫感。首に彼の牙が沈んでいくところが想像できた。
私は絶叫した。自分の声で耳がどうかなるほどに。
彼の腕が私の体をしっかりと捕らえていた。支えを失った人形のように、のしかかってくる。彼の重みで私はドアにもたれたまま、ずるずるとしゃがみこんだ。
それにつれてランドルも腰を折る。私の首筋から唇を離すことはなかった。
鋭い痛みが走る。
私は彼の襟元を握りしめた。
「ランドル……!」
それは言葉として発せられたものではなかった気がする。
彼のシャツを握る手に思いのほか力が入った。手のひらに自分の爪が刺さるほどに。
裂ける音がしてシャツのボタンが飛び、彼の胸元があらわになった。
いつの時か、重みを感じなくなった。彼の体の重み。実際、いつ彼が唇を離したのか分からない。
気が付くとランドルは私を押しやっていた。よろよろと廊下を斜めに進み、壁に肩をぶつける。
髪の毛に指先を食い込ませるようにして額を押さえていた。
肩で細かく息をしている。数分前の彼と別人のようだ。壁に手を付き、どうにか立っている状態だった。電球の白っぽい光がなんと彼を弱々しく見せたことか。
「そうだ。これこそ現実なんだ。わたしは人間じゃない」
見えるのは彼の後ろ姿。打ちひしがれているようだった。
私は足を投げ出して床に座り込んでいた。恐る恐る首にやって手を見てみると、血がにじんでいた。痛みはほとんど感じなかった。大した傷にはなっていないらしい。
夜の冷気が感覚として戻ってきた。遠くでパトカーのサイレンが聞こえる。
先ほどのことが現実だとは思えなかった。だが、彼は私の前にいた。私に背を向けたままで。
肩の傾斜はいつもに戻り、息遣いもまったく聞こえなくなった。彼が生き物として存在しているのか、不安に思ったくらいだ。
すると彼は不意に身動きした。ゆっくりと体ごと振り返る。髪は乱れていたし、目は伏せられたままだった。唇から溜め息がもれる。
「だが、君を愛している。君には本当に幸せになってほしいんだ」
彼はちらりと私を見た。青い瞳が鈍く光った。私は彼と視線を合わせることができなかった。先の床を見つめるだけだ。
踵を返す音と衣擦れの音が聞こえた。続いて足音とドアの開く音。
顔を上げたとき、彼の姿はもうなかった。非常階段のドアが遅れて音を立てて閉まる。
それから、金属の階段を踏む音がやたら響いて聞こえた。
それが私を責める音に聞こえたのかもしれない。それとも彼の感情が私に移ってしまったのだろうか。
私はぼんやりとした感傷に包まれていた。心に荒涼とした風が吹き渡っている感じだった。
冷気を全身で感じながら、私はようやく立ち上がった。床に落ちてしまったバッグを拾い上げる。鍵穴に差し込んだままの鍵を回し、部屋の中へと入った。
廊下よりさらに暗い空間がそこにあった。はかなげな月光が窓から降り注いでいる。朝、そのままにしていたガラスの破片が冷たく輝く。
廊下より差し込む長細い光が、それはそれは大切なもののように思えた。
私は壁をまさぐり、電気を点けた。
部屋に光があふれたら、この感覚は消えると思った。
だが違っていた。赤々と照らされた部屋がなんと寒々しく感じられるものか。私は今日まで気が付かなかったのだろうか。毎日この部屋を見、この部屋で暮らしているというのに。
部屋全てに電気を点けて回り、テレビのスイッチを入れると、気分も収まってきた。
私は知りうる限りの陽気な歌を口ずさみながら、ガラスの破片やつぶれた箱を片付けた。昨日のことも先ほどのことも考えないようにした。ただ、片付けるだけ。
歌をハミングに変え、シャワーを浴びる。何度も同じフレーズを繰り返す。
寝支度を整えた。寝室以外の電気を全て消し、お化けにおびえる子供のようにベッドに飛び込んだ。いつもなら、眠るときは消してしまうベッドサイドの電気も今日は消せなかった。
私は布団を引き上げた。ひんやりとしたシーツの感触。体を丸め、早く温まろうとする。
その時だった。私は胸苦しさを覚えた。心臓が一瞬縮んだような感覚。
そして、私は感じた。私を抱きしめる腕の感触と温かさの幻を。額に押し付けられた唇の感触が蘇ってくる。
彼の薔薇が一枚、花びらを散らすのが見えた。サイドテーブルには花びらが重なって落ちていた。
私の心は、かき乱された。実感した。今の私が彼をどう感じていようと、あの時、彼の傍にいた私は幸せだったのだろう。
少なくとも、孤独ではなかったはずだ。今の私のように電気を点けたままでないと、眠れないということはなかっただろうし、寒さも感じてなかったに違いない。
彼を追い立てた私は、独りだ。誰の魂とつながることもなく。
私は目をつぶり、眠ろうと努力した。早く眠りに着きたかった。夢を見たかった。夢の中で開放されたかった。
何の制約も受けず、本当の自由を手に入れられる夢の中。
ベッドに横たわり、待っていると、夢のほうから近づいてくる。軽い足音を響かせて。
私は喜び勇んでドアを開け、それを迎え入れた。抱きしめて、キスでもしてやりたい気分だった。




